2020年度卒業論文 |
鈴木純也 | 就業機会の創出から地方創生を考える-長野県上田市をモデルにして- |
吉岡拓真 | 日本国内における陸上競技場の立地特性 |
濱野海斗 | 酒類の生産消費と習慣 |
安達 翔 | 回転寿司店の立地特性と地域性 |
内田健登 | 住宅密集地区における地震災害への減災対策-東京都足立区を事例に- |
春原友香 | 日本のご当地キャラクターの特徴と地域の関連 |
藤田和巳 | 平成の大合併前後における人口動態―埼玉県秩父市を事例に- |
古屋知彦 | 小規模商圏J リーグクラブの自立的経営について-鹿島アントラーズを事例に- |
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2019年度卒業論文 |
仲地群星 | 校歌に歌われる景観要素とその位置関係 -神奈川県公立中学校を事例に- |
高橋 良 | ロックフェスティバルの拡大と創造都市 -下北沢を事例に- |
岡本眞東 | 航空ネットワーク分析による都市間の結びつきの考察 |
吉井里佳 | 東京都における宿泊施設の立地特性と新規宿泊施設の特徴 |
牧野蒼生 | 観光・レジャー活動におけるSNS投稿の傾向変化と行動分析-大阪・金沢を事例に- |
岡田沙織 | 池袋チャイナタウンの実態と中華系店舗の立地展開 |
佐伯建哉 | 台東区商店街の現状と課題 |
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2018年度卒業論文 |
成澤佳夏 | 中国北京市の景観保護への取り組みにおける実態と課題-南鑼鼓巷地区を事例として- |
深井良輔 | 重点整備地区におけるバリアフリー化の実態と空間利用-埼玉県熊谷市を事例として- |
加藤雅也 | グリーンツーリズムと地域活性化-沖縄県北部やんばるを事例に- |
黒須勇希 | コクーンシティの建設・規模拡大が周辺地域に与えた影響とショッピングセンターとしてのテナントの特性 |
伊藤耕祐 | 規制緩和以降の高速バスの動向と都市の結びつき |
原島汐帆 | 手描き地図からみた児童の知覚環境の実態と発達過程-埼玉県三郷市の小学校を事例に- |
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2017年度修士論文 |
斎藤 敦 | 高等学校地理教育におけるGISの利用状況と課題に関する研究―地理総合でのGIS活用に向けて― |
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2017年度卒業論文 |
法邑咲代子 | 海外クルーズ客船の寄港と地域の取り組みについて―青森県青森港を事例に― |
吉田優志 | エスニック空間の形成過程―JR京浜東北線西川口駅周辺を事例に― |
山本翔也 | R.W.バトラーの観光地ライフサイクル論と二次元作品コンテンツツーリズム―静岡県沼津市におけるラブライブ!サンシャイン!!の事例をもとに― |
橋立光貴 | 埼玉県南部におけるコンビニエンスストアの立地展開と米飯工場・配送センターの立地の関係性について |
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2016年度修士論文 |
春原光暁 | 東京都中央区におけるマンション供給と土地利用の変化に関する研究 |
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2016年度卒業論文 |
阿部希望 | 群馬県における公立小中学校の廃校跡地利用 |
相知颯太 | サッカースタジアム建設が都市計画に与える影響について |
大塚裕貴 | 第二次世界大戦後における栃木県小山市内の人口増減の傾向と市街地の住宅地形成過程 |
黒住 恒 | 鉄道と沿線開発について-武蔵野線を事例に- |
寺島 圭 | 城址に建設された天守の再建経緯と意義-埼玉県の3城を事例に- |
原田哲朗 | 新幹線開業が鉄道貨物輸送に与えた影響の基礎的研究 |
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2015年度卒業論文 |
福永完治 | 鬼怒川温泉における観光の変遷 |
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伊藤卓也 | レギュラーガソリン価格の決定要因-多摩地域5市域を事例に- |
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岩井 駿 | 都心再開発オフィスビルにおける入居企業と併設商業施設の特徴について-東京駅周辺を事例に- |
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生越正則 | 新しい公共交通に関する研究-コミュニティサイクル(CCS)に着目して- |
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斎藤 敦 | 平成の大合併による広域基礎自治体の変化-新潟県村上市を事例に- |
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服部将斗 | 新幹線新駅の周辺整備と地域交通の再編-北陸新幹線延伸区間を事例に- |
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萩原啓人 | 一村一品運動の情報化 |
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濱屋みなみ | 農業生産法人が地域農業に果たす役割-埼玉県加須市油井ヶ島地区を事例に- |
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藤田浩輔 | 基地施設が与える周辺地域への影響-航空自衛隊中部航空方面隊入間基地周辺地域を例に- |
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2014年度卒業論文 |
三浦直己 | 加茂川の浸水被害とその対策について |
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加茂川は,岐阜県美濃加茂市山ノ上町に始まり,同市深田町にて木曽川と合流する河川である。本研究は,木曽川と共に洪水の歴史を持ち,近年の宅地化による影響も受けながら,平成22,23年と浸水被害のあった加茂川について調査したものである。
第1章は,「第1節,研究動機・目的」に始まる。そもそも私が川について研究を行おうと考えた動機は,身近に川があったことによって幼少のころから慣れ親しみ,川のせせらぎが好きだったからである。ある日,木曽川の河原で流れを眺めていたところ,いつも見る水位よりも高くなっていた。その日の午前中に台風が過ぎていたことから当然と言えば当然であるが,不思議に感じたのは翌日からであった。更に水位が高くなっていたのである。そして台風が通過した二日後にピークを迎え,今まで歩いていた箇所が濁流にのまれていたことに驚き,「そもそも川の水がいったいどこから,何日かかって,いつまで影響を与えることになるのか」という疑問が湧いた。こうして私は川について調べることに決めたが,木曽川は集水域が広すぎるため,どこに降った雨の影響がいつ現れるのかについては分かりにくい。そこでより身近であり,(一部市外へ出る地域を除き)市内で完結する加茂川を調べることとした。調べる目的としては,今までに身近でありながら考えたことのなかった土地や浸水被害への理解を深め,将来このような地域に住もうとした場合に,安全についての見方や考え方を養うことにある。次に,「第2節,従来の研究と違い」についてであるが,加茂川に関する研究は私の調べる限り存在しなかったため,加茂川総合内水対策計画と木曽川中流圏域河川整備計画の資料をもとに被害の状況や原因,対策などについて調べる。そして主に二つの異なる点から考察を行うことを目指している。一つ目に,降雨量と河川水位の関係。二つ目に,現地の状態について観点を変えたりしながら観察することにある。「第3節,研究方法」については,インターネットを利用し各種情報を揃えつつ,旧地図を入手し比較検討や,実際に加茂川沿いを上流まで歩くといった現地調査を行った。
第2章は,加茂川の概要である。「第1節,地形図からみた加茂川」では,浸水被害のあった地域の地形について知るために,25000分の1地形図を等高線によって色分けした図を作成し,対象地域の確認を行った。また,平成22年,昭和48年,昭和8年,大正3年の地形図を入手し,新旧比較に使用した。60~62.5m地点の水田地帯において,昭和48年までは住宅がほぼみられないが,平成22年には点々と建物が出来ている。大正3年まで遡ると,集落自体が浸水被害地域より東の62.5~67.5m地点に存在し,木曽川によって浸水するかは別として,加茂川によって浸水しないのは62.5m以上の場所になるということが分かる。「第2節,現地からみた加茂川」の中で,別の観点から新たなことを発見するために,実際に川沿いに対象地域だけでなく,川の始点まで約11kmを歩き記録を行った。木曽川合流地点から,住宅の有無によって市街地と考えられる先端の地点までは約4kmであり,それまでには多くの排水管を見ることが出来た。その地点より始点までの上流は水田や果樹園,畑などが広がる地帯になり,排水管ではなく,水田からの水路と合流している箇所が多くみられた。これら2章の中から,加茂川の浸水被害の大きな要因は,この4km~11kmに存在する水田などによるものではないだろうかと私は感じた。これについて,次の章で考えることになる。
第3章は,浸水被害についてである。「第1節,浸水被害の状況と原因」では,加茂川総合内水対策計画と木曽川中流圏域河川整備計画から調べたところ,原因は「市街化の進展等に伴って流域内の降雨が一気に加茂川へ流出すること,木曽川本川の水位上昇により加茂川からの自然排水が困難になることで,加茂川の水位が上昇して溢れ,家屋等が浸水する内水によるもの」である。前者について考えた場合,私が考えていた市街化の影響よりも上流域からの影響のほうが大きいのではないかという疑問とは相反してしまうのである。
そこで,「第2節,雨量と水位情報」の中では,浸水被害のあった前後の雨量や水位の情報を見ることで雨が降った後ピークの水位がいつになるのかについて調べた。上流の影響が大きいのであればピークは少し遅れるはずである。結果としては,平成22,平成23年どちらの場合も,降雨後1時間以内にピークを迎えていたことから,私の疑問は否定することが出来た。また,動機であった「いつ頃まで影響が続くのか」については,目視で確認できる高さの差を考えなければ,降雨の終わりから10時間後には収束する。
第4章は,浸水被害への対策である。「第1節,行政の取り組み」では,木曽川にかかわる国中心で行うこと,加茂川にかかわる県中心で行うこと,流域一帯にかかわる市や住民が中心で行うことなど,全部で26の施策について挙げている。「第2節,実際の状況」で,それらの進み具合を,現地調査によって観察している。加茂川排水機場の工事予定現場や,加茂川の河川改修工事,浸水地域内にある建物の構造,認知を広めるための実績浸水深の看板など,確認出来るものについてみることにした。
第5章は,「第1節,まとめ,問題点や今後の課題や」を行っている。川と降雨による影響の関係を知りたいという動機から出発し,身近な加茂川についてより理解を深めると共に,現地で感じた疑問についてデータをもとに考察を行い,答えを導き出すことができた。また,実際の状況としてもともと意識の高い浸水被害地区の住民ではなく,市街地の安全な場所にいる住民の意識の低さについての問題点があるが,これについては教育に取り込むことが出来ないかという意見を持つに至った。それは例えば,授業参観を見るだけという一方的なものから,親子で川について学ぶ参加型のものにするなどである。「第2節,個人としての反省」として,雨量と水位について調べるのであれば,もっと他の同規模な河川についても調べるべきであった。加茂川のピークが1時間以内に対して木曽川のピークは2日後である。つまり川の規模や,周囲の状況によって異なるため1個のデータにとらわれず比較することが必要だったからである。例えば,加茂川が市街地の影響を受けているかどうかについては,同規模で市街地しか流れない川,同規模で市街地をほとんど流れない川というものとの比較で,ピークや収束の時間が変わるのかについてより細かくみるべきであった。
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海野亜希子 | 東日本大震災による人口変化-茨城県を事例に- |
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Ⅰ はじめに
2011年3月11日14時40分ごろ,三陸沖を震源地に震源は深さ約10㎞,マグニチュード7.9の地震が東日本を襲った。被害地は,宮城県・福島県・岩手県を中心とし,東日本大震災と名付けられた。最大震度は7とされ,津波警報も発動され,津波による浸水域は国土地理院の発表では507?に及ぶ。
今回の調査地域の茨城県もまた,被害地域のひとつであり,県内最大震度6強,津波は6.7mが観測されている。住宅被害が発生し,死者・行方不明者も出ている。県内の多くの箇所でライフラインが寸断された中,計画停電に組み込まれるなど被災地として扱われないケースが見受けられた。また,福島第一原子力発電所の事故の影響により,漁業,水産加工業,農業,観光業に直接的な放射能被害と風評被害に悩まされ続けている。
本研究では,東日本大震災から,現在も復旧が叫ばれ作業が続けられている被災地と,記憶から薄れ始めている現状を目の当たりにし,もう一度見つめなおす必要があると実感した。震災の影響によって減少につながっているのかを調査によって明らかにした。
Ⅱ 東日本大震災の被害状況
1.東日本大震災概要
東北地方を中心とする,広範囲で起こった地震を指す。宮城県北部では震度7を記録し,それに伴い東北地方や関東地方の太平洋沿岸部では津波,福島第一原子力発電所では複数の原子炉が制御できなくなり,放射能が拡散する事故が起きた。各地でライフラインが寸断され,東北地方や関東地方では大規模停電が発生,交通網にも多くの被害が発生し,都心では帰宅困難者があふれた。
2.茨城県概要
今回の調査地域に指定した茨城県は,関東地方の東北に位置し,東は太平洋に面している。32市10町2村で構成され,地域では5つに分けられることが出来る。面積は南北に伸びた6096?で,県庁所在地は水戸市に置かれている。主要産業は,農業,水産業となっている。
3.茨城県の被害状況
震度6強が8市,6弱が21市町村,5強が14市町村,5弱が1町と県全体が大きな揺れに見舞われ,太平洋に面している地域は津波の被害を受けた。県内の24カ所ある漁港のうち16カ所の漁港が被害を受けた。その他にも液状化現象やライフラインへの被害が発生した。
Ⅲ 茨城県市町村別人口変化
茨城県全体の人口は,現在減少傾向にある。2008年から2010年までは若干の変化はあったもののほぼ横ばいの状態が続いていた。2010年から2011年には大きく数値が変化し,その後減少傾向が続いている。この結果から,茨城県の人口減少には,東日本大震災が影響している。
地域別にみると大きく影響を受けているのは県北地域と県央地域であった。両地域とも太平洋に隣接し津波被害にあった。また福島第一原子力発電所の事故の影響による放射線被害,風評被害に影響された地域であったため,人口が減少した。反対に県南地域は,筑波学園都市の設立と,首都圏新都市鉄道つくばエクスプレスの整備による東京都心へのアクセスの改善によりベッドタウン化が進行,これらの理由により人口が増加していることが分かった。茨城県で唯一東日本大震災への人口変化への影響を大きく受けず唯一安定した増加が見られる地域であった。
Ⅳ 北茨城市の人口の変化
1.北茨城市の概要と被害状況
茨城県の最南端に位置し,面積は18,655?,東部は低地となり太平洋に面している。震度6弱の揺れと最大6.7mの津波が観測された。茨城県最大規模の津波は市内の海沿いの地域を中心に被害を受け,漁業・観光業に被害をもたらした。現在も復興作業が続いている。
2.北茨城市町村丁字別人口変化
北茨城市の被害を受けた8つの人口変化から,震災前後で少なからずどの地域にも減少に影響が出ている。市街地地域では減少幅が狭く,逆に漁業を中心としていた地域では減少幅が大きいことが分かった。
3.現在との比較
現地では,震災直後のような状況は見られず,震災から立ち直る市の姿が見受けられた。しかし,現在も続く港湾の工事や観光客の減少など,東日本大震災の影響が出ていた。港湾の整備の現状から漁業を続けられない市民の転居を余儀なくされるケースが考えられる。
Ⅴ 終わりに
茨城県の人口の変化は,地域によって差が生まれた。県西地域や鹿行地域など雇用の機会の多い地域には人口の増加も見られた。漁業を基幹産業としていた市町村の多くが人口の減少が見られた。北茨城市の調査では,被害の起きかった地域を取り上げ,現地調査から現在も復興を行っている地点と人口の減少が進んでいる地域が一致し,震災の影響により人口が減少したことが分かった。
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近藤大尊 | 江戸城跡の土地利用 |
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Ⅰ はじめに
日本の首都として栄え政治・経済の中心となっている東京都心部の中心に,今なお広大な面積を有し貴重な緑地となっている皇居がある。その皇居は,明治維新までは徳川将軍家の居城・江戸城であり,約260年続いた徳川政権の本拠地であった。現在の皇居周辺には大規模な堀や石垣が現存しており,一般に江戸城跡というとこのエリアの事を指すことが多い。しかし,現存している皇居周辺の堀や石垣は内堀であり江戸城の一部にすぎず,本来は内堀を取り巻くようにつくられた外堀を有しておりその惣構の規模は日本最大級のものであった。東京都心部の江戸城跡の範囲内に該当する地域の中でも土地利用や街並み,区割りなどの差異が確認できる。その差異について,城郭の歴史や形から検討することが本研究の目的である。
Ⅱ 江戸城概要
江戸城の歴史は平安時代の治承4年(1180),江戸重長が現在の江戸城本丸にあたる場所に居館を築いたことが始まりであるといわれている。室町時代になると扇谷上杉氏の家臣である太田資長(道灌)が江戸氏居館跡に江戸城を築城し,その後は後北条氏の支配下に置かれた。天正18年(1590)に豊臣秀吉による天下統一が成されると,関東に移封となった徳川家康が江戸城を本拠と定め入城した。家康が関ヶ原の戦いに勝利し征夷大将軍に任命された後に本格的な普請が開始され,3代将軍・家光の時代となった寛永13年(1636)に江戸城惣構は完成した。慶応4年(1868),江戸城は徳川家から新政府に引き渡され天皇の住まいとなり,皇城や宮城,皇居と名を改められ現在に至る。
江戸城跡はそのほぼ全域が現在は千代田区となっており,千代田区から外れる場所としては南端部の現在の港区(JR東日本新橋駅付近),東端部の現在の中央区(隅田川沿い)などがある。
外堀は左渦巻き状であり城郭の範囲を確定できないため,本研究では外堀(神田川)と日本橋川,隅田川との3つの川で囲まれた範囲までを江戸城跡とした。
Ⅲ 内郭
内郭とは内堀に囲まれた地域のことを指す。内堀は江戸城の内側にめぐらされた堀のことであり,現在はこの内堀に沿うように道路が整備され,内堀通りと呼ばれている。内郭は①本丸・二の丸・三の丸,②北の丸,③西の丸・吹上,④西の丸下の4つのエリアに分類できる。これらのエリアの用途地域は戦前の大正10年(1921),現代の平成24年(2012)ともに空白地であり,土地利用はほぼ全域がその他の地域であった。現代に至るまで一貫して,通常の土地利用ではない特殊な地域であるといえるだろう。
Ⅳ 外郭
外郭とは,内堀と外堀とに囲まれた地域のことを指す。外堀は江戸城の外側にめぐらされた堀であり,そのほとんどが明治維新後~終戦後にかけて埋め立てられて消滅した。JR中央・総武線沿いなどに一部現存しており,史跡江戸城外堀跡として保存されている。この外堀沿いや旧外堀上に道路が整備されており,外堀通りと呼ばれている。外郭は江戸時代における土地利用から,①東部から南部を経て西部へと広がる大名屋敷地,②西部から北部に広がる武家屋敷地,③北部から北東部にかけて広がる商人屋敷地の3つのエリアに分類できる。
大名屋敷地は大きめの区割りがなされ幅の広い道路が整備されており,現代でもこのエリアではそれが確認できる。その特徴を活かし明治維新直後は軍用地など,その後は現代に至るまで大規模なオフィスビルなどが見られる。丸の内や霞が関がその代表である。用途地域は,大正時代,現代ともにほぼ全域で商業地域であった。また,土地利用はほぼ全域が建物用地である。
武家屋敷地は細かな区割りがなされ幅の狭い道が入り組んでおり,現代でもその特徴をほぼそのまま残している地域が確認できる。特に番町地区において顕著にあらわれている。用途地域は,大正時代は住宅地域・商業地域,現代は第一種住居地域と第二種住居地域・商業地域が入り混じった地域であった。また,土地利用はほぼ全域が建物用地となっている。
商人屋敷地も武家屋敷地同様に細かな区割りがなされ幅の狭い道が入り組んでおり,現代でもその特徴を残しているが,武家屋敷地と比べると日本橋周辺など街区の移動や道路幅の拡大が確認できる。用途地域は,大正時代は商業地域,現代でも商業地域となっている。また,土地利用はほぼ全域が建物用地であった。
江戸時代までは同じような区割りがなされ,幅の狭い道が入り組んだ複雑な街を形成していた武家屋敷地と商人屋敷地であるが,現代では異なっていた。これは江戸時代における土地利用に起因するものではなく,大正12年(1923)に発生した関東大震災後に行われた土地区画整理事業の影響によるものであると思われる。関東大震災の際に,本郷・小石川・牛込・四谷・赤坂・麻布周辺を指す山の手地域は被害が小さく,京橋,日本橋,神田,下谷,浅草周辺を指す下町地域は被害が大きかったとされている。山の手地域の範囲内に武家屋敷地が広がっており,番町地区を筆頭に震災後の土地区画整理事業はあまり行われなかったのに対し,下町地域の範囲内に商人屋敷地が広がっており,震災後に比較的大規模な土地区画整理事業が行われた。この土地区画整理事業の有無が,武家屋敷地と商人屋敷地の差異を生み出していると考えられる。
Ⅴ おわりに
内郭は本丸・二の丸・三の丸,西の丸・吹上の全域が皇居となっており,また,北の丸,西の丸下は国民公園として開放されており,明治維新から現代に至るまで一貫して一般に使用される土地ではなかった。
外郭は3つのエリアに分類することができ,大名屋敷地はその大きな区割りや広い道幅を活かしオフィスビルや官公庁など大規模な建築物の用地として,武家屋敷地は細かな区割りと幅の狭い道路を当時のまま残した住居地域と商業地域が入り混じった地域として,町人屋敷地は大まかにはその姿を残しているが,関東大震災後の土地区画整理事業により道幅や区割りの変更が見られる商業地域となっていた。
東京都心部の旧江戸城外郭に当たる範囲は,同じ城内といえども江戸時代当時の土地利用・区割りが大きく異なっており,その特徴を残したまま明治以降の都市開発が進められ現代にも色濃く影響を残しているといえるであろう。
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坂本條太郎 | 急傾斜地崩壊危険区域・箇所における土砂災害とその対策-横須賀市を事例に- |
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Ⅰ はじめに
今回の研究で対象とする神奈川県横須賀市は,山地・丘陵地が多くを占める三浦半島において,周辺の横浜市,鎌倉市等の都市開発により市街地が急速に発展したため多くの土砂災害が発生しており,土砂災害警戒区域に指定された区域は1121か所にまで及ぶ(平成24年2月21日時点)。以上を背景として斜面崩壊の区分より,都市部周辺の台地端の急斜面や人家周辺の切土,のり面での崩壊現象であるがけ崩れを取り上げ,中でも国土交通省の「急傾斜地の崩壊による災害の防止に関する法律」によって定められた急傾斜地崩壊危険区域における土砂災害発生の関連を調査するとともに,それに対する市民感情,行政の対応などを調査することを目的としている。
Ⅱ 横須賀市の特色及び土砂災害の被害
横須賀市を占める三浦半島の地形は,新期層(三浦層群・上総層群・横須賀層ほか)の丘陵からなる北帯と古期層(葉山層群ほか)の丘陵からなる中帯,新期層(三浦層群・宮田層ほか)の台地からなる南帯に区分される。軍港都市としての性格を持つ横須賀市は軍事需要が増加するとともに市街地の拡大を図ってきた。横須賀市の低地は河川流域や海岸沿いに限られており,上記した通り丘陵地が横須賀から久里浜にかけて広がっていたため,市街地開発は後背の谷戸及び丘陵地に広がっていった。
横須賀市市街地の丘陵地は三浦層群の逗子層の泥岩から構成されていたため,人工的に削りやすく,平地や多くの隧道の形成が多くみられた(菅野・佐野・谷内2009)。横須賀市の所属する神奈川県では,自然災害が発生する可能性の高い土地を各種防災関連の法律によって指定し,防災工事を実施するとともに災害を誘発するような開発行為を規制している。横須賀市防災会議(2014)によると,横須賀市が定める急傾斜地崩壊危険区域は「急傾斜地の崩壊による災害の防止に関する法律」によって指定されたものであり,①傾斜が30度以上で,高さ5m以上の急傾斜地②急傾斜地の崩壊により危害が生ずるおそれのある人家が5戸以上あるもの,または5戸未満でも官公署,学校,病院等に被害が生ずるおそれのあるもの,と指定されている。
横須賀市で発生した土砂災害発生の要因を探るために神奈川県土砂災害きろくマップを用い,1974~2004年の期間に横須賀市域で発生した土砂災害(693か所)をMANDARAを用い横須賀市行政区画上に図示した。以上のデータをもとに第Ⅱ章では土砂災害発生要因の考察を行いたい。
Ⅲ 土砂災害発生要因の考察
前章で示した693か所の土砂災害発生箇所をもとに地形及び環境による土砂災害発生要因を探った。要素は(1)標高による分析(2)最大傾斜角による分析(3)雨量による分析(4)地層による分析の4つである。
(1)標高による分析
標高が高くなるにつれて土砂災害の発生が増加する,または誘発されることはないが,横須賀市市街地付近の標高30~60m付近には多くの土砂災害発生場所が分布している。よって土砂災害は埋立地のような平地では発生しないが,丘陵地に発達した市街地,郊外の開発された住宅地等では土砂災害の発生がみられるということが明らかとなった。
(2)最大傾斜角による分析
最大傾斜角が大きくなるに比例し,土砂災害の発生も比例して増加する動きは見られない。しかし,最大傾斜角が10~15°の箇所では比較的多くの土砂災害の発生がみられ,急傾斜地崩壊危険区域に指定されている傾斜角が30°を超える箇所では多くの土砂災害が起こっている。よって,最大傾斜角が他の要素と合わさることで土砂災害を発生させる要因となり得ていると考えられる。また,起伏量により土砂災害が発生するピークは30~35mとされているため,狭い範囲で起伏が激しい箇所においては土砂災害の発生が多く見られるという結果が生じた。
(3)降雨量による考察
降雨量については横須賀市北部の年降水量1660㎜以上の箇所において多くの土砂災害の発生がみられた。また,1640㎜以上の箇所においても多くの土砂災害の発生がみられるため,雨量が土砂災害の発生要因となっていることがあるということがいえる。しかし降水量,または集中した降雨が土砂災害を発生させるには地形,地質等の土砂災害の発生が起こりやすい条件が必要となるため,降雨量については補助的な条件となる。
(4)地層による分析
地層による分析においては,土砂災害の発生が起こりやすかった三浦層群池子層,逗子層,葉山層群では砂岩や泥岩の風化により土砂災害が発生するとした。しかし,地層を形成する物質だけでなく,その地層が存在しているところでの傾斜角の平均値,および起伏量の平均値が高くなれば土砂災害が起きる可能性が高くなると考えられた。
以上をふまえ,土砂災害発生要因を相互的に考察すると,「三浦層群池子層・逗子層,上総層群野島層において,最大傾斜角が15°以上,起伏量が30m以上の傾斜地に集中的な降雨が発生した場合や,土地の風化により地盤が弱くなってきた際に土砂災害が発生する可能性が高いとされる。しかし高度経済成長期以降に急激に進んだ谷戸や丘陵地への宅地開発により地盤が不完全な箇所が土砂災害の発生につながる危険性もある。」との定義とした。
Ⅳ 土砂災害への横須賀市としての対応
横須賀市まちづくり市民アンケートによると,以前と比べて災害に対しまちがどう変わったかという項目については緩やかではあるが現状よりは改善されているようである。しかし現状に関しては,災害に関する項目について多くの市民が現状に不安を抱えており,中でも「がけ崩れや地すべりが起きる不安を感じることのない環境」においては-30.9ポイントと非常に低い数値を示した。また優先すべき項目としては「地震の時に大きな不安を感じることのない環境(12.2%)」,「がけ崩れや地すべりが起きる不安を感じることのない環境(8.1%)」が多くの割合を占めていることがわかる。現在の状況でも満足度の指数の低かった2項目が優先すべき事項の上位となっていることで,横須賀市の市民が早急な環境整備を望んでいるということがわかる。
以上をふまえ,横須賀市ではがけ崩れや地すべりを防ぐために上限535万円の助成制度を設け,神奈川県が土地所有者に代わり,崩壊対策工事を行う急傾斜地防災施設や工事費最高500万円を助成し,私有地を所有者自ら防災工事を行わせる既成宅地防災施設等の防災対策が多く行われているが個人や市の財政への負担が多くなりつつあるのが現状である。
Ⅴ おわりに
本研究では1974~2004年に横須賀市で発生した土砂災害発生箇所(693箇所)の発生要因を4因子(標高,最大傾斜角,降水量,地層)で分類し,土砂災害発生要因の相互的な分析を行った。今後の課題としては国土数値情報の土地利用メッシュデータ,用途地域図を用いて地形の人工改変により発生した可能性のある土砂災害発生箇所を調査し,環境因子以外での土砂災害発生要因を探ることを今後の課題としたい。
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砂川成実 | 滝の形態と地質の関連性 |
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Ⅰ はじめに
日本列島は造山活動の活発な地域であり,降水にも恵まれた土地である。これらの要素により急勾配な河川を随所で見ることができる。河川の特徴的な地形の一つに滝があり,鈴木(2000)はこれを「顕著な遷急点と遷緩点が同時に見えるほど近接または重なり,河流が自由落下している地点」と定義している。滝の成因は様々であるものの,その多くは差別侵食によって形成されるといわれている。一方で,滝の形態は多岐にわたることから,これを決定付ける因子は何なのか疑問に思った。地形は自然環境から大きく影響を受けるが,その中でも地質の抵抗性の違いにより滝が形成される旨の記述が様々な論文で挙げられていたことから,滝の形態にも同様にして滝を構成する地質(岩盤を構成する成分)の違いが影響するのかを調査することにした。
調査対象は日本全国に分布しているため,北中康文『日本の滝①』(2004)と『日本の滝②』(2006)に掲載された中から1453条の滝を対象として,日本を次のように区分けした。同著本の掲載に従い,北海道地方(北海道),東北地方(青森県,岩手県,秋田県,宮城県,山形県,福島県),関東地方(茨城県,栃木県,群馬県,埼玉県,東京都,千葉県,神奈川県),中部地方1(静岡県,山梨県,長野県,新潟県),中部地方2(富山県,石川県,福井県,岐阜県,愛知県),近畿地方(滋賀県,三重県,和歌山県,奈良県,大阪府,京都府,兵庫県),中国地方(鳥取県,島根県,岡山県,広島県,山口県),四国地方(香川県,徳島県,高知県,愛媛県),九州地方(福岡県,佐賀県,長崎県,熊本県,大分県,宮崎県,鹿児島県,沖縄県)の9つの地方で構成し,北海道地方から中部地方1までを東日本,中部地方2から九州地方までを西日本とした。
Ⅱ 滝の形態と地質の分類
滝の形態は,直瀑,段瀑,分岐瀑,渓流瀑,潜流瀑の5つに大別される。直瀑は,滝頭から滝壺まで流身が一条かつ直線的である滝をさす。侵食の度合いによっては滝頭直下が抉れてオーバーハング気味に流身が落下する。滝の形態の中では深い滝壺を有する傾向にあるが,強固な岩盤を有する場合は侵食を受けず滝壺を有さないことが稀にある。段瀑は,滝頭と滝壺が複数存在する滝をさす。段瀑を構成する滝同士の区間は,滝壺からそのまま次の滝に繋がることもあれば,小さな河川をまたいで滝が落下することもある。このため,段ごとに滝壺を有することや,侵食の力が弱いと滝壺を形成しないことも珍しいことではない。分岐瀑は,流身が滝頭より滝壺の方が多い滝をさす。地層の分かれ目や表面に凹凸の多い岩盤を有する場所ではしばしば滝はこの形態をとる傾向にある。滝のかかる岩盤が整った層であるか凹凸であるかによって分岐の仕方が異なり,見た目にも反映される形態である。滝壺は,水流が分散されていることで広く浅くなっていることが多い。渓流瀑は,緩やかな傾斜の岩盤上を滑るように落下する滝をさす。一般的に見た目は河川と大差ないが,勾配が流身の中で極端に変わる地点や,少しでも段差が見られる地点があると,この形態に分類されることがある。一般的に渓流瀑は滝壺を伴わない傾向にあるとされるが,実際は河川の流れによって見えないことが多く,滝頭と滝壺の水流が著しく異なる場合は広い滝壺を有することがある。潜流瀑は,地下水あるいは伏流水が不透水層上をたどり,その断崖から水が流れ出る滝である。他の滝と異なり,河川の流れがつくる滝ではないため,一般的に明確な滝頭を持たず(流れ出ている地点を滝頭として見る場合もある),水量によって滝壺の深さも大きく変わる。
地質は,火山岩,深成岩,堆積岩,変成岩の4つを大分類とし,それぞれの特徴や成分に応じて小分類や詳細でさらに種類分けを行なった。このうち,第Ⅲ章では大分類から形態との関連があるかを見ている。地質が同じである場合,一般的に年代が古いほど地質は安定し,侵食に強い傾向を示す。
Ⅲ 滝の要素ごとの傾向と関連性
滝の形態は全国的に見ると,段瀑,直瀑,分岐瀑の順に多く存在し,渓流瀑,潜流瀑は各地で認められるものの全体的にほとんど見られなかった。段瀑や直瀑が多く存在する要因として,日本の地形の特徴や水資源に恵まれた環境が挙げられる。第Ⅰ章で述べた通り,日本は起伏に富んだ地形と多くの水資源に恵まれた国である。急勾配な河川を形成しやすいことに加えて,断崖や断層が至る所に存在することで,これら3形態の滝が多く存在する結果となっている。渓流瀑が少ない要因として,第Ⅱ章で述べた通り,見た目が河川に似ていることが挙げられる。山地では,急勾配な地点が多く,段の幅が大きい傾向にあることから他の形態に分類される可能性が高い。また,平地においては,流れが緩やかであると,渓流瀑ではなく河川として捉えられる可能性がある。そのため,渓流瀑として認識されないことが今回の集計の結果に反映されたのではないかと考えられる。潜流瀑が少ない要因として,潜流瀑になる条件が日本ではなかなか揃わないことが挙げられる。静岡県三島市では,下から上に水が湧きだす湧水郡が有名だが,潜流瀑のように断崖から滴り落ちる水を見かけることは無かった。また,断崖を伝い落ちる程度の水量では,滝として認めることができないこともあり,結果として潜流瀑が少なくなったと考えられる。
滝の形成される地域における地質は,全国共通で堆積岩地域に多いことが判明した。一方で,変成岩地域の分布が少ないことも分かった。東西別に見ると,東日本では火山岩地域にかかる滝が最も多く,西日本では堆積岩地域にかかる滝が最も多い結果となった。東日本の滝の分布は,活火山の分布地域に沿った形となっていることが結果に影響していると考えられる。地方区分での割合を見ていくと,四国地方においてのみ変成岩地域にかかる滝の割合が高い数値を示しているが,これは四国地方の山脈地域に高圧型変成帯の分布が重なっているためであると考えられる。変成岩は一般的に侵食に弱い傾向となっているが,変成帯であれば,侵食されるのと同時に新しい変成岩が生成される環境が整っているため,日本全国の中で唯一変成岩地域にかかる滝の数が多い結果になったといえる。
滝の形成される地域における地質で,堆積岩の割合が多いため,成分や成因によって違いが見られるかを並行してみるために堆積岩を火砕岩と水成岩に分けた上で滝の形態と地質の関連性について調べた。北海道地方においては,どの形態においても火山岩地域に多い傾向となった。東北地方も同様であるが,分岐瀑や渓流瀑を形成する地質は深成岩の割合が高くなっていた。関東地方では,段瀑の半数以上が水成岩地域にかかっている。中部地方1においては直瀑火山岩型が突出している。火山活動によって供給される岩石は,侵食に強い傾向にあるため,滝が形成されやすい性質をもつが,特に中部地方1は,フォッサマグナを有する地域であり,造山運動が活発であることから,滝が侵食後退あるいは消失しても新しい岩石の供給によって新たに直瀑が生成されていると考えられる。中部地方2からは,堆積岩にかかる滝が多く存在する様子が見られる。近畿地方においては分岐瀑深成岩型が4割を超えている。中国地方では形態と地質の組み合わせで違いが大きくみられる場所となっている。直瀑は火成岩(火山岩,深成岩)地域,段瀑は深成岩地域,分岐瀑は火砕岩地域,渓流瀑は深成岩地域,潜流瀑は水成岩地域に最も多く存在することが判明した。一方,調査対象の滝が著しく少ないため,滝の形態と地質の間に関連性があるのかを判断するためには不十分な結果となっている。四国地方では直瀑水成岩型と段瀑水成岩型が突出している。段瀑においては水成岩型に次いで変成岩型が多く存在している。ここで四国地方の段瀑における地質の詳細を見てみると,水成岩はチャートや砂岩などで構成されている。同様に,変成岩は広域型であり,その多くが玄武岩起源の結晶片岩で構成されている。このタイプの結晶片岩は,海底火山において生成されたものであり,チャートと同様に海底で作られた岩石である。この共通点が結果に影響しているか定かではないが,四国地方において段瀑水成岩型と段瀑変成岩型が多く存在した理由としてこれらの岩石が侵食に強い傾向を示し,滝が消失しづらい環境が整っていたためであるという可能性が考えられる。九州地方では直瀑火山岩型,直瀑火砕岩型,分岐瀑火砕岩型が多く見られた。このうち,分岐瀑火砕岩型においては,火山活動で生み出された火山噴出物が堆積する際に,岩肌に凹凸若しくは層を作り,それが形態に影響した可能性が考えられる。しかし,滝が生成されたのちに,上流からの運搬物による侵食や,地殻変動によって分岐瀑となった可能性も考えられるので,安易に関連性があるとは言い難い。
Ⅳ おわりに
滝の形態と地質の間に明確な関連性があるとはいえない。中国地方の例の通り,何かしらの因果関係がある可能性は否定できない。しかし,滝数が都道府県によって大きく異なったこと,特に中国地方では,割合においては十分な結果を出しているものの,滝数自体が少ないなど,結論を導きだす上で不十分であったことから,今後地方レベルで滝数を増やし,滝の形態と地質の間に関連性があるか否かを引き続き調査する次第である。
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春原光暁 | 埼玉県内の企業立地に関する研究 |
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Ⅰ はじめに
日本国内には数多くの高速道路があり,そのIC周辺には多くの企業立地が進行してきた。埼玉県内でもこの傾向は変わらず,IC周辺には多数の企業立地が進んできた。しかし,近年の企業立地に関するいくつかの研究では,高速道路は企業立地の要件として重視されなくなってきているという研究も出てきている。今回の研究では,近年の埼玉県内の企業立地数の変化や新規立地場所などから高速道路周辺への企業立地の現状及び埼玉県内の企業立地の状況を明らかにしていくことを研究目的とする。
Ⅱ 埼玉県内の高速道路
埼玉県内には関越自動車道,首都圏中央連絡自動車道(圏央道),東京外かく環状道路,首都高速埼玉大宮線,首都高速埼玉新都心線,東北自動車道,常磐自動車道の6つの高速道路が通っている。このうち今回の調査対象となるのは関越自動車道と圏央道の2つである。
関越自動車道は東京都の練馬ICから埼玉県,群馬県を経由し新潟県の長岡JCTへと至る,購読道路である。総延長は246.3㎞でそのうち埼玉県内区間は約60㎞で,三国山脈を貫いて東京都と日本海側を結んでおり,上越新幹線と並ぶ重要な交通網の一つである。その歴史は日本の高速道路の中では比較的古い方にあたり,1967年に最初の練馬IC~川越IC間の工事が開始され,1985年に全線開通となった。上にも書いたが群馬県と新潟県の境には険しい三国峠がそびえており,それを抜けるために長期間に渡る大工事の末,関越トンネルが作られた。関越トンネルは群馬県利根郡みなかみ町と新潟県南魚沼郡湯沢町の土樽PAの間にあり,下り線11,065m,上り線10,926mと自動車トンネルとしては日本一の長さを持ち,世界的に6番目の長さをもつトンネルである。関越自動車道は日本の高速道路でも比較的通行量が多く,ゴールデンウィークやお盆,連休期間などに非常に渋滞が発生しやすい。特に渋滞が酷いときには,藤岡JCTを過ぎ,上信越自動車道に20㎞以上の渋滞を発生させることもある。渋滞防止を目的として,1993年には一部区間を片側3車線化したが,渋滞の解消には至っていない。
圏央道は,東京を取り囲む3環状道路の一つで一番外側を通っており,都心から約40㎞~60㎞の部分を結んでいる。正式名称が首都圏中央連絡自動車道であり,圏央道は略称である。総延長は300㎞で,現在開通しているのはその約3分の2にあたる195㎞である。圏央道のもともと都心部を通過するだけの車の流入をなくすことによる渋滞解消を目的として建設され,横浜市,相模原市,八王子市など東京近郊の諸都市を結んでいる。一部区間の完成毎にその区間を開通させているため,当初,通行量は非常に少なかったが,2007年の中央自動車道と関越自動車道との接続などにより,通行量は増加し続けており,平成27年度には日に36,813台の通行台数となっている。圏央道沿線は都心部や関東周辺へのアクセスが良いことや田園地帯など大きな土地を都心部よりも安い値段で確保することが出来るため,工業,産業面からの期待も大きく,多数の工業団地が立地しており,新規開通ICの周辺にも新しい工業団地の建設が進んできている。
Ⅲ 埼玉県内の工業団地
埼玉県内は県央北部工業地区,西埼北部工業地区,西埼南部工業地区,東埼北部工業地区,東埼南部工業地区,県央南部工業地区6つに分けられている。それらの工業地区の中に現在稼働しているだけでも73の工業団地があり,工場適地とされているものが40カ所指定されている。この内,メインとなる調査対象地域である,圏央道沿いの工業団地は,武蔵工業団地,狭山台工業団地,狭山工業団地,富士見工業団地,川島工業団地,川島インター工業団地,桶川東部工業団地,久喜・菖蒲工業団地,清久工業団地,幸手工業団地,幸手ひばりヶ丘工業団地の11工業団地である。また,新たに騎西城南工業団地,菖蒲北部工業団地,菖蒲南部工業団地。白岡西部工業団地,清久工業団地周辺地区,幸手中央工業団地の6団地が整備された。
埼玉県は積極的に企業誘致を行っており,2005年に「企業誘致大作戦」を開始し,その後現在行われている「チャンスメーカー埼玉戦略Ⅲ」まで続いている。現在は業種を埼玉県の特徴である,流通加工業などに絞るなどターゲットを絞った誘致活動を行っている。また,新たに立地する企業に対して補助金を出すなどの制度も埼玉県や各市町村が設けている。
Ⅳ 埼玉県の企業立地の変化
埼玉県内の企業立地は積極的な企業誘致戦略の結果もあり,比較的順調に進んでいる。平成18年にリーマン・ショックの煽りを受けて一時立地数が低下してしまったが,翌年には企業誘致大作戦開始前の水準に戻すことが出来ている。近年の埼玉県内の企業立地を分布図にすると,一カ所に集中しているのでは無く埼玉県内全域に分布している。埼玉県は圏央道以北地域への企業立地を推進しているが,東京都に近いさいたま市や川口市付近にも根強い人気があり,単純な数だけで見ると圏央道以北地域よりも多いのが現状である。また,圏央道と関越自動車道のみの分布を見ると,関越自動車道沿いの分布も未だに多いことも分かる。
業種別に見ると,平成22年度~平成26年度第2四半期までに立地した業種の内最も多いのが,製造業で49%に当たる,次いで多いのが,流通加工業で約30%を占めている。埼玉県の得意分野にターゲットを絞った誘致活動は成功していると言える。
Ⅴ まとめと今後の展望
今回の調査により埼玉県における企業立地は全体として順調に推移しており,高速道路周辺への立地も現在も増加し続けていることが分かった。これは埼玉県が主要な市場である首都圏との近接性や高速道路IC周辺に大規模な土地を確保できるなどの場所的要因だけで無く,埼玉県側が積極的に企業誘致政策を打ち出してきた成果であると考えられる。立地場所としては埼玉県内全域に分布しているが,東京外環道周辺など都心部寄りへの企業立地が未だに多く,圏央道以北地域への企業立地は少々少ないのが現状である。しかし,着実に増加はしてきており特に大規模な敷地が必要な新規拠点工場などの立地が圏央道沿いの新しい工業団地などで進んでいる。この傾向は今後も続くと思われ,近い将来圏央道以北への立地が東京都心寄りの立地を抜く可能性も十分あると考えられる。ただ,企業立地の需要に対して,産業用地の供給が追いついていないという事態が一部で発生してきており,今後も新規企業立地を維持するためには十分な産業用地を早急に確保することが必要である。
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名倉一希 | スキー観光衰退期におけるスキー場経営体の変化と地域への影響-群馬県を事例に- |
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Ⅰ 序論
日本のスキー観光は戦後急速に発展し,バブル期に最大のスキーブームが起きた。しかし,1993年以降スキー場入り込み客数は20年間で約4割以下まで激減し,スキー場経営会社の変更や売却,倒産が頻発している。
本稿の目的はそのようなスキー観光衰退期(1993年以降)においてスキー場の経営体の変化とその要因,地域への影響を分析することである。地理学におけるツーリズム研究は従来,理論化・モデル化が求められてきた。また,スキー観光研究においても個別の大規模なスキー場についてほとんど研究がなされたとされ(呉羽2009b),衰退下でのスキー場存続における地域的条件や事例研究が必要とされている(呉羽2009b)。そこで本稿では,対象を個別のスキー場に絞らず,比較的研究事例の少ない群馬県全域というやや大きいスケールとした。これにより,経営体の変化要因分析を可能にしている。研究方法は,国土交通省『鉄道要覧』の索道部門から経営体の変化を分析し,変化要因を重回帰分析した。地域への影響はみなかみ町に対象を絞り,変化のあったスキー場にて聞き取りを行った。
対象地域の群馬県は関東平野北部から関東山地に立地し,温泉に恵まれている。北部は日本海側からの雪雲による降雪,南部は乾燥した季節風による「上州からっ風」が有名である。人口の約7割が集中する南部は工業,商業,畜産業が,北部は観光業と農業が主である。首都圏との近接性に優れ,県の入り込み客数は増加傾向であり,日帰り客が8割強という特徴がある。
Ⅱ スキー場の現状と経営体の変化
1.群馬県内のスキー場の現状
本稿では県内のスキー場を「白根山・草津」「浅間山」「水上」「武尊山」「赤城山」の5つに分けた。全国的な動きとして1993年以降,新規スキー場立地数とスキー人口が激減したとされるが(呉羽2009a),群馬県も同様であった。さらに,県のスキー場入り込み客数の減少は全盛期・第一次衰退期・仮安定期・第二次衰退期に4分され,急激かつ段階的な減少であったと言える。このように段階が踏まれた要因の一つに高速道路やトンネルの整備といった交通条件の変化が考えられる。なお,2011年以降はスキー場入り込み客数が微増しており,スキー観光の衰退は底を打った状態である。
以上のような県内のスキー場を取りまとめる組織としては「群馬県スキー場経営者協会」が存在し,同協会は国内外での県内スキー場のPRやイベントの開催,宣伝活動を行っていた。
2.研究対象のスキー場
これは,スキー観光衰退期が含まれる1989年度(平成元年)から2013年度において『鉄道要覧』の索道部門に掲載された群馬県内のスキー場32カ所とした。なお,これには休止・廃止のものも含まれている。
3.経営体の変化
これはスキー場が抱える問題として扱われるが,休止や廃止よりは何らかの競争力や事業価値が認められるものと本稿では認識した。群馬県で経営体の変化が毎年みられるようになったのは2000年に入ってからで,スキー場の入り込み客数の衰退段階に応じて生じていた。また,その変化パターンに注目すると,外部資本へ変化したスキー場の方が,内部資本へ変化したものよりも規模が小さいという特徴がみられた。さらに,『鉄道要覧』よりも細かく変化を分析すると,近年の変化は①投資会社の買収を経て新しい運営会社に変化するパターンと②公営のスキー場がまとまって別の経営体になるパターンの2つが挙げられた。
Ⅲ 経営体の変化要因
1.重回帰分析による要因分析
経営体の変化要因を分析するため,従属変数は「経営体の変化有無」に設定した。説明変数は標高・スキー場規模指数・営業開始年・宿泊施設立地の4つを設定した。宿泊施設立地はSHIRASAKA(1984)によるスキー集落の2分類を基に,筆者がさらに細分化した。なお,多くのスキー人口を抱える都心からの距離は重要な因子になり得るが,本稿のように群馬県内で分析した場合は数値に差が出にくく説明変数に設定しなかった。
2.分析結果
重相関係数は0.449,重決定係数は0.201である。それぞれ標準偏回帰係数,相関係数の順に示すと標高が0.084,0.157。 スキー場規模指数が0.376,0.319。営業開始年が-0.077,0.056。宿泊施設立地が-0.343,-0.211であり,特にスキー場規模指数と宿泊施設立地で強い相関を示した。
3.考察
標準偏回帰係数において標高とスキー場規模指数で正の相関があったことから,標高が上がるほど,またはスキー場の規模が大きくなるほど経営体の変化が起きやすいと言える。同様に営業開始年と宿泊施設立地で負の相関があったため,新しいほど,または地元への影響が強いほど経営体の変化が起きにくいと言える。また,相関の強さから,スキー場規模指数と宿泊施設立地の2つが経営体の変化に強く影響すると考えられる。休止・廃止という経営上の問題を抱えるスキー場の大半が小規模(呉羽2009a)とされているが,経営体の変化も同様であった。
Ⅳ 経営体の変化による地域への影響―みなかみ町を事例に―
1.調査対象地域
調査対象地域は要因分析を行ったスケールよりも狭い利根郡みなかみ町とした。群馬県最北に位置し,新潟県との県境の山岳と日本海側からの雪雲によって冬季は豪雪地となる。縄文時代から人の居住があり,利根川や赤谷川沿いの平地に集落が立地する。古くから日本海側と太平洋側の地域を結ぶ交通の要所でもあった。基幹産業は農業と観光業で,温泉や山岳,渓流などの観光資源に恵まれる。新幹線や高速道路で東京から2時間以内という好アクセスも誘客において力を発揮している。
2.地域への影響
調査対象スキー場はスキー観光衰退期に町内で経営体の変化を経験したA:ノルン水上スキー場,B:水上高原スキー場,C:大穴スキー場の3カ所とした。Aは経営体の変化による地域への影響は特に見られず,人材不足が課題の中,雇用の変化もなかった。一方,経営は自由度が高まり,様々な新しいことに挑戦していた。Bも変化による影響は少なく,雇用の変化もなかった。しかし,ファミリー層向けの取り組み,スノーアクティビティの拡充,修学旅行の誘致などが経営体の変化によって行われていた。Cは地域への影響は雇用面を含め見られなかったが,地元からの労働力供給率は最も高かった。
3.考察
経営体の変化を経験したスキー場は,人材不足により地域と雇用面でのつながりが薄くなり,変化による影響は少なかった。ただし,スキー場の運営には変化が見られ,高まった経営の自由度によりスキー業界において提言されている衰退期の打開策を先駆的に行っていた。また,町のスキー観光のみに依存しない体質によって,これからのオルタナティブツーリズム 時代において力を発揮しやすい要素が多く存在すると考えられる。
Ⅴ 結論
本稿ではスキー観光衰退期におけるスキー場経営体の変化とその要因,そして地域への影響を,群馬県を事例に分析した。まず,県内のスキー場の現状として入り込み客数は1993年以降,段階を踏んで大幅に減少した。経営体の変化は県内の対象スキー場において40.62%で起きており投資会社の買収を経るパターンと公営のスキー場がまとまるパターンの二つが確認された。要因分析では,重回帰分析を用いた結果,スキー場の規模が大きいほど,または宿泊施設と地元の関係性が薄いほど経営体が変化する可能性があると考察した。変化による地域への影響では人材不足により地域との関係が薄くなり,雇用面を含め特に影響はみられなかったが,スキー場運営への影響は存在し,経営の自由度が高まった結果各々の特長を活かした取り組みがなされ,みなかみ町の温泉を軸とした観光特性から持続可能なスキー観光がなされる要素が存在すると考察した。
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法邑凌成 | 山形県鳥海山における心字雪の形成と周辺植生について |
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Ⅰ はじめに
日本の国土の大部分を占めているのは山岳地形であり,それらが起伏の多い環境を作り出しているのはよく知られている。またその中でも日本海側を中心とした地域では大陸からの季節風が影響し世界的にも降雪の多い場所として知られている。従来,積雪は春の気温の上昇に伴い消失するのが一般的であるが,夏の暑い時期においても標高の高いところや地形的要因により消失されずに次の冬まで残雪し万年雪となるものがある。また夏にまで残雪する雪があることにより周辺植生の生育状況にも影響を与えていることがあきらかともなっている。
本研究では山形県・秋田県両県にまたがるようにしてある東北の名山の一つ鳥海山の2014年夏において現状どのような万年雪の残雪が行われているかを現地において実地調査を行うことと高山植物の生育状況を調査する。
Ⅱ 日本の万年雪研究と鳥海山概要
万年雪の定義としては確立されているのがまだなく一般的には冬に堆積した雪が夏の暑い時期を過ぎ,秋の初冠雪時まで消えずに残っていた雪のことを指す。万年雪という言葉をそれほど古いものではないとされている。全国各所で見られる夏の残雪に対して地域ごとで名前が古くから付けられていたので初めて万年雪という名称が使用された時期は不明である。明治27年(1894)に出版された志賀重昴の『日本風景論』では夏山の景観について残雪が触れられている。学術的には万年雪も含まれる多年性雪渓については吹きだまりの場所に残雪したものや,谷筋に沿って残雪するものなど様々なものがある。万年雪と氷河の大きな違いとしては流動が認められるかどうかである。万年雪の場合には残雪,雪渓の大きさが小さいため流動を確認することが困難となることが多いが,流動が確認された場合には氷河として認められる場合がある。
鳥海山は最高峰2,237mの山形・秋田両県境にそびえ立つ複合式火山である。山形県側からは出羽富士,秋田県側からは秋田富士の名称で親しまれている。鳥海山は3つの火山群から構成されている火山であるが,高度の低い一つを除き複合二重火山で表現されることが多い。各種登山道が設置されておりコースによって全く違う顔を見せている。日本海側に接した山であることから北西季節風の影響を大きく受け南~南東斜面において残雪が起こる。鳥海山では特徴的な植生が見られことが多くチョウカイフスマなど鳥海の名前を取った高山植物も多い。また特徴的な気候帯としては偽高山帯がある。本来高山帯の標高帯ではない鳥海山南東側斜面において高山帯と似たような植生が見られる。これには積雪量が異常に多いことと冬に吹く強い北西季節風が影響している。
Ⅲ 鳥海山研究内容
鳥海山現地調査は8月18日と9月17日におこなった。鳥海山南東にある湯ノ台コースからの雪渓調査と植生調査になっている。車道終点の標高が約1,200mである。そこから約1,600m付近の心字雪周辺まで行く調査をおこなった。8月の調査においては当日の天候不良が影響し滝ノ小屋付近での調査のみに終わったが周辺で残雪の確認が出来た。9月調査では1,600m付近の心字雪の心という字の2画目に当たる残雪まで調査できている。大きさが縦に約150m横に約200mでおおよそ3haくらいの面積であるとされた。周辺にも心という字を形成する残雪が多く確認されている。
植生調査においては8月はニッコウキスゲ,イワイチョウ,ウゴアザミなど主に亜高山帯や高山帯において7月から8月を生育期間とする植物が数多く見受けられた。9月の植生調査においては気温の低下が進んでいたので植生は少なくなっておりチシマギキョウやウラジロナナカマドなどおもに7月から8月にかけて生育する植生が多く見られた。
Ⅳ 結果
万年雪の大きさを考えるためにはその冬(堆積期)のみを見るのではなく過去年度まで遡ることが必要となってくる。その中で万年雪は縮小する年もあれば拡大する年もある。雪解けのメカニズムとしては供給熱量が損失熱量を上回り,それが0℃に達しても供給熱量が多い時に雪解けが進むがこれは太陽からの日射のみならず降雨や風などでも熱は供給されるため多くの要因が関係してくる。2014年の万年雪の大きさを考察するために2012年10月からの気象データを参考とし,2回の冬(堆積期)と2回の夏(消耗期)についてみてきた。2012年10月から2013年4月までの冬では平年通りの降水量があった月と降水が多い月があったために心字雪の形成にプラスの影響を与えられるだけの降雪があったと考えられた。2013年7月から2013年9月までの夏では例年通りの残雪の消耗が行われるだけの気象条件が揃ってはいたが,冬の残雪を全て消耗しきれるだけの気象条件ではなく心字雪の大きさを極端に拡大するほどの年層堆積(2013年層と呼ぶ)ではなかったと推定された。2014年層の形成に最も影響を与える2013年10月から2014年4月までの冬では過去20年の気象データを参照しても降水量が少ないなどの堆積を行う気象条件としてはマイナスになる要素が多く堆積期としては少ない降雪量の冬となった。心字雪の大きさを決定づける2014年7月から2014年9月までの夏は7月に降水量が極端に少なく,反対に日照時間が異常に多かった。しかし8月は日照時間が過去20年平均からみても59%しかない日照時間であった。加えて気温の高い日が少なく夏らしくない夏となった。9月は降水量が少なく日照時間が多かった。2014年の夏は例年通りの消耗となったのではないかと考察された。過去2回の夏と冬の考察により2014年層は冬の堆積量を夏の消耗量が上回ってしまい2013年層の消耗もおこなってしまうこととなる消耗年ではないかと判断した。
植生調査については8月に確認された高山植物は主に6月から8月にかけて生育する植物が多く通常と変わらない生育状況であったのではないかと考えられた。しかし9月の植生調査において7月から8月にかけて生育期間とされる植生が多く見受けられた。これは8月中旬の天候不良により開花に至るまでの有効積算気温は足りていたが,結実に至るまでの有効積算気温が足りなかったために結実せずに9月の中頃まで咲き終わりのものが多かったが生育していたのではないかと考察された。
Ⅴ おわりに
本来は長期的な調査が必要であったものを短縮して調査をおこなったためにデータが足りなく考察に実証性が少ないのは事実ではある。全てを解明するためにはボーリング調査やリモートセンシングによる調査は欠かせないものとなる。長期的な細かい気象データを集積することにより万年雪の大きさを測定,推測できるようになることが可能になるのではないかと考えている。2014年層だけであっても調査をおこなえたことは意義のあったことだと言える。
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2013年度修士論文 |
笠井大輔 | 地域振興における道の駅の役割に関する研究-宇都宮市ろまんちっく村農産物出荷者に着目して- |
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Ⅰ 目的
1993年国土交通省道路局によってはじめられた道の駅は,開設から数を増やし続け,20年経過した2013年に1000駅を越えた。
そもそも道の駅とは,一般道路において24時間利用できる休憩施設が求められたために作られたものである。道の駅開設当初は,休憩機能,情報発信機能が重要視された高速道路SA・PAのような形の道の駅が多く見られた。しかし,開設から年月が経ち,地域振興施設としての役割を果たすことがわかると,地域振興を意識した道の駅が多くなっていき,それとともに道の駅の施設はや役割は多様なものへと変わっていった。
本研究では,さまざまな役割を果たす道の駅の中でも重要な役割を果たすと考えられる農産物直売所に注目し,その出荷者から地域振興に関する実態を明らかにする。
本研究において明らかにするのは以下の2点である。1つ目は道の駅の立地傾向の変化について。そして2つ目は道の駅の地域振興における役割についてである。
Ⅱ 方法
立地傾向の変化についてはGISソフトMANDARAを使い,全国997駅(2013年当時)の道の駅を地図化し,その立地傾向について分析する。
指標は傾斜,周辺5km圏内の人口,高速道路ICからの距離の3点である。これらを道の駅開設の年度と合わせて地図化し,近年の道の駅がどのような立地傾向をみせるか分析を行った。
道の駅の地域振興における役割については,栃木県の道の駅,「うつのみやろまんちっく村」を事例として取り上げ,農産物直売所出荷者へ調査票調査を行う。ここから道の駅がどのような役割を果たす施設であるのかについて明らかにする。
Ⅲ 結果と考察
1.道の駅の立地傾向について
傾斜については5度以下,5~15度,15度以上の3つに分けて分析を行った。1999年以前に作られた道の駅のがそれぞれ95駅,138駅,315駅となっている。これに対して,2000年以降に作られた道の駅は107駅,148駅,194駅となっている。
次に人口については周辺5kmの人口2,000人以下,2,000~5,000人,5,000~10,000人,10,000~20,000,20,000人以上に分け分析を行った。1999年以前はそれぞれ107駅,141駅,108駅,85駅,107駅となっているのに対して2000年以降は67駅,84駅,74駅,84駅,140駅となっている。
最後に高速道路ICとの距離については,5km以内,5~10km,10km以上に分け分析を行った。1999年以前に作られた道の駅はそれぞれ144駅,111駅,293駅となっている。これに対して2000年以降に作られた道の駅は153駅,87駅,209駅となっている。
傾斜,周辺5km圏内の人口,高速ICからの距離,これら3つの指標から道の駅の立地についてみると,近年の道の駅が,平野部で人口の多い高速ICから近い場所に立地していることがわかる。
このことから以下のことが考察できる。道の駅が作られた当初は,SA・PAの代わりとして山間部の一般道に設置され,通過点としての役割が大きかった。しかし,90年代に道の駅が各地で作られ,地域振興に良い影響を与えることがわかり,平野部の自治体でも導入を図るようになったと考えられる。平野部での道の駅は山間部と違い広い土地を使うことができるので大規模で,さまざまな施設が道の駅内に作られるようになった。さらに高速道路IC付近に立地することで遠方からの来訪者を集めるようになった。これら平野部で高速道路IC付近に立地した道の駅は,通過点としてだけではなく,遠方からも利用者が訪れる目的地となりうる施設になったのである。
2.道の駅の地域振興における役割
道の駅の地域振興への役割を明らかにするために,ろまんちっく村農産物直売所出荷者に対して調査票調査を行った。調査項目は①出荷者の居住地と農業経営について②出荷者とろまんちっく村とのかかわり③出荷者の意識である。
①について出荷者の居住地と農業経営についてみていくと,出荷者は27人中26人がろまんちっく村から7km圏内に居住していた。また,農業従事者の年齢は35~64歳が最も多く,農地については2~5haの農地を持つ出荷者が多かった。これらは宇都宮市の農業従事者の特徴を現したものであった。販売額に関しては,宇都宮市の農家の販売額より多い販売額の出荷者がみられる。また,総販売額におけるろまんちっく村での出荷割合は,平均して4割ほどであった。
②について,ろまんちっく村への出荷開始からの販売額の変化を見てみると56%の出荷者が出荷開始から販売額を増加させており,特にろまんちっく村から1~2km圏内に住む出荷者が販売額を増加させていた。比較を行った道の駅龍勢会館では販売額を増加させた出荷者が27%であった。出荷開始による新規品目の導入については37%の出荷者が新規品目を導入している。これも龍勢会館の0%,道の駅愛彩ランドの17%と比べても高い数値となっている。新規品目についても近隣に住む出荷者が特に新規品目を導入している。
これらのことから道の駅への出荷者は道の駅への出荷により販売額の増加という形で良い影響を受け,新規品目の導入や作付面積の変化という形で積極的に農業にかかわっていることがわかる。
③について,多くの出荷者がろまんちっく村に出荷したことで生産物に対する責任が増したと回答した。直売所に出荷することで実際に消費者と接し,その姿をみて,さらに消費者と会話することが出来るためであると考えられる。また,出荷することの魅力については,少量・規格外でも販売できるという回答が多い。今まで,少量や形が悪く出荷できなかったり捨ててしまっていた作物を出荷できるというの出荷者にとって大きな魅力であっただろう。道の駅ができたことでの地域の変化については,生産者同士の交流が増えたとする人が多い。直売所が,生産者と消費者の交流拠点だけではなく,生産者同士の交流拠点ともなっていることがわかる。
調査票をもとに,出荷者の特性やろまんちっく村に関する意識に関して検討してきたが,以下のことが明らかになった。
出荷者はろまんちっく村の周辺に居住し,宇都宮市の農家の傾向と類似していた。農地面積,販売額,出荷割合等で出荷者間の違いは出ているものの,出荷時期や新規品目の導入等ろまんちっく村への出荷については積極的に行っている出荷者が多い。そのため,出荷者の多くは出荷開始から販売額が増えており中には休耕地の復活など地域を活性化させる要素も見られた。出荷者はろまんちっく村の魅力として消費者との近さを挙げており,その影響で自らも責任感ややりがいを感じている。また,ろまんちっく村の場が消費者と生産者だけではなく生産者同士の交流の場ともなっており,道の駅の役割としてもしっかりと機能していることがわかった。これらのことから,道の駅は地域振興の役割を果たすことのできる施設であるといえるだろう。
本研究では道の駅の立地傾向について,そして道の駅の地域振興への役割について見てきたが,近年の道の駅は人口の多い平野部に立地し,農産物直売所出荷者を通じて地域振興の役割を果たしているということが明らかになった。
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2013年度卒業論文 |
大澤一輝 | 利根導水路の利用状況の変化 |
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Ⅰ はじめに
水路は,元々は「水を流す」という役割が多くを占めていた。しかし,近年では送水の役割に加えて,水路を遊水・交流の場として利用したり,水路にフタをしその上を駐車場,橋,道路として利用するなど,空間利用の側面も見られるようになり,水路の利用形態,目的は大きく変化している。
本研究では,利根導水路のうち武蔵水路と見沼代用水路に着目し,その利用状況に変化があったのかを明らかにしていく。
武蔵水路は,利根川の水を荒川へ運ぶための約14.5kmの 導水路であり,行田市の利根大堰から鴻巣市を流れている。1964年に着工し,1965年に完成した。武蔵水路は,①都市用水の導水 ②浄化用水の導水 ③周辺地域の内水排除の3つの役割を担っている。一方,見沼代用水路は1728年に,徳川吉宗の命を受けた井沢弥惣兵衛が新田開発のために,見沼溜井に代わる農業用水の供給施設として,新たに開削された用水路である。現在,行田市の利根大堰から,埼玉県上尾市瓦葺付近で見沼代用水東縁と見沼代用水西縁の二手に分かれ,それぞれ東京都足立区,さいたま市南区までの約100kmを流れている。
それぞれの水路が首都圏の人々の暮らしを支え,時には渇水によって取水制限を行うなど,私たちに大きな影響を与えてきた。このように,水路は私たちの生活に密接に関連しており,必要不可欠なライフラインといえる。
Ⅱ 利根導水路建設の経緯
利根導水路は,利根大堰 ,武蔵水路 ,合口連絡水路 ,葛西用水路 ,見沼代用水路 ,末田須賀堰, 秋ヶ瀬取水堰 ,朝霞水路の総称である。
1954年以降,首都圏では高度経済成長によって人口増加・産業集積が進んだ。これによって,水需要は急激に増加したほか,河川の水質汚染が課題となるなど,水源転換,水源確保が求められた。また,当時池田内閣が打ち出していた「所得倍増計画」を達成するためには,水資源の確保が最優先の課題であるとして,水資源開発公団(現:水資源機構)を新たに設立するなど,全国で水資源の開発を進めていた。そして,1961年以降,東京都を中心に多摩川の長期渇水によって,毎年給水制限が続くようになり,東京オリンピックが開催される直前の1964年の夏には,小河内,村山,山口の3貯水池の貯水量が満水時の1.6%まで下がるなど,オリンピック開催が危ぶまれる最悪の事態となり,「東京砂漠」と言われるほどの水不足に陥った。これらのことが契機となり,東京都・埼玉県の水問題の解決に向け,利根川上流のダム群で生みだされた水を埼玉県や東京都に送る手段として,利根導水路が建設された。
Ⅲ 利根導水路の利用者の変化
利根導水路の利用者にあたる埼玉県や東京都の変容について着目すると,両都県の人口は,第二次ベビーブームなどによって,1955年から2010年までの55年間で,東京都で2.1倍,埼玉県では3.1倍と急増したことから,利根導水路の利用者は年々増加したと考えられる。また,利根導水路によって農業用水が供給される埼玉県では,総農家数,耕地面積,田地面積,畑地面積ともに減少傾向がみられた。このうち,見沼代用水路沿線市町村の総農家数・耕地面積の減少率を見ていくと,利根大堰に近づくにつれて減少傾向が小さくなり,東京都に近づけば近づくほど減少傾向が大きくなるという特徴が明らかになった。これらのことから,武蔵水路と見沼代用水路を含めた利根導水路において,都市用水の需要は「増加」し,農業用水の需要は「減少」しているといえる。
Ⅳ 利根導水路の利用状況の変化
利根導水路の利用状況について,用水利用,排水利用,空間利用の3つの視点でみていくと,利根導水路の用水利用は,1968年に都市用水(水道用水,工業用水,浄化用水を含む)・農業用水は同じような利用率であったが,それ以降は都市用水の利用率が農業用水の利用率を上回る状態が続いた。この状態の背景には,首都圏の人口が急激に増加したことにより,利根導水路における都市用水の需要が増える一方で,埼玉県内の農地全体の減少,総農家数の減少, 土地持ち非農家数の増加などによって,利根導水路における農業用水の需要が減ったことによるものと考えられる。また,水利権によって,利根導水路の都市用水の利用率が60%前後,農業用水の利用率が40%前後で安定していることが明らかになった。利根導水路の利用率には変化は見られなかったが,用水利用の主体は「農業面」から水道用水や工業用水といった「生活面」へと変化しているといえる。
排水利用については,利根導水路が都市用水や農業用水を供給するものであるため,農業排水や生活排水といった利用状況には変化が見られなかった。一方,武蔵水路では,内水排除の利用が,武蔵水路流域(行田市)で台風被害が発生して以降行われているものの,その後も災害が相次いで発生しており,現在,治水機能の強化・確保を目的にした改築事業が行われていることからも,内水排除の利用の重要性が今後増すものと考えられる。
空間利用については,利根導水路のうち見沼代用水路では,江戸時代から明治時代にかけて舟運が行われ,江戸から埼玉,埼玉から江戸への物資輸送ルートとして利用されていた。1984年以降,環境整備事業が行われ,緑のヘルシーロードや水と緑のふれあいロードといった自転車・歩行者専用道路の建設や,親水公園の設置,自然動物生息に向けた環境保全活動など,親水空間としての利用に変化している。
武蔵水路では,これまで目立った空間利用は行われてこなかったが,現在行われている改築事業に伴い,歩道の整備や拠点整備ワークショップが定期的に開催されるなど,空間利用を巡る動きが活発になっており,今後の展開が注目される。
Ⅴ おわりに
利根導水路は,①高度経済成長 ②池田内閣による水資源開発 ③水不足など,日本が経済発展をしていくための切り札として建設された。しかし,時代が変化していく中で,利根導水路の利用者や利用状況もまた大きく変化することになった。そして,今後利根導水路の利用をめぐる最大の争点は,空間利用にあると考える。埼玉県では,「川の再生~川の国埼玉へ~」と称し,水辺空間の創出を目的とした事業を盛んに行っている。その中には,県民参加の事業も含まれており,現在,利根導水路は事業の対象とはなっていないが,今後,県と地域住民が一体となって親水空間を創出するような事業が行われるのか,注目していきたい。
今後の課題として,本研究では利根導水路について取り上げ,その中で武蔵水路と見沼代用水路の利用状況の変化について考察したが,葛西用水路や朝霞水路といった他の利根導水路についても考察することで,より詳細な利根導水路の利用状況の変化が明らかになるものと考える。
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小林直樹 | 日光東照宮を中心とする門前町の変遷と現状 |
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Ⅰ はじめに
(1)日光市の概要
日光市は,2006年に,今市市,旧日光市,藤原町,足尾町,栗山村と合併し,全国で3番目に大きな面積を有し,2013年12月現在,人口は85,942人である。
(2)日光の歴史
奈良時代に勝道上人によって開山され,山岳宗教の地として発展した。鎌倉時代から南北朝時代には最盛期を迎え,宗教的権威を獲得していったが,戦国時代には戦乱に巻き込まれ,豊臣秀吉によって多くの土地を没収されてしまった。この混乱を鎮める出来事が,東照宮の造営である。徳川家康の没後,徳川家の政権の維持のために自ら守護神になるべく,日光の地に東照宮を建立せよと遺言を残した。一連の東照宮の造営により多くの参拝者を呼び込むようになった日光は,町並みが整備されていった。神橋を中心に東側に参拝者相手の商業活動が多くみられ,西側には,商工業者の住む職人街が形成されていった。
(3)研究目的
本稿では,栃木県日光市の東照宮を中心として形成された門前町を研究対象地域として取り上げる。門前町の変遷をたどり,どのような発展を遂げてきたかを明らかにする。また,現在どのような現状であり,どのような課題を含んでいるかを明らかにすることを研究の目的とする。
Ⅱ 日光市の観光について
(1)日光市全体の観光
日光市の入込客数は平成2年の810万人をピークに年々減少している。平成2年は景気が良く,大きな消費活動が見られたが,後のバブル崩壊に伴い,徐々に消費が停滞していったためだと考えられるが,平成11年には,573万人まで減少した。翌年には650万人まで上昇し,その後しばらくは600万人を割ることはなくなる。これは平成11年に,日光東照宮を含む「日光の社寺」がユネスコの世界文化遺産に登録されたことが影響していると考えられる。
利用交通機関別にみてみると,日光に訪れる人の約8割が自家用車を用いていることが分かる。日光市には,東武鉄道と,JRのふたつの鉄道機関があるが,合わせて2割程度である。
日光市の入込客数における宿泊客の割合は,大体20パーセント前後である。以上のことから,日光市は自家用車を用い,日帰りで訪れる観光地であるという特色が読み取れる。
(2)日光市街地の観光
日光市内の主な観光施設の中で,最も門前町と関連があると考えられる,二社一寺を利用する観光客は,220万人を超え,次いで多い施設が「やしおの湯」であることから,二社一寺は日光の中で最も魅力ある観光施設であるといえる。次に,平成22年の日光地域における宿泊者数を地域別に見ていくと,日光市街地は,湯元に次いで2番目に多い21万人である。日光市街地は,日光の観光施設の中でも最も多い利用者を誇る,二社一寺という強力な観光資源を有し,地域別宿泊者数も2番目に多いという点から,日光の観光業の中心であるといえる。
Ⅲ 日光門前町の変遷
東武日光駅から,神橋へ至るまでの,松原町,石屋町,御幸町,下・中・上鉢石町の地域を東町とし,その街並みの変遷を桂(1995)の研究と住宅地図を用いてたどる。
この地域は江戸期に門前町として発展した。桂(1995)の研究によると,近年で大きな変化が確認できるのは,明治時代の交通の発展によるものである。1910年に日光電気軌道が開通し,観光客の輸送を担うことになった。このことにより日光駅前と,神橋間の門前町を歩く観光客は少なくなってしまい,街並みの両端は賑わったが,途中が寂れてしまった。
(1)1971年の商店構成
1971年の住宅地図より商店構成を見ると,土産物店が11店舗。商店が112店舗。飲食店が24店舗。宿泊施設が11店舗見られた。商店の分布を見てみると,土産物店は東武日光駅付近の松原町と神橋付近の上鉢石の両極端地域に多く見られ,商店,飲食店,宿泊施設は全体的に分布していたことが分かった。
(2)1999年の商店構成
1999年の住宅地図より商店構成を見ると,土産物店が12店舗。商店が102店舗。飲食店が28店舗。宿泊施設が8店舗見られた。1971年と比べると,商店が10店舗減少している。商店の跡地は民家や,駐車場となっているところが多い。宿泊施設は3店舗減少しているが,そのすべてが御幸町の店舗であった。
(3)2013年の商店構成
2013年の住宅地図より商店構成を見ると,土産物店が8店舗。商店が85店舗。飲食店が26店舗。宿泊施設が6店舗見られた。1999年と比較すると,土産物店が4店舗減少。商店が17店舗減少。飲食店が2店舗減少。宿泊施設2店舗の減少であった。全体的に見てみると,1999年には150の店舗が見られたが,2013年では125店舗と,25店舗の減少が見られる。
町別に見ていくと,東武日光駅付近の松原町が29店舗から26店舗へ3店舗の減少。石屋町が26店舗から15店舗へ11店舗の減少。御幸町が32店舗から30店舗へ2店舗の減少。下鉢石町が28店舗から23店舗へ5店舗の減少。中鉢石町が15店舗から11店舗へ4店舗の減少。上鉢石町では減少は見られなかった。
Ⅳ 日光市の景観計画について
日光市は平成18年に市町村合併をし,栃木県の約22パーセントの面積を有する,大きな市となった。合併に伴い,市全体の「早期における一体感の醸成」や「各地域の均衡ある振興・発展」などという課題が生じた。そのような中で,日光市は計画的にまちづくりを進めるために「日光市総合計画」(平成20年)を策定した。同時に景観法に基づく,景観形成における基本的な指針を示した「日光市景観計画」が策定された。日光市は昭和60年に街並み景観条例を策定しているが,罰則規定がないことや,増改築時における助成金限度額が低いなどのことからあまり守られていない状況であった。日光市は平成17年に景観行政団体になったことから,景観法に基づく条例を策定できるようになった。
Ⅴ おわりに
日光門前町は,商店数の減少,入込客数の減少などの問題を抱えている。しかし,世界遺産である日光の社寺は観光施設として観光客を引き寄せる魅力を持っていて,景観計画に基づくまちづくりにより,さらなる魅力を持つ街並みを形成しようとしている。景観計画が完了した際にはさらなる発展が期待できるであろう。
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近藤優光 | 埼玉県における小中学校の統廃合とその後の空間利用 |
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Ⅰ はじめに
2005年の国勢調査に基づくと,日本の総人口は1億2777万人であった。この数字が公表され,日本の人口が2004年中にピークを迎え,人口減少期に入ったものとみられた。さらに今後の日本の総人口は急速に減少していくものと推計されている。この人口増加時代から人口減少時代への大転換は,日本社会の衰退,すなわち「超少子高齢化の進展」「経済活力の衰退」「現役世代への負担の増大」の兆しとして受け止められ,将来の社会への不安感をもたらしている。この「超少子高齢化の進展」により,急速に学校統廃合が進んでいくと予想される。
本研究では,埼玉県における学校統廃合の現状とその後の空間利用について調査した。さらに,川口市の学校統廃合を事例に,ミクロ的な視点を持って研究した。研究対象は,2004年度以降の埼玉県内の公立小中学校のみに限定した。
Ⅱ 日本の学校統廃合の現状
公立学校の年度別廃校発生率を見ると,1999年度まではおおむね200校前後で推移してきたが,2000年度に265校が廃校となってからは廃校数が増加し,2010年度で504校が廃校という状況である。
学校統廃合の最も基本的な要因は,少子化による児童数・生徒数の減少である。それ以外にも,学校適正規模の問題や市町村合併,財政問題など様々な要因がある。
Ⅲ 学校統廃合後の空間利用
まず,1都3県(東京都・神奈川県・埼玉県・千葉県)では廃校跡地のほとんどが何らかの形で利用されていて,その半分以上は暫定利用の状態である。廃校以降の数年間は,恒久利用への転換をする跡地が増えると考えられるが,長期間にわたって恒久利用への転換が起こらないままの跡地も,一定数存在している。恒久利用の割合を見てみると,都心部や都心周辺部と比べて,埼玉県の広範囲が含まれる郊外部の割合は低い。
次に,跡地の財産処分状況を見ると,都心部では貸し付けが,都心周辺部では売却が相対的に多い。しかし,郊外部では自治体の施設として残される跡地が多い。
さらに,廃校跡地の用途を見ると,1都3県において最も多い用途は市民開放(56%)である。施設を市民団体などの活動の場として開放する形態である。そして,福祉施設等(21%),学校・学校関連施設(18%),書庫・倉庫(16%)といった用途も多い。郊外部では,生涯学習施設・地域施設・市民開放といった市民活動の場,書庫・倉庫としての利用が割合として多い。
Ⅳ 埼玉県の学校統廃合の状況
埼玉県において2004年度から2013年度までに統廃合の対象となり廃止された小・中学校は,45校存在した。そして,この計45校,31件の学校統廃合の経緯・状況を分析し,近年の埼玉県における学校統廃合の特徴をまとめた。
まず,学校統廃合に至った主な要因として,①集合住宅の少子高齢化,②過疎化の進行による少子高齢化,③戸建て住宅が密集している地域の少子高齢化,④まわりに大規模施設があり学区が狭い,⑤学校間の距離が近い,といった要因が挙げられ,①集合住宅の少子高齢化と②過疎化の進行による少子高齢化がそのほとんどを占めている。学校適正規模の観点から特徴を見ると,統廃合の対象となったほとんどの学校の児童生徒数が減少していることがわかった。
廃校跡地の用途を見ると,まず学校としての利用が多く,売却が非常に多いということがわかった。これは,村井(2010)の研究の中の都心周辺部で見られる傾向であった。また,廃校跡地として残った33校のうちの16校が跡地の活用方法について検討中または不明の状態でもあった。これは,郊外部で見られる傾向であった。このように,廃校跡地の用途に関して,近年の埼玉県では「都心周辺部」と「郊外部」の両面を持っているということが明らかとなった。
Ⅴ 事例研究 ~川口市の学校統廃合を事例に~
まず,2012年3月をもって廃校となった川口市立芝東小学校は,廃校の要因として,戸建て住宅が密集している地域の少子高齢化(③)と学校選択制の導入が挙げられた。そして,川口市議会の定例会での質疑応答から,跡地の活用について,芝東第4土地区画整理事業の促進を図るために用地として活用し恒久活用しようとしているが,地域住民との話し合いもせず検討委員会も立ち上げることもしないとしているということや,廃校となった後も避難場所に指定されているが,避難場所として機能しない懸念があったことがわかった。このことから,住民の意見を聞き地域のシンボルとして学校を残すことよりも行政の円滑な運営に用いたいという市の思惑や,避難場所としての機能,鍵の管理の不透明さが明らかとなった。
また,川口市立芝園小学校は2008年3月に廃校となり,芝園中学校は2013年3月に廃校となった。旧芝園小の校舎の一部は川口市立中央図書館芝園分室として利用されている。廃校の要因として,学区の大部分を占める芝園団地の少子高齢化(①)や,学区が川口市の他の学区とJR東日本の線路で分断されたエリアにあるために生活圏も異なっていること,学校選択制の導入など,多くの要因が挙げられた。また,定例会での質疑応答から,以前から学校統廃合をめぐって行政と地域住民の間で摩擦が生じていたことがわかった。このことから,行政側が地域住民に対する説明や話し合いの場が設けられていなかったことが明らかとなった。
Ⅵ おわりに
今後学校統廃合はさらに急速に進行していくと考えられる。行政は将来を見据えて綿密に学校設置や学区編制を行うべきであり,廃校跡地の恒久活用についても,これまで以上に迅速に,かつ地域住民の声を聞いたうえで,決めるべきであると考える。
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宮田栄次郎 | 日本橋の変遷と商店の変化 |
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Ⅰ はじめに
日本橋という地名から多くの人が連想するのは,オフィス街などである。しかし,オフィスが多いのは勿論であるが,人が多く暮らしている地域もあり,マンションの開発も各地で見られる。以前は,減少傾向であった人口も,近年は増加が目立つ。また,日本橋は,商業の地としても発展してきた地域であり,時代を経て,様々な変化をしてきている。そこで,日本橋に暮らす人々や,商店の変化を調べ,自分が暮らしているこの地域の性質や変化を探る。
今回の調査では,日本橋の人形町を主な調査地とする。この地域は,オフィス街ではあるが,水天宮や明治座などがあり,古くから,ここで暮らす人々と密接にかかわってきた地域である。
Ⅱ 日本橋地域と人形町の変遷
1.日本橋地域の変遷
日本橋が誕生したのは,江戸時代である。徳川家康が江戸に入場する際に,江戸城周辺の整備が行われ,それに伴い,日本橋が架けられた。当時のこの地域には,武家屋敷が並んでいた。百貨店の前身である呉服店もこのころに日本橋に進出する。水路が多く,水運が盛んに行われていた。両岸には魚河岸も形成される。明治期では,郡区町村編制法により,日本橋区と京橋区が誕生する。この時期には,日本銀行や東京株式取引所がつくられる。周辺にも関連会社が設立され,金融・商業の中心地として発展した。欧風化が進み,呉服店は百貨店へと姿を変えた。大正~昭和では,東京駅の完成で交通の利便性が増す一方で,関東大震災や戦争により大きな被害を受けた。魚河岸は築地へ移転し,復興により,都市開発がすすめられた。平成に入ると,オフィスの進出が続く。百貨店で賑わっていた地域には,複合商業施設が誕生する。
2.人形町の変遷
江戸時代の人形町は,武家地であると共に,商業地であった。町内を運河が流れ,魚河岸が発展した。町名にもあるように,人形芝居で使う人形を作る職人や人形師が多く生活しており,町名の由来であるとされる。もう一つの特徴として,元吉原があった。しかし,明暦の大火で焼失した際に,浅草へと移転された。魚河岸,人形芝居,吉原が当時の人形町の商業の基礎を作った。人形町は,明治期に入ると本格的に栄えていく。1872年に日本橋川に鎧橋が架けられたことにより,それまで水運での移動だったものが,容易に対岸の地域との往来ができるようになった。物資の輸送も容易になり,人形町界隈の商業の発展を促した。1873年には,赤羽橋から水天宮が移される。神社ができたことにより,門前市のように栄えるようになった。1876年には,東京米穀取引所が設置され,米の売買が盛んに行われるようになる。芝居町や吉原としての要素も生きており,1879年には北の浜町に劇場「久松座」ができ,花街の雰囲気が残り,料亭が多くあった。人形町商店街もこのころにでき始め,明治30年代には,都電が通るようになり,交通網が整えられた。昭和以降では,日本橋の他地域と同様に,震災や戦争により大きな被害を受けたが,復興に伴い商店街も活気づいていく。都電は衰退していくが,地下鉄や首都高など,交通網はより発達していった。2000年に入ると高層マンションの建設が見られるようになる。2005年には隣接する浜町に「トルナーレ日本橋浜町」が,2007年には「リガーレ日本橋人形町」が相次いで建てられた。建物の高層化が進み,人形町商店街の景観も変化してきた。
Ⅲ 人形町の統計
人形町の変化を平成12年・17年・22年の統計調査から読み取る。
1丁目では,2007年に高層マンションができたこともあり,17年からの増加が多く,倍近く上昇している。30~40代と10代以下の増加がみられ,20台前後はあまり増加していない。2丁目では,12年からの増加が多かった。3丁目はオフィスビルが多く,人口が少ない。それでも人口は年々増加しており,女性の増加が特に多い。他の地域に比べて単独世帯の割合が多くなっていた。
人口増加の要因としては,マンションがこの時期に多くたてられ,人口を受け入れる体制が整えられたからだと考えられる。また3駅4路線が通り交通の利便性が高い。オフィス街ということで,夜は非常に静かということも魅力の一つかもしれない。
Ⅳ 人形町商店街周辺の変化
中央区のまちづくりは,1981年に策定された『中央区基本構想』と『中央区基本計画』により進められる。この計画内で,中央区を,歴史・土地・建物の用途などから3つのゾーンに区分し,まちづくりの基本的な方針を定めた。人形町は,第Ⅱゾーンに区分され,住宅を中心とした高度利用・地場産業の育成・水辺を生かしたまちづくりの3点が基本の方針とされた。さらに,平成16年に策定された「商店街振興プラン」により,人形町商店街はオフィス街であるとともに,歴史ある商店街としての活性化が定められた。
人形町商店街の商店の変化を調べるにあたり,1977年と1994年,2010年の商店街のイラストマップと現在の街並みを比較した。人形町通りに店を構える店舗の数は,85→70→81→83店舗と変化する。1994年で大きく減少しているが周辺の地域では,商店の増加が見られるため,このころがちょうど,ビルの建設時期と重なっていると考えられる。現在ある商店のおよそ3分の1の29店舗は,40年以上も前から,営業している店舗であった。中には,明治や大正といった100年ほど前や,江戸時代から根付いている商店もあった。1977年にはファッション関係の商店が多く,現在のファッション関係の商店のほとんどが当時から残る商店である。1994年以降では,チェーン店の進出が目立った。この時期に進出したチェーン店22店舗は,現在も営業しており,全体の4分の1である。2010年以降では17店舗が,新たにできている。現在の建物の多くが,2~5階建てで,高いものでは,16階建のものがあった。これらの建物は,1階を商店として利用し,2階より上はオフィスやマンションとして利用し,土地の高度利用がなされていた。この地域では,歴史のある店舗が一種のブランド力を有しており,地域の信頼も厚く,長く,この商店街を支えてきたと考えられる。一方でオフィス立地ということもあり,飲食店が多く,移り変わりも激しい。周辺の地域をみると,コンビニが増加し,2000年以降は,スーパーマーケットの進出もみられる。オフィスとしての発展とともに,定住人口の増加が関係していると考えられる。
Ⅴ おわりに
日本橋の誕生から現在までの変化をたどり,人形町の移り変わりをまとめてきた。江戸時代以降,様々な要因で被害を受けてきながら,そのたびに復興や発展を果たし,時代の中心地のひとつとして,社会を支えてきていた。歴史がある町であるとともに,時代のニーズに応じて,商店などが変化してきている。今後もこの地域は,さらに発展していくことが考えられる。まちづくりの方針にもあるように,歴史あるものを残しながら,より過ごしやすくなるような発展が求められる。
2020年には,東京オリンピックの開催が決まり,晴海に選手村ができる。その際にこの地域がどのように変化するのか楽しみである。
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横内祐介 | 山梨県における「平成の大合併」 |
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Ⅰ はじめに
いわゆる「平成の大合併」とは人口減少・少子高齢化等社会情勢の変化への対応や,地方分権の担い手となる基礎自治体の行財政基盤の確立を目的として平成11年(1999年)から平成22年(2010年)にかけて全国的に推進された市町村合併のことである。平成11年度には3232あった市町村が,平成21年度には1727まで減少した。対象地域とした山梨県においては,平成11年度には64の市町村が存在したが,平成21年度にはその数を27まで減少させた。市町村の減少率は57.8%と全国で14番目であり,比較的市町村合併の進んだ地方である。本稿では「平成の大合併」前後の山梨県の市町村を調査・比較することで山梨県における市町村合併の成果と課題を明らかにすることを目的とする。
Ⅱ 日本における市町村合併の推移
「平成の大合併」が行われる以前にも大きく合併が進んだ時期があった。いわゆる「明治の大合併」と「昭和の大合併」である。「明治の大合併」は明治21年(1888年)から明治22年(1889年)にかけて全国的に行われた市町村合併である。「市制町村制」の施行に伴い,自治体を教育・徴税・戸籍の事務処理等の行政上の目的に合った規模とすることが目的とされ,結果として71314あった市町村が15859まで減少した。「昭和の大合併」は昭和28年(1953年)から昭和36年(1961年)にかけて全国的に行われた市町村合併である。新制中学校の設置管理・市町村消防や自治体警察創設に関する事務等新しい事務を能率的に処理するための規模の合理化が目的とされ,結果として9868あった市町村が3472まで減少した。
Ⅲ 「平成の大合併」
「平成の大合併」は人口減少・少子高齢化等社会情勢の変化への対応や,地方分権の担い手となる基礎自治体の行財政基盤の確立を目的とし,合併特例債の創設や地方交付税の合併算定替の延長といった手厚い財政措置がとられたことで進んでいった。
「平成の大合併」によって,市町村数は3232から1727まで減少したが,市町村数の減少率には都道府県間で大きな差があった。合併が大きく進んだ地域としては長崎県(73.4%)・広島県(73.3%)・新潟県(73.2%)・愛媛県(71.4%)・大分県(69.0%)等が挙げられ,合併が進まなかった地域としては大阪府(2.3%)・東京都(2.5%)・神奈川県(10.8%)・北海道(15.6%)・奈良県(17.0%)が挙げられる。大阪府での合併は堺市1件,東京都での合併は西東京市1件,神奈川県での合併は相模原市に関する2件となっており,大都市部における合併が進まなかったことがわかる。
合併を行った理由として最も多かったものは「財政状況」(74.5%)であり,「地方分権の推進」(61.3%),「少子高齢化」(46.6%)と続く。年度別合併件数は合併特例債や地方交付税の合併算定替の延長の期限である平成17年度がピークとなっている。これらのことから財政状況が「平成の大合併」が進んだ大きな要因だったと考えられる。
Ⅳ 山梨県における「平成の大合併」
平成11年から平成22年の間に13の市・町の新設と4件の編入があり,平成11年度に64あった市町村が平成21年度には27まで減少した。また,この期間中に合併しなかった市町村は13あった。
「平成の大合併」前後の山梨県の市町村の財政力指数を比較すると,平成11年度の財政力指数の平均は0.420,平成21年度の財政力指数の平均は0.650であり,上昇傾向にあることがわかった。合併した市町村の平成11年度から平成21年度の財政力指数を比較すると,全ての市町村において平成21年度の財政力指数の方が高くなっており,財政面で一定の成果があったと考えることができる。
一方,合併しなかった市町村の財政力指数も,微減だった富士吉田市を除いて,平成21年度の財政力指数の方が高くなっている。忍野村・山中湖村・昭和町など財政力指数が1を超える町村をはじめ,合併しなかった市町村は山梨県の平均よりも高い財政力指数をもつ傾向が見られる。これらの市町村は合併せずとも単独で自治体運営を行うだけの財政力があるため,市町村合併を行う必要がなかったと考えられる。一方,早川町・道志村・小菅村・丹波山村など地形的な問題から合併できなかった町村の存在もある。隣接する自治体と行き来するためには車で1時間近くを要し,合併が現実的ではなかった。これらの町村は全て人口2500人未満であり,財政力指数も上昇してはいるものの,その値は微々たるものであり,数値も極めて低いものである。このような合併したくても合併できない自治体の存在は今後の市町村合併の課題と言える。
Ⅴ おわりに
「平成の大合併」によって山梨県の市町村数は64から27まで減少し,合併したことにより財政面で一定の成果があったことがわかった。一方,今後の課題として,地形的な問題から合併したくても合併できなかった自治体の存在も明らかになり,交通網の整備など対応を考えて行かなければならない。
平成22年に「平成の大合併」に一区切りがつき,今後のことを考えると,さらなる市町村の合併や「道州制」の導入が考えられるが,「平成の大合併」においても合併したくても合併できずに取り残される自治体が出てきている中,このまま自治体の規模を拡大し続けることは問題があり,解決策を見出すまではさらなる市町村の合併や「道州制」の導入には慎重になるべきではないかと考える 。
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2012年度修士論文 |
俣野文孝 | 東京圏におけるコミュニティバス運行事業の展開 |
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Ⅰ はじめに
コミュニティバスは高齢者などの交通弱者のモビリティ確保や交通空白地帯の改善・解消,公共施設への移動手段の確保などアクセシビリティの改善に寄与するだけでなく,民間事業者のバス路線がない地域にとっては,最終的な乗合公共交通サービスとして,生活に必要不可欠の交通モードとなっている。
しかし,「コミュニティバス」という定義自体が曖昧なため,県単位での独自の集計はあるが,都県単位を越えて概観できるような統一的なデータはなく,導入の実態は十分明らかにされていない。また,自治体の横並び競争のもと,コミュニティバスを走らせることが目的なっているとの指摘もあるが,導入の普及過程を実証的に示すことは容易ではなく,明らかにした研究はみられない。
したがって,本研究では,コミュニティバスの導入の実態を把握する。次に,地理学において階層効果や近隣効果によって現象の拡散に関する説明がなされる空間的拡散モデルを援用し,自治体におけるコミュニティバス政策の導入過程の実態,導入の普及・拡散の実態の解明を行う。
なお本研究では,「コミュニティバス」を「自治体が事業計画・事業実施・財政補助等何らかの関わりがある乗合バス事業であり,利用者が限定されないバス交通」と定義する。また,東京圏の一都三県,東京都,神奈川県,埼玉県,千葉県を対象地域とする。
Ⅱ 交通と都市の発達と展開
欧米と日本の陸上交通機関と都市の発達の展開を概観し,交通機関の発達により,市街地が拡大したこと,欧米と日本で時期が若干違えど,モータリゼーションの進展によって,自動車が普及し,路面電車が廃止されたことを確認した。また現在,様々な都市問題への対応から路面電車がLRTへの転換などから,再度注目を集めていることなど,都市交通全体の近年の状況・話題を確認した。
Ⅲ 日本の乗合バス事業
日本における乗合バス事業の歴史的展開・各種補助制度を整理し,現在の日本では政策的にも,制度的にも利用者が少ないバス路線に対するサービスの維持・確保は民間のバス事業者ではなく,当該の自治体に委ねられている状況を明らかにした。そのため「コミュニティバス」という形態での自治体によるバス運行が,地域の交通を維持していくうえで,社会的に求められている。
Ⅳ 都市交通モードにおけるバス交通の位置づけ
都市交通相互の関係について整理し,輸送能力などの特性から,それぞれの交通モードが担う適正範囲が存在することを確認した。そのうえで,従来の交通モードがカバーできない領域を担う交通モードとして,現在LRTとコミュニティバスが注目を集めていることを紹介した。そのうえで,日本においてLRTは事業費の問題や自動車との関係からあまり普及していない一方で,コミュニティバスは交通弱者のモビリティ確保の目的とあわせ,全国的に広く普及が進んでいる実態を明らかにした。
したがって,日本においてコミュニティバスは,バス事業全体の展開や都市交通相互の関係より,運行の意義や必要性が存在する。そのため広く注目を集め,実際の導入が拡がっている。
Ⅴ コミュニティバスの現在の状況
東京圏のコミュニティバスの実態の把握を行うために,様々な観点から各自治体を比較し,考察を行った。その結果,運行の開始時期や運賃制度などにおいて,地域的まとまりや近隣の自治体で似通った傾向が見られ,コミュニティバス事業普及の近隣効果あるのではないかと思われる実態が確認された。
また,バス事業に依らない他の統計指標を用いて,コミュニティバスが運行される要因を検討し,その説明を試みた。しかしながら,コミュニティバスの運行自治体と運行していない自治体の間で大きな差異はみられず,コミュニティバスの運行は自治体の人口や財政,居住者の自家用車保有台数とは異なる要因にあることが想定された。
Ⅵ コミュニティバス導入自治体の空間的拡散
前章で充分明らかにならなかったコミュニティバス導入過程の実態を解明するため,各自治体の議会会議録から,コミュニティバスの運行を検討する際,参照している自治体を調査し,コミュニティバス導入の空間的拡散過程の検証を行った。なお,本論文で「東京圏近郊」と定義した東京都庁を中心に半径35km圏の自治体を対象とした。
検証にあたって,導入年度については,図1の区分を参考に,1995年以前・1996~2000年・2001~2005年・2006~2010年の4つに区分し,参照している自治体を「隣接自治体」,「都県内自治体」,「東京圏内自治体」,「東京圏外自治体」の4つに分類し,各導入年度において参照している,自治体数を集計した。その結果,コミュニティバスの導入の検討の際,各自治体は「隣接自治体」と「都県内自治体」の参照が多く,近隣の自治体を参照しやすいといえ,近隣効果がはたらいているためであるといえる。したがって,コミュニティバスを運行している自治体の近隣で,運行開始時期やサービスに関して同じような傾向を示す要因として,近隣効果がはたらいているためであるということが実証された。
階層効果の検証については,導入が階層的に進むというより,先進的・革新的事例や広域的に有名な成功事例に影響を受けて,導入が進んだことが明らかとなった。しかしながら,多少階層効果が認められるのではないかと考えられる自治体の事例も確認された。
また,各議会におけるコミュニティバスの普及率の言及を考察すると,自治体間の横並び競争は当該自治体と同一の都県内を対象に行われていた。
Ⅶ おわりに
自治体は議会において,近隣の自治体や先行する有名事例や成功事例を取り上げ,参照し,当該自治体の導入へつなげている実態が明らかになった。これは自治体が主体的に運営や運行に関わるため,周りの自治体や国の政策に影響を受け,他の交通モードとは異なる独特の普及過程であった。
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2012年度卒業論文 |
荒木 望 | 北海道におけるインバウンド・ツーリズム |
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Ⅰ はじめに
本稿では,北海道におけるインバウンド・ツーリズムに注目し,国際ツーリズムのあり方を検討する。2011年における外国人観光客の都道府県別訪問率を見ると,北海道は8位に過ぎないが,98年の18位,04年の12位と比較すると,北海道が日本国内における観光地としての地位を急上昇させていることが窺える。また,北海道は他の地域に比べてアジアからの観光客の比率が極めて高いという特徴を有しており,東アジア各地域からの国際航空便の増加も顕著である。このように,北海道は今まさに成長の途にある観光地であり,日本におけるインバウンド・ツーリズムを検討する上で,北海道を事例として取り上げる意味は大きいと考えられる。
Ⅱ 日本におけるインバウンド・ツーリズムの現状
21世紀冒頭においてUNWTO(世界観光機関)は,『Tourism 2020 Vision(2001)』の中で,2020年までに外国人旅行者の数は15億6千万人に達すると予測し,新世紀が地球規模の大交流時代であることを世界に印象付けた。これまでのところ現実の動きと予測は大きく乖離していない。こうした中,日本もVisit Japan Campaign(VJC事業)などを実施し,世界に「日本ブランド」を広めていこうと官民を挙げて邁進しているところである。
訪日外国人旅行者数は,リーマン・ショックや東日本大震災などの影響を受けた年もあるが,全体的には漸増傾向にある。訪日外国人旅行者を国別に見ると,韓国,中国,台湾の順に多く,アジアだけで全体の7割以上を占めている。また,いずれもVJC事業が開始された03年を境に旅行者数が大きく伸びており,事業に一定の成果があったと言える。しかし,政府が目標として定めた数値には遠く及ばず,訪日外国人旅行者の更なる獲得に向けて一層の努力が必要であると言わざるを得ない。
Ⅲ 北海道への観光の現状と外国人旅行者の動向
北海道における観光入込客数の推移を見ると,1999年をピークに伸び悩んでいる。観光客の行き先を圏域別に見ると,道南・道東での減少が著しい一方で十勝や道北では99年とほぼ同水準を保っており,地域によって大きな差があることが見て取れる。また,観光入込客数を季節別に分析すると,年間入込客数の約半分が夏場に集中し,冬場の入込客数は20%程度にとどまっていることが分かる。北海道観光におけるこれらの特徴は,北海道観光のあり方が本質的な転換点にさしかかっていることを示唆しており,観光のオールシーズン化や外国人が安心して観光出来る環境作り,新しい形態の観光の模索など様々な課題が挙げられる。
外国人来道者数は,訪日外国人旅行者数と同様に全体的には漸増傾向にあると言える。外国人観光客全体の中で,アジアからの観光入込客数の割合は,1997年以降常に8割以上を占めており,北海道の国際ツーリズムにおいて,アジアからの観光客が特に重要な位置を占めていることが窺える。また,北海道にはアジアを中心に14の国際定期航空路線がある他,全部で13ヶ所ある空港のうち7ヶ所で国際チャーター便が入っている。その便数・利用者ともに増加傾向にあり,このことからもまた,北海道におけるアジアからの旅行者の重要性が増していることが推察される。
Ⅳ 外国人観光客の誘致事業
台湾では90年代後半から「北海道旅行ブーム」を迎えており,これは香港や韓国などアジアの他地域にも影響を与え,外国人来道者数を押し上げる結果となった。
北海道と札幌市に対して聞き取り調査を行ったところ,外国人観光客誘致に関してその積極性や方向性に違いが見られた。誘致活動の重点を置いている地域についても,北海道は道観連が台湾に対して重点的に誘致活動を行ってきたことから,今後も台湾を重点市場としていく考えである一方,札幌は,中国が数年後に台湾や韓国を凌駕する市場になると考え,中国を重点市場としていく方針であることを明らかにした。また,道は外国人観光客誘致に関して他の自治体とは連携をとらず,独自に活動を展開しているのに対して,札幌は道内,道外の都市と共同で訪日旅行の周遊ルート策定を模索しており,その点においても両者に相違が見られた。
Ⅴ 登別市の宿泊業にみる外国人受け入れ状況
登別の年間入込総数・宿泊者数は,1998~99年にピークを迎えてから漸減傾向にあるが,外国人宿泊者数は増加傾向にあり,外国人観光客が登別の観光業を支える重要な存在になっていることが窺える。登別観光協会に対する聞き取り調査によると,市は,外国人観光客の誘致活動に関して,当初は消極的であったという。観光協会はその理由を,登別は国内でも著名な観光地の一つとして,かつては意識的な誘致をせずとも多くの観光客を集めていた為,殿様商売とも言える気質が残っていたことにあると指摘する。しかし,ホテルや旅館の誘致活動によって外国人観光客が増加した為,市や観光協会の誘致活動に対する姿勢にも徐々に変化が見られるようになっていった。
登別には,Aホテルによる先駆的な動きを契機として,市を訪れる外国人が増加したという経緯があったが,Aホテルの場合は洋室の稼働率改善,B旅館とC旅館の場合はオフシーズン対策という背景がそれぞれ存在した。こうした埋め合わせ的な対応として,外国人が注目されたのである。特に,B旅館とC旅館については,ターゲットはあくまでも日本人であると明確に規定しているように,外国人受け入れの重要性を認識しつつも,積極的な誘致を展開するまでには至っていないことが明らかになった。
Ⅵ おわりに
本稿では,インバウンド・ツーリズムについて,特に観光関連機関への聞き取り調査をもとに分析・考察を行った。その中で明らかになったことは,各機関によるインバウンド・ツーリズムへの対応は一様ではないということである。例えば,北海道が台湾・香港・韓国・シンガポールをターゲット地域として設定し,特に台湾に力を入れて外国人誘致活動を行う一方で,札幌は中国からのインバウンドに大きな期待を寄せているように,行政の対応も自治体によって異なることが分かった。また,宿泊業界の中でも,宿泊者の相違があることが分かった。
従来の国際ツーリズム研究においては,国家を単位として考察する傾向があった。しかし,旅行者の選択肢の増加や,旅行形態の多様化,観光地における地域ごと,個別機関ごとの取り組みの多様化といった状況を考慮すれば,国家という枠を前提として国際ツーリズムを考察することの限界も見えてくるように思われる。本稿では,北海道という日本の中の一地域を事例として取り上げ,インバウンド・ツーリズムについて言及したが,こうした点についてのより詳細な考察が,国家の枠を越える形での新たな国際ツーリズム研究に発展する可能性を持っているのではないかと期待している。
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五十嵐凌 | 埼玉新都市交通の開通と沿線の都市化―伊奈町の事例― |
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Ⅰ はじめに
日本の大都市圏において,鉄道のような軌道系交通機関の存在は都市の発展に大きな影響を与えてきた。これまで,阪急や東急などに代表される大手私鉄では系列の不動産会社を中心とした都市開発が行われ,沿線に住宅地や商業施設,娯楽施設などが建設された。こうした事例は比較的早い段階から開通していた路線でみられているが,近年に開通した路線の例としてはつくばエクスプレスの事例が挙げられ,土地区画整理事業による沿線の宅地開発と一体的に鉄道を整備する手法で開発が進められている。いずれの例も,鉄道の利用客確保のために宅地開発が行われているという特徴がある。本研究では,埼玉県内において,1983年に開通した新交通システムの埼玉新都市交通の利用状況と沿線地域の発展の関係をみて,今までに研究されてきた一般的な鉄道の事例との差異はあるのか明らかにしていく。
本研究では,埼玉新都市交通沿線のうち,北足立郡伊奈町を主な研究対象地域として取り上げる。伊奈町は,人口約4万人の町で,近年では人口増加率が埼玉県内1位となるなど,人口の増加が続いている町である。埼玉新都市交通が開通するまでは,町内に鉄道がなく,不便を強いられていたが,埼玉新都市交通開通により交通の便が飛躍的に向上した。大都市近郊にありながら交通の便が悪かった地域に新交通システムが整備されたことによる地域の変化の様子を知るには伊奈町の条件が適していると考え,本研究の研究対象地域に選定した。
Ⅱ 埼玉新都市交通建設の経緯
埼玉新都市交通は,さいたま市大宮区の大宮駅から東北・上越新幹線に沿って伊奈町の内宿駅までの12.7kmを結ぶ新交通システムで,通常の鉄道とは違い,ゴムタイヤの車輪を持つ小型の電車により運行され,ニューシャトルという愛称がつけられている。
1971年の東北・上越新幹線の建設計画の申請時に,東北新幹線と上越新幹線の分岐点を伊奈町南端の丸山地区に設けるものとされた。これにより,伊奈町は新幹線により町域を3分割されてしまうという事態に直面した。計画に対し伊奈町側は町内での分岐通過反対を唱え,町が主体となり設立した伊奈町新幹線対策協議会と,住民が主体となって設立した伊奈町新幹線対策委員会の2つの組織によって反対運動が強力に推進されていった。しかし,周辺市町村で新幹線を受け入れる動きが多くなるなどの情勢の変化から,伊奈町新幹線対策協議会では新幹線を受け入れ,見返りを求める条件闘争に入るべきとの主張をするようになった。しかし,地権者の住民が主体の伊奈町新幹線対策委員会側は新幹線絶対反対の姿勢を崩さず,町内でも対立が起こる。1976年に当選した町長が新交通システム建設を条件として新幹線受け入れの方針を打ち出し,ここから新交通システム建設へ向けて本格的に動き出すこととなった。1978年に県と関係市町,国鉄,日本鉄道建設公団,運輸省との間で,新幹線と新交通システム建設の確認書が交わされ,新幹線に沿った形での大宮と伊奈町を結ぶ新交通システムの建設が正式に決定した。1980年に埼玉新都市交通株式会社が設立され,1983年12月22日に大宮~羽貫間が開通した。羽貫~内宿間については用地買収が難航したため,工事が遅れて1990年8月2日に開通した。
Ⅲ 環境整序計画と伊奈町の変容
埼玉新都市交通の開通に合わせて,沿線地域では埼玉県により環境整序計画が立てられている。沿線の秩序あるまちづくりを推進するとともに,新しい都市の整備により埼玉新都市交通の需要を喚起することを目的としている。環境整序計画は,地域の土地利用全体を見直して,新しい地域像を見出していくという考え方で策定された。伊奈町域には5万人の人口集積を目標とし,都市機能配置の主力地区とされた。大宮・浦和の郊外住宅地としての機能のほか,町の田園環境にふさわしい都市機能として教育・文化・情報・レクリエーション機能を配置するものとされた。
環境整序計画に基づき,伊奈町内では土地区画整理事業が行われてきた。このうち,町の北部にあたる羽貫駅・内宿駅周辺では,埼玉県が主体となって,伊奈特定土地区画整理事業が行われた。地域には伊奈学園や県民活動総合センターなど県立施設が配置され,幅の広い道路が新たに建設されている。この道路では,歩道の幅がかなり広く取られているようであった。この地域では住宅地が多くなってきているほか,商業施設の立地もみられている。地域の北端部分においては,工業団地も造成されている。
町の中央部に位置する伊奈中央駅付近では,伊奈町により伊奈町中部特定土地区画整理事業が実施されている。この地域は伊奈町役場をはじめとして町の公共施設が集まる行政の中心地となっている。環境整序計画では,商業・文化・行政施設などの中枢施設の機能を高め,住宅地と一体した整備を図るという方針が立てられている。ここでは1987年から2016年までの計画で土地区画整理事業が行われることとなっている。この地域では,都市再生整備計画事業も行われており,道路や調整池の整備により防災機能を高めていくとともに,定住人口の増加を図るものとしている。伊奈特定土地区画整理事業の地域と比較すると,まだ空地となっているところも多くみられ,保留地の売却などが行われていた。
伊奈町内で埼玉県により開発が行われた地区は,現在のさいたま市のもとになった埼玉中枢都市圏構想「彩の国YOU And Iプラン」において,新市街地を形成する郊外拠点地区として位置づけられている。この中で,食・住・遊・学が共存する次世代の田園都市の形成が掲げられている。このうち「学」は,ほかの地域には位置づけられていない要素であり,伊奈学園や県民活動総合センターなどの影響により,この地域が文教都市として位置づけられているものといえる。
Ⅳ 埼玉新都市交通の利用
埼玉新都市交通の利用状況をみてみると,沿線に鉄道博物館が開館した2007年度以降に利用者が急増するなど,利用が増えていることがわかる。駅別乗降客数をみると,基本的に大宮駅から離れるにつれて利用が少なくなる傾向にある。さらに,伊奈町内の5つの駅についてみてみると,付近に学校や大規模な住宅地がある駅の利用が多くなるという傾向がある。一方で,伊奈町のような郊外にある町での大規模な商業施設の立地は,自動車の利用を前提とした駐車場の整備や,幹線道路に面した立地が行われることが多く,公共交通機関を利用して買い物へ向かう人は限られてくる。このため,羽貫駅付近に商業施設の立地があるが,駅の利用状況にはあまり大きな影響を与えていないものと考えられる。公共施設については,県内各地から人が訪れるような県立施設の立地するところへは,埼玉新都市交通の利用が見込まれる。
環境整序誘導事業は埼玉新都市交通の利用促進を狙った事業で,県立施設や学校の建設により地域の昼間人口の増加が図られると同時に,土地区画整理事業により住宅地としての開発が進んだことで夜間人口の増加も図られた。こうした事業を埼玉新都市交通の末端部分にあたる地域で行ったことにより,埼玉新都市交通の利用距離を長くすることにもつながった。環境整序誘導事業以外にも,埼玉県が1986年度から県職員採用試験の一部を,1988年度からは公立高校教員採用試験を,伊奈学園を会場として実施しており,受験者の多くが埼玉新都市交通を利用している。また,県民活動総合センターの活用などにより,埼玉新都市交通の利用を促進するような取り組みも行われており,埼玉県が積極的に埼玉新都市交通の利用促進にかかわっているということがいえる。
Ⅴ まとめ
伊奈町では環境整序計画に従って,県や町によって開発が行われ,住宅地の造成だけでなく,学校や公共施設の立地がすすめられた。伊奈町の場合には,それまで農村的土地利用が多かった町に新たに都市を建設するという形で開発がすすめられるという経緯があった。環境整序計画に従って行われた開発と町内の各駅の乗降客数の動向が関連していると考えられ,環境整序計画には一定の効果があったと考えられる。県などの自治体が主導して計画的にまちづくりを行うことは交通機関の利用を確保するだけでなく,都市のイメージを形成し,広域的にみても存在感のある都市にするという面でも重要なことであるといえる。
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泉 健斗 | 首都圏における遊園地の立地の変遷と今後の展望 |
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Ⅰ はじめに
我が国の遊園地は,時代の流れの中で大きな岐路に立たされている。過去から現在に至るまでの遊園地を取り巻く環境を考察し,その立地的意義を明らかにしていきたい。
地方税法施行規則では「メリーゴーランド,遊戯用電車その他の遊戯設備を設け,主として当該設備により客に遊戯をさせる施設をいう。」と定義されている。これは一般的な「遊園地」のイメージに近いと考えた。今回の研究ではこの規則を遊園地の定義として用いることとする。
本稿では,首都圏における遊園地の発達と立地の変遷を分析し,まず過去に開園した遊園地がどのような立地的特徴を持っているか時代背景を鑑み検証する。そして遊園地が将来どのような立地がみられていくか,過去から現在に至るまでの事象をもとに考察していく。
Ⅱ 遊園地の起源と我が国での登場
17 世紀のヨーロッパ各地に見られた様々イベントの都市公園「プレジャーガーデン」に,遊園地の原点が求められる。文化の中心として栄えたが,風紀の乱れが原因で閉園していった。その中で美しい景観を重視するチボリ公園を始め,年齢を問わず遊べる健全な公園も現れていった。
1873年のウイーン万博では回転木馬等の遊戯機械が導入され,仮設ではあるが遊園地の形態を初めて持つものであった。その後健全化されたプレジャーガーデンという発想に基づいた恒常的な遊園地がアメリカ・コニーアイランドに誕生する。1903年には同地に非日常性の徹底を図った遊園地「ルナパーク」が開園し,遊園地のモデルとしてそのノウハウが継承されていくこととなった。
1863年(文久3年)に神戸に外国人専用の公園として開かれた「外国人居留遊園」にPark(英)の訳語として初めて「遊園」が充てられたが,遊園地の定義に沿う形態を持つものではなかった。
既に欧米で開発されていた遊戯機械が国内で初めて登場したのが,1903(明治36)年に大阪で開かれた第5回内国勧業博覧会である。最先端の産業技術の紹介を目的に開かれたイベントであったが,我が国における遊戯機械を用いた娯楽産業の可能性を示すものであった。
国内初の遊園地として1910年に東京・浅草に「ルナパーク」が開園し,前述したアメリカの同名施設のノウハウに導入して活況を得た。翌年には兵庫・宝塚に娯楽施設を併設した大規模な遊園地「宝塚新温泉」が開かれるなど,日本全国に遊園地が次々と誕生していくこととなった。
Ⅲ 首都圏における遊園地の発展過程
「ルナパーク」の成功を機に子どもの健全な育成を目的に開園した「花月園」をはじめ,鉄道会社を中心に「人工的な観光地」として首都圏各地で遊園地を新たに事業化していった。また「遊園地取締規則」により健全な娯楽地という概念に,他の娯楽場や公園との分離が明確となった。
1931年(昭和6年)の満州事変後,遊園地は統制の対象となり時局に応じた対応を強いられ,物資や人材の供出と不足,そして空襲被害などにより閉園を余儀なくされた。
1946(昭和21)年に多摩川園が営業を再開した。これを皮切りに全国の遊園地が続々と再開を果たし,経済や生活の復興が進むにつれてかつての賑わいを取り戻すこととなった。
1955(昭和30)に開園した後楽園ゆうえんちは,興奮性を追求した魅力的な大規模遊戯機械を設置し,立体的に機械化された都心型遊園地として新たな遊園地の在り方を形作ることとなった。
国民の余暇活動に増大に伴うレジャーブームが到来とマイカーの普及によって大規模遊園地が郊外から地方に続々と開園し,レジャー産業の代表格として遊園地が位置付けられるようになった。
既存の遊園地と一線を画す東京ディズニーランド開園の影響を受け各地にテーマパークを称する施設が開設され,「総合型遊園地」の枠にもとらわれないレジャー施設の多様化も進んだ
バブル崩壊後の長期に渡る不景気によってレジャー産業全体の変容が起こった。行楽の魅力が減少し,郊外に位置する従来型の遊園地は来場者の減少と経営状況の悪化が軒並み表面化した。
Ⅳ 首都圏の遊園地の立地に対する考察
1.発達期(1910~)の遊園地
繁華街隣接型:繁華街の集客力を利用し,また遊園地が繁華街の一施設として機能していることが考えられる。
鉄道沿線近郊型:都心から半径20km圏内の私鉄沿線に立地し,来園者の鉄道利用を見込んだ沿線開発の一環として近郊の私鉄駅周辺に自社経営の遊園地を立地させている。
2.レジャーブーム期(1955~)の遊園地-郊外・地方型:都心から半径100km圏内の地方から郊外にかけて広く分布している。大規模な総合型遊園地が主流となり,高速道路と近接させるなどアクセス手段にマイカーを重視するものが多い。
3.変容期(1983~)の遊園地-都心近接型:東京湾岸の埋め立て地に位置している。敷地の確保と都心近接を両立させた結果だとみられる。
Ⅴ 今後の展望
ここ10年という短い期間でも,遊園地の参加率・活動回数ともに減少傾向は明らかである。遊園地の継続的な発展には立地の影響も考慮する必要性があり,遊園地が閉鎖的な空間ではなく,周囲の環境と繋がった存在であるいえる。その中で,外に隔離されていった遊園地再び街の中に取り戻していくことが望ましいと考える。遊園地は楽しい思い出を作るための特別な空間であって,これからも必要とされるべきだろう。
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井出絵理香 | 桐生市における観光まちづくりの変遷と発展 |
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Ⅰ はじめに
現代では,様々な観光に視点を持ったまちづくりが行われている。私が生まれ育った桐生もそれに当てはまり,観光まちづくりに取り組んでいる。これからどのような取り組みがなされていくのか,また,どのように取り組んでいかなくてはならないのかを明確にするためにも,これまでに行われている日本各地の観光まちづくりについて調査するとともに,桐生市でのまちづくりのあり方についても考察していく。
「観光まちづくり」の定義は,研究者により様々なため,いくつか主だったものを挙げる。
西村(2009)は,「まちづくり」とは,地域住民等が中心となって,地域社会を基盤とした地域環境の維持・向上運動であり,「観光」とは,地域内外の観光事業者等が中心となって,既存の地域環境を基盤とした資源の利活用によって地域経済の発展を目指す活動であるとしている。また,山田(2007)は,観光まちづくりとは,地域が主体となって自然や文化,歴史,産業など地域のあらゆる資源を活かすことによって,交流を振興し,活力あふれるまちを実現するための活動であり,点在する観光資源を結び付ける新たな取り組みであり,地域が主体的に関わり一体となって,地域特性を生かし,観光の視点に立ったまちづくりであるとしている。福留(2011)は,「観光まちづくり」とは,観光振興の重要性から,まちづくりの基本を観光にウェイトを置こうとするものである。旧来型の均一化した観光地づくりから脱却し,地域に根ざし地域の個性を十分に活用した「観光」を重視したまちづくりのことであるとしている。2000年12月の観光政策審議会答申「21世紀初頭における観光振興方策」の中で主要施策の柱としてかかげられたなかでは,「地域が主体となって,自然,文化歴史,産業,人材など,地域のあらゆる資源を生かすことによって,交流を振興し,活力あるまちを実現させるための運動」を観光まちづくりと捉えられている。
上に3つの観光まちづくりにおける定義を挙げたが,このように捉え方は似ている部分や異なる部分を多く含んでおり,定義づけが如何に難しいかが見てとれる。今回論文執筆にあたって,自身でこれが正解という定義を挙げることはできないが,常にこのような様々な捉え方があることを念頭に置いて,進めていくものとする。
Ⅱ 日本のさまざまな観光まちづくり
観光庁の調査による日本の主な観光まちづくりの例として,地域いきいき観光まちづくりと題される地域を取り上げた資料がある。この資料には,2006年から現在まで様々な地域がそれぞれ掲げるテーマに沿ったまちづくりが行われていることが,詳細に渡ってつづられている。2006年当初は,地域いきいき観光まちづくり100として日本の100の地域を取り上げているが,2011年の最新の統計では216地域と倍以上に増えている。このことからも近年急激に観光まちづくりへの関心が高まり,活動がより活発になってきていることが推測される。桐生市のある群馬県では,これまで草津町,みなかみ町が取り上げられた。2008年の調査結果では,滞在力のあるまち,外国人でにぎわうまちがそれぞれ調査対象となった。東北地域はやや少ないように見えるが,これを受けて観光とまちづくりをつなげようとする動きが近年多くなってきている。温泉地や登山などの古くから親しまれる観光地以外の魅力を見つけだすことも観光まちづくりにおいて必要なことであると考えられる。
Ⅲ 桐生市の現状とまちづくりの歴史
桐生市は2005年6月13日に新里村と黒保根村と合併した。よって桐生市は旧桐生地区,新里地区,黒保根地区に分けることができる。桐生市は現在(2012年12月現在)人口121,930人である。
はじめて観光まちづくりについて取り組みが行われたのは1990年である。このとき桐生市観光基本計画(ロマンチック・クロス・プラン21)が作られた。計画の目的として,産業振興の一環としての観光開発の可能性を検討し,その中核となる観光施設整備への具体的な計画を立案することを内容として作成された。次に,大きな観光まちづくりの動きとして,桐生市も含む群馬県全域で,2011年に群馬デスティネーションキャンペーンが開催された。これは7月から9月の3ヶ月間,JRグループ6社と地域(地方公共団体や県民・企業等)が一体となって取り組む,全国から誘客を図ることを目的とした国内最大規模の大型観光キャンペーンである。2012年にも7月から9月の3ヶ月間「ググっとぐんま観光キャンペーン」と称して観光まちづくりイベントであるデスティネーションキャンペーンを開催した。経済波及効果は約26億円となり,経済面は非常に効果的であったことが明らかである。その他の成果としては,ボランティアガイドの活動の定着と活性化や地域資源の活用,関係者の連携機運の高まりなど,人同士のつながりにも多大な益をもたらしたことが伺える。
Ⅳ 桐生市の観光まちづくりの現状とこれか
本市は,1,300年に及ぶ歴史を持つ織物産地である。商標登録『桐生織』を軸にした繊維産業は,本市の基幹産業であり,海外においても,その伝統的な技法から生み出される斬新なデザイン性が高く評価されている。また,伝統産業・歴史文化・教育と豊かな自然が密接に共存するコンパクトシティであり,本市の織物工場の特徴である『ノコギリ屋根工場』の見学や本町一,二丁目を中心とした伝統的建造物などの近代化遺産を見て歩くために本市を訪れる人も多くなってきている。ノコギリ屋根工場については,老朽化により取り壊される場合もあるが,改修を施し再利用することで,その特徴的な建築様式を後世に残す取り組みがなされている。この結果,市内には,200棟以上が保存,活用されている。また,桐生市と合併した新里地区と黒保根地区は『飛び地合併』という珍しい合併形態となったことで,地域の観光を周辺地域の資源と一体的にとらえることができるようになり,周辺市との連携が密になってきている。
これから観光のまちとしてより発展していくために必要だと考えられることに,体制の整備が挙げられる。桐生市において新たな観光を行ううえでの課題として,桐生市がいわゆる「観光都市」ではなく,繊維産業や金属機械産業を中心にした「産業都市」として成長してきたことがある。そのため桐生市では,観光を意識した,道路整備や施設整備などのハード面や土産品や接客サービスなどのソフト面において,観光客を迎え入れるための基本的な体制整備が遅れている。そのため,まずは駅の情報窓口化などの情報提供の場を設けることが先役となる。また,市営バスのおりひめバスの有効活用や,観光タクシーの整備により,アクセスを容易にすることも重要である。そして,より長く滞在してもらうための宿泊施設の整備も,今後力を入れていくべき項目である。
さらに,飲食店の特徴・魅力・話題性の強化,地域ブランドの創造と地場産品を活用した土産品開発も行うことでより多くの集客,経済効果を狙え,いきいきした観光まちづくりにつながると考えられる。
Ⅴ おわりに
観光まちづくりは,注目されつつある分野であるためにこれといった定義はされていない。まだまだ模索中で手探りの面も多くあるが,だからこそ自分で新しい面を発見する余地があるとも考えられる。近年はご当地グルメやゆるキャラなどが話題となり,ますます観光まちづくりは進められていくこととなると考えられる。そういったことからも,これからも研究を続け,さまざまな事例を調査し,桐生市でも活かせるようなヒントを見つけていきたい。観光まちづくりを通して,まちも人も,桐生市全体が活性化し,未来に向けて成長できるように,私を含め市民一人ひとりが魅力の発信などを意識的に行えることが望ましいと考える。
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榎園珠美 | 新大久保コリアンタウンの変遷 |
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Ⅰ はじめに
新大久保コリアンタウンは韓流ブームの影響を受け,そのブームの中心地としてテレビや雑誌などのメディアに頻繁に取り上げられるようになり,様々なところでその様子を目にする機会が増えた。そして,新大久保コリアンタウンは韓流ブームの盛り上がりとともにその規模を拡大していき観光スポットのようになっている。日本には他にもこのような外国人集住地域がいくつかあるが,外国人達がある特定の場所に集まり暮らすのには,やはり何か理由があるのである。そこで今回,新大久保コリアンタウンを調査対象とし,その歴史的背景や移り変わりの様子を明らかにしていきたいと考えた。
2011年の日本における外国人登録者数は2,078,480人であり,2008年にピークを迎えてからは3年連続の減少となっている。国籍別に見るとそのうち545,341人が韓国・朝鮮籍となっている。韓国・朝鮮籍は平均60万人という数値で外国人登録者数一位を保ち続けてきたが,2007年には中国籍がこれを上回った。また,新大久保コリアンタウンがある新宿区の外国人登録者数は33,835人であり,新宿区の総人口の約10%を占めている。
Ⅱ 新大久保コリアンタウンの変遷
東京では1980年代後半ごろから,飲食サービス業や風俗関連産業で働く外国人女性以外にも,工事・建設現場で働くアジア系の外国人労働者や,飲食店でアルバイトをする留学生の姿が見られるようになり,ここにニューカマーと呼ばれる外国人たちの存在が誕生した。ニューカマーたちの居住地はその8割以上が23区内に集中しており,その中でも新宿区の外国人登録者数が圧倒的に多くなっていた。新宿区内でも外国人の居住地の偏りが著しく,新大久保コリアンタウンが位置する大久保1・2丁目,百人町1・2丁目,北新宿1~4丁目が外国人の集住地域となっていた。また,ニューカマーの居住地となった新宿区の特徴として言えることは,山手線の主要ターミナル駅(新宿駅)を中心に繁華街があり,その後背地に老朽木造アパートが残る木造住宅密集地が広がっていたことと,日本語学校が数多く立地していたことである。これらは歌舞伎町で働く外国人ホステスや,留学生,就学生たちにとってかかせない要素であり,日本語学校や専門学校,アルバイトのできる繁華街,家賃の安い木造アパート,この3点セットが揃っていて,更に交通費をかけずに徒歩や自転車でこれら3ヶ所を回ることができる大久保や北新宿は好都合の居住地であった。
次に新大久保コリアンタウン形成の歴史であるが,1970年代当時の職安通りには,在日韓国系の金融機関があり,連日多くの在日韓国人が去来した。バブル期になりニューカマーたちが来日するようになると職安通りが韓国関係の店舗が増えるなどの初期コリアンタウン化を見せ始め,大久保地域ではその後背地として彼らの衣食住に関わる店が増え,更なるニューカマーが集まった。そして,1989年の韓国人海外渡航自由化,1998年の日本大衆文化の容認,2002年の日韓共催ワールドカップなどが追い風となり,コリアンタウン化現象は職安通り沿いから,職安通りと大久保通りに挟まれた路地エリア,大久保通り沿いへと進んでいった。
このようなコリアンタウン化が進んだ背景としてまず考えられるのが不動産市場の低迷である。職安通り沿いのビルやマンションには多くの日本の事務所や事業所が入居していたが,バブル崩壊後次々に移転が始まり空室が埋まらなくなっていた。こうした状況で起業を考えるニューカマーたちは多額の保証金を必要としない居住用マンションに目をつけた。またマンションオーナーたちも空室が埋まることが最優先であったため,日本人の借り手がいない今外国人たちに貸すしか手段がなかった。こうして互いの利害が一致し,これが韓国系ニューカマーによる店舗・事務所の増加へと繋がっていったのである。二つ目として考えられるのがニューカマー起業家たちのビジネススタイルである。新大久保コリアンタウンの韓国系ニューカマーのビジネススタイルには支店拡大と多角経営という特徴が見られ,大久保という狭いエリア内で店舗数を増やしてく,一つの業種に限定せず様々な業種に参入していき事業を拡大していく。このような不動産市場の低迷,ニューカマー起業家たちの成長という要素がきっかけとなり,新大久保コリアンタウンは現在の姿まで成長していったのである。
Ⅲ 新大久保コリアンタウンの現状
2012年10月現在,新大久保コリアンタウンに存在するアジア・エスニック系の店舗又は施設数は合計408店となった。その内訳の上位三位を見てみると,合計の半分をこえる213店舗を韓国料理屋が占めており,それに続いて韓国コスメや韓流グッズなどを販売する店が64店舗,韓国系のカフェやバーが32店舗というような結果になった。そこでここでは11のカテゴリに分類しそれぞれの特徴を考察する。
まず韓国系飲食業の店舗は,新大久保駅東側の大久保通り沿いや,大久保通りと職安通りに挟まれた路地エリア,職安通り沿いというように,新大久保コリアンタウンにあたる地域全体に店舗が散在しているが,コリアンタウン化現象があまり進んでいない新大久保駅西側の路地にもいくつか店舗がみられるという特徴をもつ。また,それぞれの店舗の開業年を調べたところ2011年・2012年とここ最近オープンしたばかりの店が多いことがわかった。2011年はオープンした25店舗のうち韓国料理屋が19店舗と韓国料理屋のオープンが多く,2012年ではオープンした30店舗のうちカフェ・バーが14店舗と,2011年よりカフェ・バーのオープンが目立っている。
続いてその他韓国系小売業の店舗であるが,新大久保駅東側の大久保通り・職安通り沿い,大久保通りと職安通りに挟まれたドンキーホーテ横の路地に店舗が集中しており,新大久保駅西側にはその他韓国系小売業の店舗は見られない。開業年は韓国系飲食業と同様に2011年・2012年にオープンした店が多くなっており,韓国コスメだけを扱う店のオープンが目立つ。
最後にアジア・エスニック系飲食業の店舗であるが,新大久保駅東側の大久保通りと職安通りに挟まれた路地には店舗がなく,大久保通りや職安通り沿い,また新大久保駅西側の路地に店舗がある。新宿区は韓国・朝鮮国籍の次に中国籍の外国人登録者数が多かったが,調査範囲内には中国料理屋の店舗数は少なく,人口の少ないほかのエスニック地域の国の飲食店の店舗数と変わらなかった。そこで範囲を拡大して中国料理の店舗を調べてみると,中国料理の店舗は新大久保コリアンタウンより外側にあたる大久保駅より西側や,職安通りより南側に集まっていた。
Ⅳ おわりに
新大久保コリアンタウンは,韓国系ニューカマーたちの様々なビジネススタイルにより大きく広がり,姿を変えてきた。そしてまた,ここまで大規模なコリアンタウンを形成することができた背景には日本での韓流ブームの盛り上がりも大きく関わっていると考えられる。日韓関係の悪化などにより韓流ブームが衰退しつつある現在,新大久保コリアンタウンも今のままの状況ではブームの衰退とともに活気を失っていくことになってしまうだろう。そのようにならないためにも,韓流ブームに甘んずることなく様々な工夫を凝らしていく必要がある。
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栗原 健 | 大規模小売店舗の出店による消費者動向の変化―埼玉県を事例として― |
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Ⅰ 研究目的
消費者動向の変化に関する近年の研究としては,福田(2001)や古賀ら(2004)の研究など厚い蓄積がある。しかし,それらの多くは1つの市町村や地区を研究対象に設定している。また,ショッピングセンターと消費者動向の関係を分析した研究はあまりみられない。
そこで本研究では,主に2つの視点から地域の消費者動向の変化を考察した。一つは,研究対象を県レベルに設定し,各市町村の比較から大規模小売店舗の影響をみることである。もう一つは,大規模小売店舗の中でもショッピングセンターに焦点を絞り,その影響をみることである。
消費者動向の分析には県レベルのデータとして『彩の国の消費者動向(彩の国広域消費動向調査)』を利用し,最新の調査である平成22年度(第14回)と平成17年度(第13回)のデータを比較した。また,大規模小売店舗の情報は埼玉県ホームページの『大規模小売店舗名簿』,ショッピングセンターの情報は日本ショッピングセンター協会ホームページの『全国都道府県別SC一覧』を利用した。
Ⅱ 近年の大規模小売店舗出店状況
まず,近年の大規模小売店舗の出店状況について分析した。第13回調査と第14回調査の間にあたる2005年8月~2010年8月に出店した大規模小売店舗の数は182店舗,総店舗面積は1332354㎡,1店舗あたりの店舗面積は7320.6㎡/店舗だった。1995年6月~2000年6月,2000年7月~2005年7月と比較すると,大規模小売店舗は5年ごとにほぼ同じペースで出店を続けており,1店舗あたりの店舗面積は約2000㎡/店舗ずつ増加していた。
ショッピングセンターのみに絞ると,2005年8月~2010年8月に出店したショッピングセンターの数は27店舗,総店舗面積は695055㎡,1店舗あたりの店舗面積は25742.8㎡/店舗だった。前の期間と比較すると,2000年以降において出店数と1店舗あたりの店舗面積は大きく増加していた。
Ⅲ 消費者動向の変化と大規模小売店舗の影響
次に,第13回調査と第14回調査における市町村内購買率(消費者が自分の居住する市町村内で買物をする割合)を比較し,そのポイント(第14回調査のパーセント-第13回調査のパーセント)に関わる要因を分析した。ポイントの高かった市町村は,大規模小売店舗の総数に対して2005年8月~2010年8月に出店した数の割合が高かった。また,その期間にショッピングセンターが出店したほとんどの市町村で,ポイントがプラスとなった。
加えて,ショッピングセンターが市町村内購買率に与える影響について詳しく分析した。ショッピングセンター利用率が20%以上だった市町村は21存在し,それらを①市町村内購買率が大きく増加した市町村,②減少もしくはほぼ変化しなかった市町村,③大規模なショッピングセンターが複数出店するもあまり変化しなかった市町村,の3つに分類した。①では,全ての市町村で2005年8月~2010年8月に店舗面積10000㎡以上の大規模なショッピングセンターが出店していた。②では,同じ時期に出店したショッピングセンターは1店舗もなかった。③の川口市と越谷市では,大規模なショッピングセンターの影響はなかった。これには,市町村内購買率が元々高いこと,さいたま市の存在が大きいこと,などが理由として挙げられる。
Ⅳ 消費者の求める小売店
最後に,第14回調査のアンケート結果から,消費者がどのような店舗を求めているかを分析した。「最近,利用することが増えた店舗」と「身近に欲しい店舗」では,「ショッピングセンター」と回答した人が最も多かった。「地元商店での買物頻度」では,53.5%が「ほとんど買い物はしない」と回答しており,消費者離れが深刻であることがわかった。「地元商店で買物をしない理由」では,45.8%の人が「1ヶ所で買い物が済まない」と回答しており,1ヶ所で買い物を済ませられるショッピングセンターの影響力が強く表れている。「地元商店街を魅力的にするために重要と思うこと」では,43.3%の人が「個別店舗の魅力の向上」と回答しており,大規模小売店舗に対抗しうる独自の魅力をつくっていくことが必要である。「地元商店街が高齢化社会への対応として今後力を入れるべきと思うこと」では,「少量パックやバラ売りなど小単位の販売」や「電話やFAXでの注文・配達」といった回答が多く,個人商店ならではの高齢者のニーズに合った販売方法が期待されている。
Ⅴ まとめ
大規模小売店舗は市町村内購買率を上昇させる大きな要因となっており,特にその中でもショッピングセンターの影響力は非常に強い。しかし,それは同時に地元商店街などの小規模小売業の衰退をもたらしている。これからの小規模小売業に必要なのは,大規模小売店舗では充足されない,地域の多様なニーズに応えていくことである。
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五明沙織 | 門前町長野の形成過程 |
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Ⅰ はじめに
善光寺は長野県の国宝の一つとして存在している。約1400年の歴史があると言われている善光寺はさまざまな歴史を歩んできた。今の善光寺本堂は,1707年に再建されてから2007年で満300年を迎えたものである。この善光寺には全国各地から「一度は参れ善光寺」などと言われ,老若男女が多く訪れる。このように多くの方々に長い間にわたって善光寺は愛されている。
そのような長野県のシンボル善光寺によって,門前町長野がどのように変化していったかを知りたいと思ったから今回調査しようとこのテーマを設定した。それとともに善光寺の歴史についても調査していきたいと思っている。また,調べていく中で,門前町長野が抱えている観光などの問題についても検討し,今後の門前町長野と善光寺の課題について考察していきたいと考えている。
門前町とはどのようなものを示すのか,ここではじめにおおまかな概要を説明しておきたいと思う。門前町については概念規定をすることはなかなか難しいことであるとされている。だがしかし,門前町とは,一般的には有力な寺院・神社の周辺に形成された町のことをいう。門前町は大規模で多くの参詣者を集める神社や寺院の前に,社寺関係者および参拝客を相手にする商工業者が集まることによって形成される。
Ⅱ 善光寺の歴史
所在地は,長野県長野市大字長野元善町491。長野駅から中央通りを南から北に向かって約1.8キロメートル行ったところにある。
善光寺は,法隆寺と同じく奈良仏教の寺として発祥した。7世紀半ばに創建された。特定の宗派に属すことなく,善光寺は全ての人々を受け入れる羅針盤を持ち続け,その方向に向かって変容し続けてきた。善光寺は差別されてきた人・女性など様々な人を受け入れ,全国各地から善光寺に人々が参拝しにやってきた。
善光寺の御本尊は計7回にもわたって移っている。戦国時代なると善光寺の信仰はすでに全国に広がっていた。そこで戦国大名たちは個人的に御利益にあやかりたいということと同時に,善光寺信仰を政治的に利用して,民衆の心をとらえたかったのだと言われている。戦乱の時代に巻き込まれ,荒廃を余儀なくされ火災などにあったりした。「一遍聖絵」に描かれた善光寺は現在の伽藍配置とはまったく違い,本堂も現在の撞木造りとは違うことが分かる。しかし,江戸幕府開府に伴い,徳川家康より寺領千石の寄進を受け,善光寺は復興していった。善光寺・仲見世の参道西側に延命地蔵が安置されているそばに「如来堂旧地」との案内板がある。草創以来,ここを中心に善光寺の本堂があった。現本堂が現在の場所に再建されたのは1707年である。本堂が移転していったことによって現在とは違う風景の門前町,仲見世通りであったことがうかがえる。そして,現本堂が造営された1707年以降に今のような善光寺境内・門前町の姿の原形がつくられた。
Ⅲ 門前町の形成
今の仲見世通りの延命地蔵のある場所に,かつては善光寺の本堂があった。このように本堂が移動したことで門前町の町なみは変化していった。長野市一帯はもともと善光寺の門前町である。参詣人や物資などが多く集まり,室町時代ころから大きな都市を形成し始めた。江戸時代には門前町としての性格に北国街道の宿場町のにぎわいも加わり長野市はどんどんと発展を遂げていった。このこともあって,幕末にはここの人口は約一万人に達していた。このように発展してきた中で善光寺町が飛躍的に発展したには現本堂が完成した以降のことであるとされている。現本堂はいままでの境内が門前町に近すぎて火災にあいやすいということもあったため,そこで境内の北にあった北之門町を新町に移し,そこに新しく境内を造成した。このようにしてかつてより境内の面積も大きくなりより一層門前町の様子は変わっていった。現在の門前町の様子は大正期からはほとんど変わりがない。明治時代の1891年に大火が二度起こりこのことも原因の一つであると考えられる。そのため仲見世通りのお店や仲見世通りの近くの宿坊などの多くは1891年以降に建てられた。こうして門前町が今のような様子へと変わっていった。
Ⅳ 現在の門前町長野
実際に設定した門前町を歩いて調査した。ここには多くの店や旅館,宿坊などが立ち並んでいた。そしていつのときも観光客で仲見世通りはにぎわっている。門前町は,長野県の県庁所在地として長野市が発展していったことで善光寺周辺から中心的な機能が長野駅周辺へと移っていき大きな変化をした。仲見世通りなどは観光業に力を入れるようになっていったのだ。そのためお店などは蕎麦などの飲食店や長野県の特産品などを販売しているお店などが多くなっている。このように長野市の機能などがどんどん長野駅の方へ移っていったことも関係してか,長野市のように寺社の門前に一直線の見事な町並みを作っている。
Ⅴ 今後の課題・まとめ
善光寺は今も昔も長野市の大切な観光資源である。今後もますます多くの方々に善光寺に訪れていただくために,常に善光寺をアピールしていくことも必要であると考える。まずは門前町の見事な町並みをもっと前面に押し出すことである。何かスタンプラリーなどの行事を仲見世通り一帯が協力して行うことで,町並みを普段以上に見てもらうことも出来るいい機会なのではないかなと思う。善光寺まで長野駅から上り坂になっているのでお年寄りにとって善光寺までの1.8キロメートルの道のりを歩くことは大変である。現在善光寺の信号の近くまではバスで行くことも出来るものの本数が少ないこともあり,休日のみでもいいので本数を増やすことも課題の一つであると考える。
今回調査をして善光寺の移り変わりに応じて門前町もどんどんと移り変わっていったことが分かった。門前町長野の発展は善光寺の周辺が善光寺町として発展していったことが始まりである。宿場町として発展していったり,交通の便が良かったりしたことから善光寺町は幕末には人口一万人を超える町へと成長していった。また,かつての県庁のあった中野市から長野市へ県庁が交通の便などの理由から移転されたことにより長野市はますます発展していくこととなった。長野駅の方に機能の中心が移されても仲見世はその時代に応じたものを扱い,町は絶えず成長していき,今では長野駅から善光寺まで一直線の見事な町並みを形成している
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山内あみ | 伊香保温泉の地域的展開と今後の発展 |
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Ⅰ はじめに
温泉は,元々は病の一つの治療法として用いられてきたものだが,時を経てその存在の位置づけは変化し,今となっては温泉地を中心として観光地が形成されるまでになっている。温泉を利用する目的も変化し,また多岐にわたっている。この温泉の観光地化を研究することは,各地域が地域おこしを盛んに行なっている今,地域資源を活かした豊かな町づくり,観光地づくりに一つの方向性を与えることができると考える。
温泉に関しては,山村が『新観光地理学』(2004)において,温泉の全国的な動向や,事例研究として草津温泉の観光地化について記述しており,関戸(2004)が北関東の温泉地の利用形態と交通の変化について研究している。
本研究では,古くから有名温泉として名が知られており,都心からのアクセスが良く交通手段の変化が大きく影響する伊香保温泉に着目し,交通機関の整備とその他観光産業との関連を中心に据え伊香保温泉の展開,観光地化の契機を調査し,現在の伊香保温泉の実態を記述する。そして,それらを踏まえて今後の発展の方向性を考察する。
Ⅱ 温泉地の発展
日本の温泉地は,万葉集や,古事記,風土記等を参照すると,古代より天皇の行楽や病気治療,庶民の楽しみのために利用されていたことがわかる。特に,前者に関してはその治癒力ゆえに神の湯として崇められ,温泉神社が作られ,温泉は身を清めるものとして利用されるというように,宗教との結びつきが強かった。
温泉の利用法が大きく変化したのは戦国時代であり,温泉が戦陣医療に用いられるようになったのがその特徴である。つまり傷病兵の治療のため,武将達が温泉を利用したのである。また,地侍集団を中心として,温泉街の形成も進んだ。江戸時代には,参勤交代制により交通が発達し,旅が盛んになると,温泉の周辺に宿や商店も発達するようになった。
明治時代には,西洋医学の普及によって,温泉の分析や研究が進められ,また外国人も多く温泉に訪れるようになった鉄道が開通したことにより,温泉の入湯圏が広がった。このように明治時代は大きな転機であった。しかし,戦中には温泉地は学童疎開の受け入れ地や傷病兵の受け入れ地に化した。戦後は,高度経済成長により一泊二食宴会型の旅行が盛んになり,温泉は病気治療より,享楽が求められるようになった。また団体旅行が主流となり,宿は大規模化した。しかし,バブル景気崩壊後は家族や小グループでの旅行が多くなり,その旅行形態や目的も多様化していった。
日本の温泉地は,病気治療や病後の保養を第1の目的とした療養温泉地,健康保持を目的とした保養温泉地,そして観光活動の宿泊拠点としての観光温泉地に大きく分類でき,段階を経ながら顕著な発展をとげてきた。昭和初期頃までは大都市に近い一部の温泉地を除けば,ほとんどの温泉地が療養,保養温泉地であったが,戦後の高度経済成長期の1969年には,療養型は6%,療養と観光機能を併せ持つ中間型は21%,観光型は73%となり,1991年には,療養型は4%,療養と観光の中間型は13%,観光型は83%となった。観光型は,さらに歓楽型と野外レクリエーション型に分かれる。各型の特性を比較すると,療養・保養温泉が観光地化する大きな要因は,交通機関の整備によって短期滞在観光客が多数来湯することにあり,それに伴って,宿泊形態や滞在期間,客層が変化し,入湯圏の広域化,宿泊料金の高騰が生じるのである。
Ⅲ 伊香保温泉の変遷
伊香保温泉は,戦国時代初期までは現在の湯元の近所に温泉場があって,全く地方人ばかりが入る寂しい温泉場であったことが考えられる。しかし,長篠の合戦の後,1576年に武田家が負傷者を癒すための保養地として,武田氏の配下にあった木暮ら7氏が,温泉街を作るには狭かった湯元から集落移転をし,湯元から温泉を引き,石段街を作り温泉街が形成された。そして7氏が分家して14氏が温泉宿を経営した。
明治時代には,ドイツ人医師ベルツの指導もあり,療養温泉地としての体制が整った。伊香保は日本政府の保護できる旅行コースの中に入り,外国人をはじめ,日本人の政府高官や役人,実業家,文人が休養温泉,避暑地として伊香保を訪れるようになった。伊香保への交通手段は,明治初期は馬車や人力車に頼る他なかったが,1884年に上野から高崎までをつなぐ高崎線が開通し,1890年以降,高崎・前橋―渋川間に馬車鉄道が登場した。さらに,1910年には電気鉄道となり,渋川―伊香保間も結ばれ,所要時間も大きく短縮した。当時の温泉街の様子は,旅館は35軒で,小売業も44軒あり,観光にまつわるものが多かった。旅館の建物は3階4階建てで数百人,小さくても数十人収容できるものであった。また,大抵の旅館が,旅館内に浴場を持つという内湯にすでになっており,温泉街には劇場や玉突場等の遊興施設もあり,他の温泉地と比較しても高機能な温泉地であったことがわかる。しかし,旅館の立地を見てみると,石段街に集中しており,明治時代の伊香保温泉とは,石段街近辺のごく限られた区域を指していたようだ。
大正・昭和初期にかけては,バスの運行が開始され,マイカーも普及しはじめた。旅館は現在も続いている旅館,ホテルの中では新規に建設されたものは3軒しかなかったが,既存の各旅館は大規模化していた。また,この頃旅館内の娯楽施設も充実してきた。
しかし戦時中は,旅館は軍病院や当時の東京都王子区の学童疎開宿舎と化し,遊楽的要素は衰えてしまったと思われる。終戦間近になると旅行も規制されるようになり,戦中から戦後しばらくは荒廃してしまったようである。戦後は新規に設立された旅館は1軒であった。
高度経済成長期になると,一泊二食宴会型団体旅行が盛んになり,宿泊形態はほぼ賄い方式に統一され,10軒の旅館,ホテルが新設された。石段街の近辺以外では,比較的大規模な旅館,ホテルが建設されており,その立地はやはりモータリゼーションの進展を受け,県道33号線の沿いに集中している。旅館の他にも,ゴルフ場やロープウエイ,スケート場等が設立され,野外レクリエーション型の観光地として発展してきた。
1973年のオイルショック以降の安定成長の期間には,上野から高崎まで上越新幹線が開通し,新宿から伊香保温泉まで直通の「上州ゆめぐり号」というバスも運行開始した。一泊二食宴会型団体旅行は減り,友人,家族との小グループ旅行が主流の時代となった。この時期に新設された旅館,ホテルは10軒で,収容人数100~300人の小中規模なものであった。その立地は,県道33号線以北に集中しており,さらに県道155線沿いが多くなっている。その他の観光施設としては,グリーン牧場や渋川スカイランドパークが開業し,総合公園や森林公園,ゴルフ場も新設された。こうして,野外レクリエーションという性格を強めていった。明治時代に石段街で完結していた伊香保温泉であったが,戦後の野外レクリエーションの充実によって人々のとらえる伊香保温泉の範囲は,伊香保温泉と渋川方面を結ぶ県道33号線沿いに拡大していった。
伊香保温泉の宿泊客数は,1955年頃より高度成長期の波に乗って急増し,高度経済成長期が終わっても増加し続け,特に上野―高崎間の上越新幹線が開通した直後は急激に増加したが,バブル崩壊後の1991年の172万3421人をピークとして,減少傾向になった。昨年は東日本大震災の影響も受けてか,100万人を切っている。観光客の現状としては,1泊の家族旅行が多く,全国と比較すると職場仲間との旅行も多い。観光地としては依然として石段街が人気であり,観光客の出身地は埼玉,東京が多く,入湯圏は関東全域に広がりつつある。
Ⅳ おわりに
伊香保温泉は,元々,源泉のある湯元で地元の小さな湯治場として始まり,戦国時代の木暮氏らにより温泉街が形成された。明治時代以降,避暑地として人気になり,交通の発展とともに旅館業が発達した。そして戦後の高度経済成長期のモータリゼーションにより,野外レクリエーション型観光地と化した。
しかし現在,宿泊者数は減少傾向にあり,伊香保温泉の活気は低下しているようだ。そこで伊香保温泉が繁栄を取り戻すには,石段街の風情あふれる景観を守り続けていくこと,温泉そのものを中心に据えて,健康保持のためのサービスを充実させ,療養・保養の面をアピールしていくことが効果的だと私は考える。
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2011年度卒業論文 |
荒尾 亮 | 東京都におけるコミュニティーバスの変遷と課題 |
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Ⅰ はじめに
2002年に乗合バスの規制緩和が行われたことにより,路線バスは事業参入について需要動向に応じて判断する免許制から,輸送の安全性などの要件を満たせば参入が認められる許可制になった。加えて,運賃に関しても認可制から上限運賃だけを認可し,その範囲内は届け出だけで運賃を変更できることになった。乗合バス事業の免許規制が無くなると,バス事業者は届け出るだけで自由に路線新設や廃止を決定できる。このため新規事業者の間には「クリームスキミング」と呼ばれる利潤の多い場所や時間帯にのみ参入する現象や,既存事業者の赤字路線からの撤退・廃止が進む現象が見られた。さらに運賃の価格競争も進んだ。その影響で2002年から2008年までの間に約4万4千キロの路線が廃止される事態となった。一方我が国では国勢調査によると,平成22年10月1日現在で65歳以上の高齢者が2948万4千人おり,全国民の4人に1人が65歳以上の高齢者となっている。これらの現状を踏まえると,コミュニティーバスは今後ますます,地域住民にとって無くてはならない存在となると予想できる。そのようなコミュニティーバスの現状と今後を考えていきたい。
Ⅱ 東京都におけるコミュニティーバスの変遷
コミュニティーバスには明確な定義は無いが,交通不便地域を巡回し,地域住民の利便性向上を図るバスである。また,主に自治体がバス事業者に委託して運営する。関東では車両は小型が全体の半分ほどを占め,安価かつ均一料金である場合が多いとされる。そのコミュニティーバスの拡大のきっかけとなったのが,東京都武蔵野市のムーバスである。その誕生のきっかけは,高齢の市民からの手紙であった。当初は赤字が懸念されたが,1998年度に865万円の黒字となった。
都内を走るコミュニティーバス約40のうち,2002年以降に運行を開始したのが26あるが,規制緩和が2002年の出来事であることを考えるとこれがかなり影響していると考えられる。また,先にも述べたようにムーバスの黒字化が1998年度なのでそれも関係していると考えられる。しかし,多くの自治体がムーバスのように成功を収めたわけではなく,ムーバス以降成功が顕著だったのは2004年に運行を開始した港区の「ちぃばす」が目立つくらいである。ムーバスと同じく100円均一の料金で武蔵村山市内を運行している「MMシャトル」は平成22年度の実績では運賃収入は経費総額の2割程度しかなく,大部分が補助金によって補填されているのが現状である。何でも成功例を形だけまねるのではなく,需要に応じた運行本数の調整や始終発時間などのダイヤの見直しや,通勤時間帯と日中とで走行ルートを分けたり所要時間短縮のため渋滞を避けたルート設定をしたりするなど運行ルートの見直しが必要になってくると考えられる。
さらに運行事業者を見てみると,多くの事業者が運行自治体の内部,周辺に本社を構えており,2社以上の事業者によって運行されているコミュニティーバスの割合が都内コミュニティーバス全体の47.5%に達している。区部と市部で分けてみてみると,区部では複数の事業者で運行されている路線は16のうち3路線のみで18.8%だが,市部では24のうち7の路線で複数事業者による運行が行われており,実に29.2%と区部よりも10%近く割合が高い。
また,バスの運行に関しては,始発は7時台の路線が多く,通勤や通学に利用可能な時間設定をしている路線が多いことがわかる。一方最終は19時から20時台が多い。この時間帯でも学校や会社からの帰宅には対応できると考えられるが,一般の路線バスに比べるとやや運行時間が短いのが特徴である。さらに運行間隔は時間帯によって差があるが,30分が平均的である。しかし,交通空白地帯が多いと考えられる東京の市部では路線の数は区部に比べて多いのだが,営業距離が長めなこともあってか運行間隔が60分以上の路線も散見される。コミュニティーバスを走らせることにより,交通空白地帯の一定の解消が望めるが,これでは利便性が大幅に向上するとは言い難い。今後はコミュニティーバスがより便利な地域の交通手段となるためにも,運行間隔や本数の見直しがされていく必要を感じる。
さらに運賃に関しては距離に関わらず一律で設定している路線がほとんどであり,距離別料金制を採用しているのは多摩市の「多摩市ミニバス」と八王子市の「はちバス」のみである。値段は100円を中心に200円までが多いが,その安価な料金設定ということもあって,大人と子どもで料金を分けていない路線も多い。特に区部では大人と子どもの区別なく,完全一律料金にしている路線が多く,市部では大人料金と子ども料金に分けている路線が散見される。さらにPASMOやSuicaなどのICカードの導入の有無を見てみると,区部では江東区の「しおかぜ」,足立区の「はるかぜ」のうち新日本観光自動車が運行している「はるかぜ5号・6号・8号・11号」,台東区の「めぐりん」を除いて導入をしているのに対し,市部では24ある路線のうち,半数以上の14路線で導入をしておらず,支払いは現金か回数券のみとなっている。
基本的にコミュニティーバスは地域と鉄道の駅などを結んでいる場合が多い。鉄道ではPASMOやSuicaを使って運賃の支払いができるが,コミュニティーバスを利用するためには別に運賃を現金で用意する必要が生じる場合が多くなってしまう。利便性を向上させるためにもPASMOやSuicaなどのICカードの導入は今後積極的に進めていく必要があるだろう。特に足立区の場合は運行形態が特殊(自治体からの援助は無く,事業者の自主運行形式)で路線ごとに運行事業者が異なるとはいえ,新日本観光自動車が運行している路線以外ではPASMOやSuicaが導入されていることから,路線の相互利用の利便性を向上させる意味でも,導入が必要であると考えられる。
Ⅲ コミュニティーバスの利用状況
今回は2011年9月26日~9月29日・11月14日~11月17日の2回に分けて葛飾区の「レインボーかつしか」について調査した。「レインボーかつしか」は車両に環境・福祉面で優れた車両を用いており地球温暖化や少子高齢化が叫ばれる昨今の事情に適応している。また,路線も,鉄道を利用するには不便な地域を選んで走っており,交通空白地帯の解消には一役買っていることがわかる。特に,昼は高齢者の利用が目立つことからも,高齢者の「足」としてしっかりと機能していると考えられる。
しかし,一方で始発点である「ウェルピアかつしか」の利用客は少なく,始発時間に「ウェルピアかつしか」がまだあいていないということもあり,発着バスの本数については再考の必要性を感じる。また,朝晩のラッシュ時に通勤・通学客と思われる利用者が少なかったことから,今後乗客数を伸ばすためにはそれらの利用者を如何に増やすかが課題であろう。
Ⅳ まとめ
今後ますます高齢化が進み,さらに環境への配慮が必要となってくることを考えると,地域の交通空白地帯を結び,環境に配慮した車両を導入しているコミュニティーバスは評価できる。
しかし,近年「ムーバス」の成功をきっかけにコミュニティーバスを導入する自治体が相次いだが,全ての路線で成功しているというわけではない。実際には「MMシャトル」のように,自治体の補助金無しでは運行できない路線もあり,利用者のニーズに的確に対応できなければ厳しい運営を迫られることになる。また,近隣施設の営業時間なども考慮して,無駄な便を減らしたり,需要が見込まれる時間帯の便を増やしたりするなどの工夫も求められるだろう。
さらに,交通空白地帯が多い東京の市部はバスの運行本数が少なかったり,ICカードが使えなかったりと,少々不便に感じる点が見られる。地域内の有効な移動手段として機能するためにはこれらの課題も解決していかなければならないだろう。
そして,より住民の意見を運営に反映させるためにもバス運行に対する協議会を設置し,自治体や事業者に運行の全てを任せるのではなく,住民も参加してこれらコミュニティーバスの課題を話し合い,改善していくことが大切になるだろう。
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安養寺元気 | 山陰観光の在り方と可能性 |
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Ⅰ はじめに
山陰は全国でも人口が非常に少ない地域であり,以前から過疎化が叫ばれている。観光業に関しても,常に観光客が押し寄せる集客力はない。そんな山陰地方出身である私は,以前から山陰の観光に関して興味を持っていた。いかに山陰に観光客を誘致するか,現在の山陰の観光状況やアンケートを用いて山陰の観光の問題点を摘出し,問題点の改善策を探っていきたい。
Ⅱ 山陰の基礎データ
鳥取県の人口は,589,000人で全国47位である。島根県は717,000人で全国46位である。このデータからわかる通り,山陰地方は非常に人口が少ない。それは県の魅力を他県へ伝える担い手が少ないことも意味しており,県の観光地のPRのためには行政の力が必須であろう。
Ⅲ 山陰の観光と観光地の歴史
明治~昭和10年頃まで,鉄道の発展が山陰の観光の発展に大きく関与していた。また,山陰への観光は鉄道によるものと決まっていたが,昭和30年代~40年代にかけて大きく進展したモータリゼーションと共に,山陰の観光の形式も変化していった。従来は鉄道駅の拠点近くに観光地としての従来の拠点性を保持していたが,モータリゼーションの進展と共に,国鉄の観光拠点駅はほぼその役割を喪失した。幹線道路沿いにない観光地は停滞が著しくなった。そして全国では国民所得の急増と共に観光地は大きく発展していくが,山陰に至っては中国自動車道や新幹線が開通した昭和40年代後半以降のことだった。
Ⅳ 全国からみた山陰の観光
国土交通省観光庁による全国共通基準の観光入込客統計を用いて全国における山陰の観光状況を探っていく。山陰の観光客総入込客数は鳥取県が35位,島根県が31位(38都道府県中)と,両県とも順位が低いことがわかる。県外客入込客数では鳥取県が26位と順位を上げているのに対し,島根県は30位と一つしか上げることができていない。この要因は顧客圏の違いであろう。宿泊客数のグラフでは1位と2位の静岡県,長野県に注目したい。各地域の土地柄を生かした観光対策を練り実施するべきである。
Ⅴ 山陰の観光と観光地に関するアンケート
インターネット上のアンケート作成サイト「アンケートツクレール」を利用し全国から山陰の観光と観光地に対するアンケートを集めた。アンケート総数は368件。筆者の友人らにアンケートの回答,拡散をお願いしたためアンケートの主な回答者は20代前半が90%近くを占めている。回答者の居住地域を遠距離地方,中距離地方,近距離地方,山陰出身者に分け,山陰からの距離によってどのような違いがでるのか,また距離別の検討課題を検討することにした。
【遠距離地方】…遠距離地方は関東・中部地方を主とした地域131人に回答して頂いた。山陰に観光に来たことがあるかという質問に対して実に85%の人が来たことないという回答だった。しかし,観光地を知っているかどうかの質問に対しては,鳥取砂丘は98%,出雲大社は90%もの人が知っているという結果になった。つまり遠距離地方の人でも知っている有名な観光地が山陰には存在するのに対し,実際行ったかどうかの質問になると大きく数字を下げるということだ。この対策としては,それぞれ有名な観光地だけでなく,温泉や他の観光施設をアピールすることで,宿泊とセットで観光を行いやすくする環境整備が必要であろう。
【中距離地方】…中距離地方回答者は近畿・四国地方の91人。この地方で検討したいことは,リピーター率や観光満足度である。距離が近すぎず遠すぎずであるが故,一度観光してまた行きたいと思えば行ける距離であり行こうと思わなければ行かない距離であるからだ。49%の人が2回以上山陰に観光に来ている結果となった。逆に言えば半分の人が1回しかきていないということになる。観光地としての魅力度向上の他に,時間距離の短縮が大きな課題である。
【近距離地方】…近距離地方は山陰出身を除き,中国地方に在住している85人に回答して頂いた。山陰に近いため,85%の人が山陰を観光したことがあり,その中の87%もの人が2回以上山陰を観光したことがあるという結果となった。そんな中,近距離地方の性質を調べていくと,石見銀山の課題が浮き彫りとなった。石見銀山は世界遺産であり,行きたい観光地としては上位にランクインしているが,観光して楽しかったと答えた割合はわずか25%であった。
【山陰地方出身者】…回答者は61名。山陰地方出身者であっても石見銀山に行ったことある人が少ない。山陰の観光地に愛着を持っているか,他県の人に紹介したいかという質問をしたところ,27%の人が紹介したいと思わないという結果となった。まずは山陰地方在住者へ,山陰の観光地に愛着を持ってもらう政策をとるべきである。
【鳥取県,島根県のイメージ】…最後に回答者全員に同じ質問をした。鳥取県=鳥取砂丘というイメージは定着していたが島根県に関してははっきりと出雲大社と言える結果とはならなかった。さらに両県で,「わからない」という回答をした者も多く見られた。県のイメージ付けは非常に重要な課題であると考えさせられた。
Ⅵ 山陰の観光と観光地の改善策
今まで挙がった課題を精査して,大きく4つに課題と改善策を絞った。(1)県のイメージ付けのために県のHPの背景に大きく鳥取砂丘や出雲大社を載せるべきである。静岡県のHPは参考になる。(2)鳥取砂丘は砂丘周辺の再整備の必要性がある。古い建物が多く,綺麗な観光地作りを進めるべきである。石見銀山は大久保間歩のツアー料金の引き下げと,売店の増加などの更なる観光地化を進めるべきである。(3)ここ数年鳥取砂丘は大きく観光客動員数を伸ばしてきた。それは鳥取道が整備され全線開通まであと少しとなり,時間距離が短縮され顧客圏が広がったことも要因として挙がるだろう。他地域からの時間距離の短縮は観光客増加に大きく影響するため,鳥取道・山陰道の整備も早急に求められる。(4)山陰地方の相互交流は非常に少ないと言える。高校生の時などに山陰同士の高校生が交流する機会を作るなど,山陰の相互交流をすることによってお互いの良いところを知ったり,観光地の魅力を感じたり,愛着をもったりすることにつながる。
Ⅶ おわりに
山陰が全国に誇れ,行きやすい観光地となれることを切に望みながら,論文を締めさせて頂く。
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内河孝宏 | 整備新幹線開業による地域の変容-長野新幹線開業による地域変容を事例に- |
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Ⅰ はじめに
国の計画によって整備される「整備新幹線」は,地域交通の利便性が格段に向上する半面,在来線の廃止や在来線の第3セクターへの経営移行による減便や運賃値上げなどで交通が不便になり地域が衰退し,他方で大都市への交通の利便性が増し地方の人や物が大都市に吸い上げられる「ストロー効果」が指摘されている。
従来,統計からの人口の増減やアンケート・乗降人員から捉える研究が多く,中川(1993) や井口(2005) は鉄道整備による沿線の発展とルートから外れた地域の衰退を人口の増減により証明した。
さらに,高田(2009)は会社の支店配置に関する研究から,秋田・山形両新幹線での「ストロー効果」を示した上で,地域によっては大都市以外にも新たに支店が増加する地域もあることを証明した。ここから,全ての地域が「ストロー効果」によって人や物を大都市に吸い取られていくばかりではないことが分かる。そのため,この研究では長野新幹線におけるその「地域」や「条件」を明らかにする。
この研究では,北陸新幹線(高崎~長野間),旧信越本線(現信越線,しなの鉄道)沿線市町村における開業後の「地域の変容」を,人口と駅乗降者数等の統計資料と地図,MANDARAを用い,主に「交通の利便性」と「人口増減」の変化から分析し「整備新幹線」が地域に与えた影響を考察する。この研究により,今後の北陸新幹線開業地域や他地域において,「地域の過疎化」や「交通の弱体化」の問題の予測や解決に利用できると考える。
Ⅱ 全国新幹線鉄道整備法と整備新幹線建設の経緯
「新幹線」とは,正式名称を「新幹線鉄道」と言い,「その主たる区間を列車が二百キロメートル毎時以上の高速度で走行できる幹線鉄道」のことを指す。その中でも,「整備新幹線」は,「全国の中核都市を有機的かつ効果的に結ぶもの」と定義され,在来線の経営も勘案した計画がなされている。
この仕組みができた時代の背景として,①「国内の交通の航空機の発達」や②「モータリゼーションの進展」,③「内航海運の発展」から新幹線の意義が問われたということに加え,新幹線を経営する「日本国有鉄道」が長期債務を抱えていたということが挙げられる。そこで,国が新幹線建設に関与し計画的に新幹線を整備することで,「開発の基礎条件を整備し,全国土で開発可能性を拡大・均等化すること」を念頭に,新幹線に①「都市間旅客輸送」②「中長距離・大量貨物輸送」③「大都市通勤通学輸送」という意味を持たせ安定した発展・経営を目指した。その財源は,「建設費の2分の1以上の額を政府出資等の処置を講ずること」と定められ,残りは公債の発行,受益者負担,民間資金など地方で工面する必要があった。また,この計画は具体的な建設ルートを示さず,発着点や経由地を規定しただけの抽象的なものであった。このことから地方財政や利便性,公害などの地域の利害関係により,各地で誘致合戦や建設反対運動などの問題が多く発生し建設が遅れた。
Ⅲ 長野新幹線開業による交通の変化
長野新幹線の各駅間の平均距離(開業時)は25.1kmで当初より他線より各駅間距離が短距離であった。一方で,在来線は,長野新幹線開業で,信越本線の「横川~軽井沢間」は廃止し,「軽井沢~篠ノ井間」は第3セクター化へ移行した。それにより,「高崎~篠ノ井間」は完全分離され,さらに「しなの鉄道」内や小海線の営業線内でも,「軽井沢~小諸~上田~長野間」,「小諸~中込間」は分けて運行される本数が多くなり,在来線は,短距離輸送に特化する傾向が見られる。
長野新幹線全体の利用者数は,開業前(平成8年)に8900人から,開業後(平成10年)には11800人と135%の伸び率となり,年間輸送人員の伸び率も100~106%と増加傾向にある。内訳として,「定期利用」の割合は,開業当初の約5%から,平成20年には約10%に増え,「定期利用」は増加している。
一方で,上信越自動車道は長野県と群馬県の県境である碓氷峠を越え,高崎などの首都圏と長野などの地方都市とを結ぶ役割が強いため,新幹線においても比較的長距離な高崎~長野間以遠では影響が大きい。また,富岡ICや松井田妙義ICといった新幹線から離れた地域での利用は増加しているが,佐久ICや小諸ICのような新幹線に近い地域では利用が伸び悩んでいるようである。また,「小諸」駅では,新幹線開業により直接首都圏へ行けなくなったわけではなく,首都圏の高速バスが毎日往復14本ある。高速バスは,時間は新幹線に比べ1.5倍ほどかかるが,乗り換えの手間もなく価格も半分以下なので利用されているのであろう。佐久方面から池袋行きのバスの利用状況を見ると,平成4年から平成6年にかけて急激に伸び,また平成15年から急激に伸びている。
Ⅳ 長野新幹線沿線の地域の変容
平成2年から平成17年にかけての沿線市町村の人口増減率は全体として平成7年あたりまでは緩やかな増加で,さらに,軽井沢町や御代田町では以降も人口増加が続いている。長野新幹線の中で平成12年~平成17年において一時期な減少が出ているのは安中市と小諸市,上田市である。
「信越線・しなの鉄道・長野新幹線(以後,旧信越本線)」と「中央本線」の沿線市町村の人口増減率の比較から,中央本線沿線においては,「竜王」駅(甲斐市)の約122%から「大月」駅(大月市)の約88.4%まで,各市町村間の人口増減率の差が開いている。一方の長野新幹線沿線地域は,御代田駅(御代田町)の約118.7%から安中駅(安中市)の約98.2%まで中央本線より人口増減の差が少ない。また,長野新幹線沿線で人口減少は安中市のみである。
新幹線沿線各市町村の人口増減率からわかることが三つある。①新駅を山間部(「安中榛名」駅)に建設すると,その後の開発の障害となり人口増加が限定的になってしまい,逆に水田の真ん中(「佐久平」駅)に建設すると多方面からのアクセスがしやすく,商業開発や在来線の接続,駐車場整備など交通網の整備に広大な用地が取れ,新駅開業後も人口増加が幅広い地域で見られる。②「新幹線新駅周辺の在来線の乗車人員の増加」である。新幹線開業で特急に乗車していた人が新幹線利用に移り,確かに「軽井沢」駅,「上田」駅では乗車人員は減少しているが,「しなの鉄道」の短距離の利用は利便性を増し,「軽井沢」駅近くの「信濃追分」駅,「佐久平」駅近くの「竜岡城」駅,「上田」駅近くの「テクノさかき」や「屋代高校前」など新駅での発展も確認された。③「新幹線新駅と旧来の中心駅との関係性」として,新幹線新駅建設により,「安中榛名」駅では本来の中心駅である「安中」駅や「磯部」駅との間にバス路線が新設され,「佐久平」駅では,「小諸」駅や「岩村田」駅との道路が拡充され,在来線が増発されるなど市街地から本来の中心駅や新幹線新駅への地域交通の利便化が図られた。
Ⅴ 整備新幹線の地域に与える影響と課題
「整備新幹線」開業により地域に与えた大きな影響には以下の三つがある。
①「安中榛名」駅では全体の半数以上が「定期利用」になり,「佐久平」駅や「上田」駅でも「定期利用」の利用者が増加しているため,長野新幹線各駅は首都圏への通勤駅への性格を強めている。②人口増加が地域の中心駅から周りの駅へと分散していることが見て取れる。そして,「旧信越本線」と「中央本線」のグラフ(Ⅳ-1)からも,「中央本線」の各駅は変化の差が大きい。しかし,「旧信越本線」沿線では,東京からの距離に関係なく,どの市町村でも同じぐらいで推移している。これは,新幹線開業により長距離輸送の時間短縮が図られ「遠距離」の市町村でも人口減少が抑えられ,「近距離」の地域でも在来線を短距離で十分に活用して,その役割分担ができているためであると考える。③「交通手段が多様化」したことが挙げられる。「整備新幹線」は,運賃が従来の特急よりも高くなる。「上野~小諸・佐久平間」で870円増加した。そこで安く移動したいという需要から高速バスが充実し,現在では,東京・大阪方面へのバスが「佐久平」駅や「小諸」駅から一日約30本出ている。千曲バスの調べでは平成10年から平成20年の10年間に年間乗車人員が倍増している。このことから,「お金がかかっても早く移動したいという需要」と「時間がかかっても安く移動したいという需要」の両方をかなえた。
一方,課題として地方では商業の中心が駅周辺から主要道路沿線に移り,新駅の発展や旧中心駅の再開発において十分な駐車スペースやアクセスのない駅では利用の増加は見込めない。そのため,新駅開業の際は鉄道とバスとの接続や駅周辺地域へのバス整備や幹線道路整備,駅駐車場整備をして,車やその代替としてのバスで利用しやすいように配慮する必要がある。その際,旧来の商業地域の衰退を防ぐため,旧中心駅から旧繁華街の延長上に新幹線新駅を設けたりするなどの対策を講ずることも重要である。
Ⅵ まとめ
「整備新幹線」の特徴としては,財政難から地域に負担を求め,負担のある地域に考慮したルートや駅配置になることで,駅間が短くなったり,さまざまな方面との接続に考慮したりという点が挙げられる。そして,「整備新幹線」の理念(第Ⅱ章)の下,建設された「整備新幹線」において,「旧信越本線と中央本線沿線との比較」(Ⅳ-1)や「各市町村各地区の人口増減率」(Ⅳ-2)から,整備新幹線の建設により,「定期利用」は安定して増加し,地域の人口増減率や乗車人員は地域間格差が小さくなり均等化され,人口増加率は安定的である。このため,整備新幹線はある程度理念にかなった地域の発展への役目は果たしていると言える。
しかし,一方で,地域は車に依存したモータリゼーションの社会である。そこで「整備新幹線」や第3セクター化された鉄道が,整備された高速道路や主要幹線道路などを通るバスや自家用車などの車との接続をどう取るかということが課題となっている。整備新幹線開業により,新幹線などの高速交通による「高速性」と第3セクター線のような地域の身近な交通手段としての「短距離頻発性」をしっかりと差別化し地域を均等に発展させるという役割を果たし,新幹線建設により新幹線新駅が,「地域の新しい中心地」となり「交通の過疎地域」を結び,地域発展に貢献することが重要になっている。
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笠井大輔 | 埼玉県における道の駅の現状と特性 |
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Ⅰ 研究目的・意義
近年のモータリゼーションの進展とともに,車を使って移動するという機会が格段に増えた。それに伴い一般道での休憩施設の必要性が叫ばれ,1993年設立されたのが道の駅である。現在道の駅設立から18年がたち,道の駅も増え続け,その数は977駅となった。初期の道の駅は「休憩機能」「情報発信機能」「地域の連携機能」という3つの柱をもとにし,高速道路のSA,PAのような役割をもつものであった。しかし道の駅が増えていくとともにその形は多様なものとなり,それぞれの道の駅の特色が出るものとなっていった。本研究ではこれら現在多様なものとなっている道の駅の現状を調査する。
先行研究では地域活性化という面から山間部における道の駅についての研究がほとんどである。確かに地域の活力が低下している主に山間部などの地域においては「地域の連携機能」を備え,「地域との出会いの場」となる道の駅は重要な役割を果たすだろう。ただ近年道の駅も多様化し,地域の活力が低下していると考えられる山間部だけではなく,後述するような様々な要因から都市部,平野部にも進出している。その中で埼玉県は平野部と山間部がはっきりと分かれておりそれぞれに道の駅が分布している。道の駅の多様化とともに様々な場所に違ったタイプの道の駅ができるようになってきた近年において,平野部,山間部それぞれのタイプの道の駅が同一県内で見られる埼玉県は研究対象として調査する価値があると言える。
本研究では埼玉県にある道の駅18駅について現地調査を行い,埼玉県の道の駅はどのような利用者,どこからの利用者がいるのかについて調査を行う。また,道の駅の利用者に大きく影響を与えると考えたコンビニエンスストアの立地についてジオコーティングを使いその関係について考えた。
Ⅱ 道の駅の現状と変遷
道の駅は,1992年の栃木県,岐阜県,山口県の12か所で行われた社会実験においてその事業の意義と必要性が確信され設立された。ここで作られていく道の駅での基本要素は,流れを支えるたまり機能として道路利用者がいつでも自由に休憩し,清潔なトイレを利用できる快適な場としての「休憩機能」。地域において人と地域の交流により地域が持つ魅力を知ってもらい地域振興がはかれるように人,歴史,文化,風景,産物等の地域に関する情報を提供する場としての「情報発信機能」。地域が一体となって道の駅を作るとともに,地域と地域が道を軸として協力するなど,地域内及び地域間の連携の場としての「地域の連携機能」の3つである。このような3つの役割を道の駅が果たす役割として期待されたのである。このような期待のもと1993年に道の駅制度が開始され,103駅が道の駅に登録された。その後18年間,3つの役割をもとに様々な道の駅が作られていったが数多くの道の駅ができていく中で,道の駅に新たな役割が求められるようになる。それらの一つとして防災拠点としての役割がある。これらは近年起きた新潟県中越地震,東日本大震災を経て求められたものであるが,どのような役割を果たしたのか。
3月11日の震災により,東北地方の4つの道の駅は直接津波の被害を受けたほか,原発事故の避難区域内の道の駅も存在するなど被災した道の駅には営業が困難となるような道の駅もいくつか見られたが,その中で防災拠点となり被災者たちの生活を支援することとなった道の駅もあった。これら道の駅は自衛隊の活動拠点や住民の避難場所,トイレ,食料,水などを提供する貴重な防災拠点として機能していた。また新潟県中越地震の教訓をふまえ,防災拠点化のために自家発電を備えていた道の駅では停電時にも24時間開放することにより防災拠点として機能していた。現在全国の道の駅ではこれら震災での経験をふまえ,防災機能をもった道の駅の設備を進めている。具体的には「非常用電源」「貯水槽」「給水タンク」「情報提供施設」などである。現在ではそれらを備えた道の駅はまだ少ないが,今後これらの道の駅が増えていき,今回の東日本大震災の時のように防災拠点としての重要な役割を果たしていくと考えられる。
道の駅は数が増えていくとともに基本的な3つの機能の他にも様々な機能が求められ,役立っているのである。
Ⅲ 埼玉県での道の駅の現状
ここでは埼玉県の道の駅の現状ということで埼玉県の道の駅18駅について実地調査を行い,利用者から道の駅の分類分け,そして調査から出た利用率をもとにコンビニとの立地関係について調査をした。
まず,埼玉県の道の駅ナンバープレート調査から,利用者のナンバープレートが同一圏内から50%以上,以下で分けそれぞれ地域利用型,外部利用型に分けることができた。この2つのタイプの道の駅では利用者だけではなく立地,施設からもその特徴をとらえることができる。圏内の利用者が多い地域利用型の道の駅は,内部の施設を見ると,それ自体が目的地となりうるような施設等が設置されていることが多く,圏外からの利用者が多い外部利用型は主要国道沿いに立地されていることが多かった。つまり,地域利用型は地域の住民の目的地となりうる目的地的道の駅であり,外部利用型の道の駅は様々な人が利用する通過点的道の駅と言えるのである。
それぞれ地域利用型,外部利用型は,アクセスを整えたりイベントを行ったりと利用者獲得のために様々な方策を行っているが,そこでの利用者数には大きな差が見られた。ここでは国土交通省が出す交通センサス(範囲内の道でどれだけ交通量があるかの調査)をもとに道の駅で交通量調査を行い道の駅の利用率(道の駅利用者/道の駅が隣接する道路の交通量)を出した。すると同じタイプの道の駅においても大きな違いが出た。いくつか例を挙げると,道の駅「庄和」平均利用率17.2%,道の駅「きたかわべ」平均利用率18.8%,道の駅「果樹公園あしがくぼ」平均利用率30.1%,道の駅「めぬま」平均利用率6.2%,道の駅「かわもと」平均利用率6.8%などである。同じような立地で同じような利用者が利用している道の駅においてなぜこれほどの違いができたのか。
道の駅の利用率には道の駅と同じような役割を果たすコンビニの立地が関係していると予想し,コンビニの立地との関係を調べた。すると利用率が10%以下の道の駅ではコンビニとの距離が川口・あんぎょう0.4km,いちごの里よしみ0.1km,おがわまち1.3km,童謡のふる里おおとね0.3km,はにゅう0.8km,かわもと0.05km,めぬま0.05km,おかべ0.65kmと平均して0.45kmであったのに対して,利用率10%以上の道の駅は,庄和1.7km,アグリパークゆめすぎと1.1km,きたかわべ3.1km,あらかわ3km,ちちぶ0.65km,両神温泉薬師の湯1.1km,龍勢会館0.75km,果樹公園あしがくぼ3.6km,はなぞの0.75km,大滝温泉14.8kmとなり平均で3kmとなった。これら調査から,大きな駐車場を有し,休憩,食事もとれ,トイレの利用も出来るコンビニが道の駅の利用者に大きく影響を与えていることが分かった。
Ⅳ 埼玉県における道の駅の今後と課題
埼玉県の道の駅は1993年に道の駅あらかわ,道の駅おがわまちの2つの駅ができてから数を増やし,2007年には道の駅はにゅうができ,18駅となったがそれ以降は増えていない。ただ全国的にみるとまだまだ増え続けていて当初の目的だった1000駅の道の駅を越えてもまだ増え続けるだろう。そういった中で今後埼玉県における道の駅はどうなっていくのだろうか。埼玉県の道の駅は西部北部,東部には多く立地しているが中部,南部にはほとんど道の駅が立地していない。他の県で平野部での道の駅が増えているため今後埼玉県でも平野部,特に南部において道の駅が増えていく可能性もあるだろう。また2章で触れたように近年,防災拠点としての道の駅の役割も注目されてきている。今後首都圏直下型地震,東南海地震が起きると言われている中で都市部において防災拠点を備えた道の駅のような施設の必要性が高まってくるのではないだろうか。道の駅の利用については多くの要因から埼玉県内の18駅の中でも利用率に大きな違いが出た。利用率の少ない道の駅は利用率が高い道の駅が地域密着型のイベント等で利用者獲得をはかっているように,様々な方策を行い利用者を増やしていくことが早急に取り組むべき課題といえるだろう。他県での事例だが,道の駅よしおか温泉では道の駅が開設されることで道の駅自体もそうだが,近くの施設の利用にも影響を与えることができるという結果が出た。現在埼玉県の観光客数は横ばいとなっているが,今回の調査の中で,道の駅自身が様々な方策を行うことで,道の駅によってこれら埼玉県への観光客を増やすということも可能なのではないだろうかと考えた。今後近くの観光地や施設の利用者にも影響を与えるような道の駅が観光という面から見ても重要になってくる。また今後新たに設置される道の駅は,コンビニなど道の駅の役割にとって代わることができるような施設ともうまく関係を保っていかなければいけないだろう。
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2010年度卒業論文 |
藤井高天 | 衣料品チェーンの店舗展開と今後の展望-しまむらの事例- |
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Ⅰ はじめに
1990年代初頭のバブル崩壊により,消費者の低価格志向が強まり小売業界の勢力図に大きな変化をもたらした。それまで小売業界を牽引してきた百貨店や総合スーパーなどの中心市街地に立地し,比較的高価な商品を取り扱う業態は倒産や閉店,業績不振へと陥った。これらの業態に変わり,小売業界で大きな成長を見せているのがコンビニエンスストアや量販店,専門店チェーンなどのチェーンストアである。チェーンストアは商品を低価格で提供するために,物流コストや人件費の削減などチェーン全体での費用圧縮を行ってきた。
本論では,衣料品を主に取り扱う専門店チェーンである,しまむらを事例企業として挙げ,そのコスト削減の取り組みについて検討していくものである。小売業界の物流の変化は,それに携わる卸売業者や製造業者にも大きく影響を与え,今後の日本の流通を考える上で極めて重要である。
Ⅱ 流通業界・衣料品業界の概要
1980年代までの日本の流通業界を牽引してきたのは百貨店や総合スーパーなどの大型店や生業的な零細小売店舗であった。そして,これら大小多数の小売業者と,それらを支える多数の中小の問屋が存在し,商品別に卸売業者と小売業者とが結びつき,多段階性,零細性を持つ商品業種型の流通が行われてきた。しかし,90年代に入り景気が悪化すると消費者の購買意欲は低下し,低価格志向が強まっていき,それまで小売業界の中心に位置していた大型店や零細小売店舗などは勢いを失っていく。
かわりに大きく企業成長を見せたのがチェーンストアである。チェーンストアは業種間競争,業種内競争の中,他のチェーンとの差別化を図るために,低価格な商品や多種多様な商品の取り扱いが必要とされた。そして,チェーンストアはその要求に応えるために,それまでの多段階性,零細性を持つ日本の流通の形にとらわれない,自社の物流システムを構築することとなった。チェーンストアの中でもコンビニエンスストアや食料品スーパーなどは早い段階から成長を見せたが,これらの業種では扱う商品の制約により,物流システム構築によるコスト削減などが難しかった。専門店チェーンはコンビニエンスストアの後発の業態であるが,商品の制約にとらわれにくく,さらに自由な物流システムの構築が可能であった。
衣料品の売上は年々減少している。その主な理由として,衣料品価格の低下が挙げられる。
Ⅲ 衣料品チェーンの店舗展開と物流システム
衣料品の専門店チェーンであるしまむらを事例企業として,その店舗展開と物流システムを検討する。しまむらは20代~50代の主婦層をターゲットに日常衣料品を主要な商品として取り扱う企業である。低価格の商品を提供するためにチェーン全体でのコスト削減に務めた。
しまむらは埼玉県の北西部に開業し,それ以降年々店舗数は増加し,全国へと展開していった。その出店地域は地代負担の少ない校外を志向し,また全国展開を行う中で,物流機能を集約した物流センターを自社で運営することにより,流通段階でのコスト削減も行われてきた。物流センターは納入業者と店舗の間に入ることによって,センター間配送や移送などを行い,物流コストの削減だけでなく,余剰在庫の減少にもつながる。
2006年には店舗数は1,000を超え,近年ではそれまで出店の行われてこなかった都心部や各都市の中心市街地にも出店が見られるようになった。それは,価格訴求により業態間競争において優位性を保ってきたビジネスモデルとは一線を画すものである
Ⅳ おわりに
小売業界の主役が百貨店などからチェーンストアに変わったことによって,それに携わる納入業者や製造業者にも変化をもたらした。そしてチェーンストアは様々なコスト削減を行い,それを商品価格に反映させて発展していった。そのひとつに郊外志向の店舗立地が見られた。
しまむらの場合も郊外立地や物流センターを中心とした自社の物流システムの構築により大きく企業成長していった。しかし,近年ではそれまでと違い都心部への立地も見られるようになった。その要因としては,全国展開したことや,プライベート商品の展開,CMなどのメディア露出などによる「ブランド化」が挙げられる。
今後,しまむらは従来までの郊外での小商圏のビジネスだけではなく,都市部での中~大商圏型のビジネスへの拡大が行われていくと考えられる。
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石倉美生 | 埼玉県におけるファミリーレストランの立地展開 |
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Ⅰ はじめに
ファミリーレストランの研究は,1981年の内田清隆氏による研究以来行われていない。この1980年代は,ファミリーレストランが人々の生活の中に浸透し始めたころであった。しかし30年経過した今日では,そのあり方も大きく変わっているのではないかと提起した。そのように考えた理由としては,①街中にファミリーレストランチェーン店があふれていること。②ファミリーレストランの立地場所が多様化していること。③閉店や,看板替えを行うチェーン店が多いこと。があげられる。そこで,本研究では埼玉県全域を対象とし,職業別電話帳(タウンページ)を用い,チェーン店ごとに年を追って地図化することにより,ファミリーレストランの立地の変容を明らかにし,新しいファミリーレストランの在り方を示していく。
Ⅱ 取り扱うファミリーレストランについて
ファミリーレストランとは,広く一般的には「老若男女誰でもが気軽に(ファミリアーに)朝食・昼食・軽食・夕食・夜食全ての外食動機において利用できるレストラン」のことをさす。そして具体的には,「都市周辺部の郊外住宅地に近接した主要道路沿いに店舗を設定し,広い駐車場と100席前後の客席を標準的なパターンとして,地域的な客層の定着化を企図しているレストランチェーン」とある。しかし,今回の研究では,職業別電話帳(タウンページ)のファミリーレストラン欄に掲載されているチェーン店であり,かつその中でも①先行研究として取り上げられたことのあるチェーン店。②グループを構成しているチェーン店。③店舗数が8店以上あるチェーン店,とした。以上の①~③を満たすチェーン店は,藍屋,おはしcafeガスト,カーサ,ガスト,キングタイガー,グラッチェガーデンズ,ココス,サイゼリヤ,さと,サンデーサン,ジョイフル,ジョナサン,すかいらーく,ステーキのどん,デニーズ,とんでん,ナインズ,華屋与兵衛,バーミヤン,馬車道,びっくりドンキー,ビッグボーイ,ファミール,不二家,夢庵,ロイヤルホスト,の26店となる。よって今回は,この26店をファミリーレストランとして研究を行った。
Ⅲ 埼玉県におけるファミリーレストランの立地展開
(1)ファミリーレストランの総数
ファミリーレストランの総数は,年々右肩上がりに増加していたが,2007年を機に減少傾向にある。総数の増加の要因としては,①チェーン店数の増加,②外食文化の浸透,があげられる。
(2)各チェーン店における立地展開
【サイゼリヤ】
・設立当時の本社は千葉県であったが,1997年に埼玉県に移った。
・出店場所がロードサイドに限らない。(ショッピングモール内のレストラン街,駅前にも出店)
・積極的に他のファミリーレストランチェーン店の跡地を利用している。(建設費用の縮小→低価格路線)
・埼玉県内では,2000年に春日部・幸手・川越に初出店し,翌年には急激に店数を増やし現在は大宮を中心に78店となっている。
【とんでん】
・1968年の創業で当時は,和菓子の製造販売会社あったが,1973年にとんでん鮨をオープン。
・和食ファミリーレストランの元祖であり,客からの信頼度が高い。←サービスのよさが信頼を支えている。
・大きなグループに属していないが,安定した店数を保っている。
・埼玉県内では,南部や東部を中心に主要幹線道路沿いに立地展開している。
Ⅳ すかいらーくグループの店舗展開
東京でスーパーを営んでいた,横川家の4人の兄弟(以下横川4兄弟とする)は,当時のモータリゼーションの動きに注目し,①駐車場を完備すること。②大型幹線道路脇に出店すること。③気軽に入れること。がロードサイドビジネスにおいて重要であると学んだ。以上の3点に加え,横川4兄弟は,④ファミリーで気軽に入れる。⑤誰もがなじみのある料理を提供する。の2点を加えて,新しいロードサイドビジネスを展開することにした。それが,1970年に開店した「すかいらーく」である。
すかいらーくグループは,ファミリーレストランの象徴といえるグループである。もとは,すかいらーくのみであったが,それが,1992年にガストを新規出店し,1994年には,すかいらーくのガスト化が行われた。その結果,現在すかいらーくという店はなく,すかいーくのほとんどが,ガストまたは,バーミヤン,夢庵に変わった。しかし,2000年代後半まで残っていたすかいらーくは,グラッチェガーデンズやおはしcafeガストなどに変わることがほとんどである。
Ⅴ おわりに
今回の研究により,ファミリーレストランの定義が,従来のものでは言い表せないものとなってきていることが分かった。一番の変化としては,主要幹線道路沿いだけではなく,駅前や,大型商業施設内のレストランスペースにも出店していることである。これは,車以外での来客の増加が要因としてあげられる。より近隣の住人(地域密着)を客層とするようになったともいえる。そのため,広い駐車場を必ずしも必要としなくなった。
ファミリーレストランチェーン店数の増加に伴い競争も激化してくる。つまり,人々の外食の場の選択が広がってくる。そのため,各チェーン店で,独自性を出していかなければ安定した客数を保つことができなくなる。今日の不況の影響もあると思うが,近年閉店に追い込まれるチェーン店がでてきた。それは,デニーズやロイヤルホストである。これらのチェーン店は,他よりも高価格であることが特徴である。一方で,ガストやサイゼリヤは低価格路線であり,売り上げも客数も多い。このことから,人々はファミリーレストランでの食事にお金をかけたくないという心理があるように考えられた。つまり,ファミリーレストランには高級感は求められていないということである。
しかし,そのような中でもとんでんは,低価格ではないものの安定して成長している。この要因としてはサービスのよさがある。このサービスの良さが客からの信頼を得続けている。このとんでんの経営方法にこそ,今後のファミリーレストランの発展のヒントがあるように思う。今後のファミリーレストランの発展のためには,①サービスの徹底(おもてなしの心を持つこと)②料理の品質を保証すること③独自の取り組みを行うことが,最も大切になってくると考えられる。①と②は当たり前のことであるが,この当たり前のことが当たり前にできていない現状があるので,この2点をとりあげた。そして,最後の③の独自の取り組みを行うであるが,ファミリーレストランチェーン店数多くある中で,差別化を図るために,各チェーン店は,そこでしか味わえないサービスや,そこでしか味わうことができない料理を作っていくことが必要となっていく。この差別化が上手くいくと,集客アップにつながっていく。1970年代や80年代は,ファミリーレストランといえば,ハンバーグがあって,オムライスがあってといった定番があったが今日でそれは,通用しない。そうであった場合は,よほど味に自信がない限り,安いファミリーレストランチェーン店に客を奪われてしまうのだ。
最後に新しいファミリーレストランの定義として,ファミリーレストランとは,主要幹線道路沿いや,駅周辺に店舗を設定し,多様なメニューを600円~1000円前後の客単価で提供し,標準化されたサービスでもって接客を行うレストランチェーンである。と定義する。
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當間仁美 | 埼玉県における高齢者福祉施設の立地 |
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Ⅰ はじめに
高齢化が深刻な問題となっている中で地理学の分野では,高齢者福祉施設の業種を限定したものに限られた研究しかなされてこなかった。高齢者福祉施設を業種に限定せずに調べてみたいと思った。高齢者福祉施設に関する政策は都道府県を単位として行うために都道府県を対象にすることに決めた。また,埼玉県は平成17年から平成42年にかけて急激な高齢者人口増加率が全国第1位になることから早急な対応が必要であると考えられます。また施設の周辺環境との関連を考察する際に埼玉県の県庁所在地であるさいたま市は政令指定都市であり多くの施設が立地していることから考察しやすいと考え対象地域とした。県の高齢者福祉施設のデータを理情報分析支援システム「MANDARA」により地図化する。
Ⅱ 高齢者福祉施設の立地
県の東南部に施設の立地が集中していることが見て取れる。このことは東南部に人口が多い市町村が集中していることと関連していると考えられる。また,北部の深谷市や熊谷市は所沢市や川越市と人口大きく異なるが,施設数は変わらない。このことからこの2つの市が北部の中心的都市であることがわかる。
(1)特別養護老人ホーム
要介護者を対象とした施設であり,在宅での介護が困難な寝たきりの人を対象として家庭と同様の生活の場を提供する施設。東南部に施設が多く立地しておいる。またいくつかの施設を運営している社会福祉法人は同じ市町村もしくは近隣の市町村に立地していることがわかる。
(2)介護老人保健施設
病院と居宅の中間的な役割を果たす施設でありあくまで自宅に帰るリハビリを行うことを目的とする施設。医療サービスを受ける必要があるために病院が多い大都市に立地している。
(3)養護老人ホーム
自立した生活を営むことができるように訓練や援助を行う施設。市町村によって運営される場合が多く,県の中央部には立地していない。
(4)軽費老人ホームA型
無料または低額な料金で食事やその他日常生活上必要な便宜を給与する施設である。さいたま市に立地していないことがわかる。これはケアハウスがこの軽費老人ホームA型の役割を補完しているのではないかと考えられる。
(5)軽費老人ホームケアハウス
A型と条件は同じだが,住宅のとしての性格が強調されており,生活相談や入浴食事の提供を行うとともに利用者の介護が必要な場合には地域のヘルパーが派遣されるなど地域の在宅福祉サービスとの連携を図っている施設。東南部に多く立地しているが他の業種と比較すると均一に立地している。
(6)有料老人ホーム
有料老人ホームは,食事等の選択掃除健康管理など日常生活に必要なサービスを行っているが,介護サービスの提供は行わないため入居者自身の選択で地域の訪問介護を利用することができる施設。さいたま市に3分の1の施設があり,人口の多い市町村に多く立地している。
Ⅲ 高齢者福祉施設の設置年代と定員数
高齢者福祉施設の立地は年代によって大きく変化しており,政策に直接かかわっていないこともある。近年の立地展開から今後は,有料老人ホームがさいたま市周辺の東南部への一極集中が更に進むのではないかと考えられる。このことは将来的にさいたま市とその周辺の東南部では高齢化が急激に進んでいくと想定されていること照らし合わせても妥当であると考えることができる。
定員数は年代で大きく変化しているが,近年,新設された定員数100人以下の有料老人ホームが多く,それらを運営する事業所はベネッセスタイルケアやウィズネットなどであることから近い将来高齢化が進んだ際に増設もしくは付近に新設していくのではないかと考えることができる。
Ⅳ さいたま市における高齢者福祉施設
・特別養護老人ホーム
市の全域に立地が分散しており,いずれも駅から比較的離れた位置に立地している。これは特別養護老人ホームが居宅の代わりに居住サービスの提供を主とした役割をもっているということから交通の利便性よりも少し離れた郊外に立地展開がされていると考えられる。
・介護老人保健施設
特別養護老人ホームと同様の理由から駅から離れて立地している。市の中央に位置する大宮区や浦和区という市の中心的な区に立地していないのは,運営する医療法人がいずれも見沼区や桜区に立地しているためにその病院に近い場所に立地する必要があったと考えることができる
・養護老人ホーム,軽費老人ホームケアハウス
他の施設に比べて公的な役割が高く,利用者の負担が少ないことから地価が安い郊外の地域に立地させたのではないかと考えることができる
・有料老人ホーム
市の中央に位置する大宮区や浦和区といった人口が多い区に立地が集中している。ベストライフやベネッセスタイルケアなどの幅広い地域で事業展開している事業所によるものが多いため他の地域や他の部署との連携を円滑にするために交通の便のよい地域に施設を設置したのではないかと考えることができる。
・ベネッセスタイルケア
施設は駅から少し離れた住宅地に立地されており,施設を住居環境に近づけるようにしているということからもわかる。
・ウィズネット
どの施設も駅やバス停の近くに立地しておりスーパーも立地している。施設案内でも施設周辺のスーパーや公園や病院が近くにあることを紹介している。
Ⅴ おわりに
埼玉県における高齢者福祉施設の立地展開から見る今後の問題点は比企郡や秩父に介護老人保健施設,養護老人ホーム,軽費老人ホームケアハウスの立地が進んでいないことがある。また,今後はさいたま市のような人口が多い都市ではなく人口が少ない小規模の市町村の施設サービスを考察していくことが必要であり,機会があれば検討していきたい。
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長本翔太郎 | 小学校社会科「地域の発展に尽くした先人の具体的事例」の抱える課題-埼玉県を例に考える- |
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Ⅰ はじめに
小学校4年生で行う学習に「地域の発展に尽くした先人の具体的事例」という単元がある。今回,この単元の定着率が悪いという事実を知り,この単元の抱える問題点を明らかにする為2つの観点からアプローチを行った。各市町村と事例の位置関係からみた問題点,市町村合併に伴う事例の変化に関する問題点。
Ⅱ アンケート調査から見る学生の意識調査
実態を把握する為,教育学部の学生230名(内60名は社会専修なので分けて集計)を対象にアンケート調査を行った。 まず,始めの「あなたはこの『地域の発展に尽くした先人の具体的事例』について学習した覚えがありますか。」という質問に関しては,230名中「ある」と答えた人が97名「ない」と答えた人が133名という結果になった。(あると答えた97名の内40名が社会専修の学生)この結果から社会専修の学生は67%の学生がこの学習を覚えているのに対し,それ以外の専修では34%の学生しかこの学習を覚えていないことがわかった。
2番目の「授業はどのように行われたか」という質問に関しては,53名の学生は「実際に現地に行って学習を行った」と回答し,残りの49名は,「見学には行かず学校の授業のみで学習した」と回答した。
結果は私が思っていたより見学に行って授業を行っている学生が多い印象を受け,それにも関わらず定着率が低い理由は何なのか次章から明らかにする。
Ⅲ 副読本から見る埼玉県各市町村の事例
事例に関しては,見沼代用水や三富新田,野火止用水といった埼玉県内の有名な事例が多くの市町村で取り上げられていた。これはT社の発行する「わたしたちの郷土さいたま」にこれらの事例が取り上げられていることも大きい。一方で,「狭山茶」や「なし作り」といったごく限られた市町村でしか取り上げられない事例も多く存在することが分かった。人物名に関しては,当然のことながら事例に対応して,見沼代用水を作った井沢弥惣米兵衛や,三富新田の柳沢吉保といった人物が多く取り上げられている。しかし最も特徴的なのは,伊奈忠次,忠治,忠克といった伊奈氏が最も多くの市町村で取り上げられていることである。これは,伊奈氏には荒川と利根川の付け替えという二つの大きな業績があるためであり,この二つの事例を足すと,見沼代用水や,三富新田などの事例を越えて最も登場回数の多い人物となっている。また,野火止用水では,作るのを命じた松平伊豆守信綱と実際に工事に携わった安松金右衛門の二人がそれぞれの副読本に載っており珍しい事例となっている。人物においても斎藤祐美や,木村九蔵,浅見園吉,五十嵐八五郎といったごく限られた市町村のみでしか取り上げられていない人物が多くいることが分かった。ページ数についてであるが,一番多かったのが「4ぺージ」,「14ページ」,「10ページ」であり,続いて「12ページ」という結果となった。中には1ページという市町村もあり,ばらつきが見られた。具体的な数字で見ていくと,まずすべての市町村を平均したページ数は12.3ページである。また,最も多いページ数は,『私たちの郷土埼玉』で30ページ,単独の市町村では,所沢の28ページが最高のページ数であった。平均が12ページということについては多いか少ないかは意見が分かれるところであると思うが私個人としては,やや少ないのではないかという印象を持った。
Ⅳ 各市町村の事例から見る問題点
(1)市町村と取り扱う事例から見た問題点
いずれの事例も取り上げられている市町村との間に位置的なずれが生じていることがわかる。特に,三富新田,野火止用水といった事例はそれを取り上げている市町村のほとんどが,これらの事例と関わりのない市町村であることがわかる。
それでは,なぜこのようなことが起きているのか考えてみると,やはりそれぞれの市町村で独自の事例が存在せず,位置的に近い市町村の事例であったり,埼玉県内の有名な事例であったりを自らの市町村の事例として取り上げざるを得ない状況があると予想される。しかしながら,このような事例の選定では,児童がより親近感をもって学習に取り組むことができず,実感の伴わない学習になりかねない。自分の住む地域の先人が行った郷土開発で今なお自分たちの生活にかかわっており,身近な場所にその対象物があることが,児童がより興味関心をもって自らの地域を学習する上で必要不可欠な要素であると考える。その為本単元の事例の選定は,該当市町村との距離的な近さが求められるものだと考える。また,埼玉県内の人口の少ない地域と事例のない地域が類似していることから人口規模の小さい市町村ほど事例の選定に割く時間がないことや事例になる人物自体が存在しないことが予想できる。
以上のような実態を踏まえ今後事例の存在しないような小さな市町村の事例の選定の在り方を見直していく必要があると考える。
(2)市町村合併に伴う事例の変化に関する考察
市町村合併に伴って各市町村で事例が消滅したり新たに付け加えられたりということが多く見られることがわかる。さいたま市の事例で見ると,「末田須賀堰」は,もともと岩槻市のみの事例であったが合併によって旧浦和,大宮,与野地区の事例にもなったことになり特にもともと事例のなかった大宮,与野にすると大きく事例が変化したことになる。本庄市の事例にしても,もともと児玉町のみの事例であった「養蚕」を本庄市全体の事例として取り上げており,その地区の学校に通う児童にとっても学習が大きく様変わりすることになる。
これは,新たに合併した地区のことをよく知り,その市町村全体に対する理解や愛情を育てる上で必要かつ重要なことかもしれない,しかし半面自分の住む地区とは遠く離れた地区の事例を学習する児童達が実感を持って学習するのは困難なように思える。事例は身近なもの程,児童が興味関心をもって積極的に取り組めるものだと考えられる。また,現地を実際に訪れての学習をする場合に距離が離れていては,そういう体験的な学習も学校として行いにくくなるのではないだろうか。本単元においては現地での学習が学習を効果的に行う為に必要不可欠だと考えられるが,それを行うのが難しい状況が市町村合併によって引き起こされているのならばそれは非常に残念なことだと言える。行政区分の広域化が進行する中で,このような問題を解決する為には,やはりある程度区間を区切って事例を選定していくことが必要なのではないだろうか。距離的に遠い地区の事例を無理に教えるのではなく,旧市町村単位,場合によってはもっと細かく地区を区切ってそれぞれの学習を進める形が私は望ましいと考える。副読本に関しては例えば合併後も旧市町村の事例を残し,他にもたくさんの事例を載せ,その中から学校が身近な事例を選ぶのが望ましいと考える。
Ⅴ おわりに
最後になるが今回の研究では「副読本」というものに重点を置き進めてきたが,やはり,副読本のみの研究では,現場の実態を完全には反映しておらず,一種の推測が研究結果に交じってしまったのが反省点といえる。今後はやはり実際の現場でどのような指導が行われているか,また,どのような指導が本当に児童の心に残る指導と言えるのかを私自身が教育の現場に飛び込み試行錯誤していく必要があると感じた。
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樋上龍矢 | 埼玉県における大規模小売店舗の立地展開-大手総合スーパーの店舗網の変遷に着目して- |
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Ⅰ はじめに
かつてナショナルチェーンと呼ばれ,日本の小売業界を牽引したスーパーが岐路に立たされている。大型小売店舗(大型店)を全国に展開する大手スーパーは1970年代から著しい成長を遂げている。こうした中,地理学においても大型店の立地に関する研究が蓄積されてきた。香川(1984)は大都市圏と地方の資本競合を中心に大型店の展開を考察した。
行政の規制の変化とともに商業施設の出店政策は変化してきた。1973年に制定された大規模小売店舗法(大店法)は大型店の展開に大きな制約を与えることになった。安倉(1999,2004)は大店法の1980年代の運用強化と1990年代の緩和が量販チェーンの出店行動に与えた影響についてそれぞれ中京圏と京都の事例を取り上げている。大型店規制のあり方が見直され,中心市街地活性化法,都市計画法改正,大規模小売店舗立地法(大店立地法)からなるまちづくり3法が2000年に成立したが,以降も中心市街地の空洞化に歯止めがかからない状況が続いている(荒木2007)。2000年代には,百貨店のそごう,スーパーの長崎屋,マイカル,ダイエーが破綻し,中心市街地でも大型店閉鎖が相次いだが,その跡地利用も注目されている(中条2007)。
県域レベルでの大型店の立地動向をみた研究として,茨城県を対象とした兼子・駒木(2005)はホームセンターを中心に業態別の大型店の立地特性を明らかにした。
2008年10月には日本最大級のショッピングセンターが埼玉県越谷市に開設された。社団法人ショッピングセンター協会の全国都道府県別SC一覧によると,埼玉県はショッピングセンター数こそ全国9位であるが,平均面積では全国1位となっている。そこで,本研究は埼玉県における大型店の立地特性,とくにかつてナショナルチェーンと呼ばれたスーパーの店舗展開の変化,そして郊外型ショッピングセンター増加に至る過程を明らかすることを目的とする。
Ⅱ 埼玉県における小売業の概要
2007年の小売業年間販売額では,さいたま市が最大であり,以下川口,川越,所沢,越谷と続く。人口増減率と比較すると川越,所沢,川口市,草加,桶川などで人口は増加しているのにもかかわらず小売業年間販売額が低下している。日高,久喜,鳩山,狭山,蓮田などでは人口減少にもかかわらず小売業年間販売額の増加がみられる。大型店の立地が明暗を分けたことが予想される。埼玉県大規模小売店舗名簿に掲載されている売場面積1000m2以上の大型店は2010年4月1日現在1018店立地しており,平均売場面積は4950.8 m2である。さいたま167,川口74,川越46,所沢43,越谷41と続く。近年の開店数を見ると,2000年から2001年にかけては,大店法の廃止とまちづくり3法施行に伴った駆け込み需要の反動によるものと思われる大きな落ち込みがみられる。2003年頃から再び活発になったが,近年は微減傾向となっている。スーパー名鑑をもとにした,バッファ1km内の生鮮食品を扱うスーパー数を見ると,川口,志木・朝霞台付近で11店となっている。これらの地域は業界紙などで頻繁に取り上げられ,地理学においても消費者買物行動を取り上げた川口・根本・波田野(1998)では志木駅周辺を調査対象地域としている。
Ⅲ 埼玉県におけるダイエーの立地展開
ダイエーは2011年1月現在,埼玉県には12店のスーパーマーケットを展開している。絶頂期とされる1994年には28店を展開していたので,現在は実に半数以下に減少した。首都圏で小型スーパーを展開していた一徳スーパーを買収して,ダイエーが関東進出を果たしたのは1964年3月である。同月,浦和店もダイエーの店舗となっている。大店法による厳しい規制の下,なかなか店舗網を増やせなかったダイエーが飛躍的に店舗網を増やしたのは1994年3月の4社合併であった。それまで首都圏の中堅チェーンとして埼玉県内においても17店舗を展開していた忠実屋の店舗がダイエーに衣替えすることとなった。しかし,1995年の阪神大震災による特別損失を受け,県内では北与野店を閉店した。また,1998年2月期決算では初めて経常赤字となる見込みとなり,2000年までに県内7店が閉店した。2002年1月に3か年の新経営計画が発表され,2003年までに県内7店が閉店した。2004年には取引銀行からの最後通告を受け,産業再生機構入りすることとなり,2005年には県内で2店が閉店となった。既存店舗の活性化が課題となり,2007年にリニューアルした大宮店は,直営売場を7フロアから2フロアと縮小しテナントを入居させた。県内随一の集客力を誇る大宮において,従来のGMS(総合スーパー)から複合商業施設に転換したことは,埼玉県におけるダイエーの再生の象徴ともいえるだろう。2008年には埼玉県において13年ぶりの新店舗となるグルメシティ浦和道場店が開店した。
一旦出店計画が明るみに出たものの,地元との調整の難航,経済環境の変化,そして自社の経営危機などにより結局出店されなかった例がいくつか存在する。埼玉県内でも1990年代の大店法緩和期に,売場面積10000 m2を超える規模の大型店舗の出店計画が多数あったにもかかわらず,地元との調整の難航や1995年の阪神大震災以降の経営状態の悪化により,蕨店を除き実現しなかった。首都圏の埼玉県でこれほどまでに出店を断念しているのは意外な事実である。それだけダイエー自身が追い込まれた状況であったのかもしれない。
Ⅳ 埼玉県における総合スーパー各社の立地展開
Ⅲと同様に,他6社についても埼玉県における店舗網の変化について取り上げた。閉店後の跡地利用について,全体を通して明らかになったことを整理しておきたい。1970~80年代には,初期に出店した量販店の小型店舗を系列のコンビニエンスストアに転換した例がダイエー,西友でみられた。中心市街地や団地など,需要はあるものの売場面積が狭く,スーパーとしては競争力が低下した店舗をうまく活用した例といえる。1980年代中頃からは中心市街地で閉店する例がいくつかみられた。オーバーストアや郊外化の進展により,跡地には娯楽施設など,スーパー以外に転用された例が多い。1998年以降はダイエーが業績悪化のため大量閉店を繰り返した。しかし,なりふり構わない撤退を繰り返すと,他社の低コストでの居抜き出店が可能となり,敵に塩を送ることとなる。近年は,総合スーパー(GMS)の不振を背景に閉店を進める一方,他社に立地のよい店舗を明け渡すことを避ける傾向にあり,グループ内での食品スーパーへの転換や,ディスカウント業態へ転換し,再生を図る傾向が顕著となっている。
Ⅴ おわりに
本研究は,埼玉県における大規模小売店舗の立地特性,特にかつてナショナルチェーンと呼ばれたスーパーの店舗展開に着目しながら,駅前大型店全盛期の時代から郊外型ショッピングセンター増加に至るまでの状況を示した。近年は,かつての経営危機に陥った企業がやむなく大量閉店したときとは異なり,従来からの駅前大型店をできるだけ手放さずに,業態転換やグループ内での店舗用地の有効活用を図っている実態が明らかになった。建替えのため2011年1月に閉店のダイエー草加店の例をみるまでもなく,1970年~80年頃に出店した店舗の老朽化が今後ますます問題になると思われる。郊外型ショッピングセンターが今後も増加することは疑いないが,必ずしも駅前大型店の閉店に直結するものではないだろう。今後も駅前大型店の動向を注意深く見守る必要がある。
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俣野文孝 | 埼玉県における乗合バス事業の変遷過程と現在の課題 |
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Ⅰ はじめに
バス交通は鉄道駅から離れた鉄道空白地帯において最も地域に密着した交通機関であり,バス事業,およびバス路線網の変遷に着目すること,とりわけ埼玉県ならではの特徴をとらえることは,地域交通の実態を把握するうえでも意義がある。さらに2002年の乗合バスに規制緩和以降浮き彫りとなった問題点を整理することは,今後の行政の政策にも示唆を与えるものとなるであろう。
これまで,大島(1983,2003)らが隣県群馬県全体のバス路線網の変遷を考察し,地域社会との関連を取り上げる事例研究を行っている。一方,寺田(2005)や井上(2003)などは公共交通機関に対する自治体の対応や廃止代替バス,コミュニティバスに焦点を当てた研究を行っている。
バス路線網の変遷は単なる路線の延長・縮小の歴史のみならず,事業者の統廃合や免許争奪や路線の需給調整などを中心とする事業者相互間の関係,鉄道路線開業などとの関連性,住民意識の変化や行政の対応の差異などに大きく関係している。したがって,多様な側面から複合的に検討することが,必要であると考える。
本論では,埼玉県のバス路線の変遷に着目し,バス事業者における競合事業者との路線調整の経緯と実態を明らかにし,現在における埼玉県の路線バスネットワークの構築課程を記述する。さらに2002年の乗合バス事業の規制緩和後の埼玉県内の動向や対応を新規参入事業者,既存事業者別に調査し,現在の埼玉県が抱える乗合バス事業の課題,問題点を明らかにする。
Ⅱ 埼玉県のバス路線の変遷
バス交通の一般的特徴として,他の公共交通機関と比較した場合,線路や駅を建設する鉄道,空港を建設する航空に比べて設備投資が小さいという長所と渋滞に弱く,運行の遅延が生じやすい,大量輸送が困難という短所を合わせ持つ。また,バス1台の乗車定員が他の交通機関に比べて少ないために,しばしばバス産業は経済学的には「労働集約型産業」とされる。
バス事業は「道路運送法」に細かく規定され,大きく分けて乗合バス(路線バス),貸切バス(観光バス),特定輸送(送迎バス)の3つに分けられる。 その他特殊な区分にいわゆる「80条バス」「21条バス」がある。乗合バス事業の認可を受けるためには,管轄の運輸支局(旧称陸運局)へ届け出,認可を受けなければならない。
埼玉県内のバス路線網を持つ大手事業者である国際興業,西武バス,東武バスはいずれも戦前,戦後にかけて中小零細事業者を吸収,合併を繰り返して現在の事業規模を確立していく。また戦時体制が色濃くなった1938年8月に施行された陸上交通事業調整法により,現在の埼玉県を含む郊外のバスは4グループへの整理統合が進められ,これにより,現在の埼玉県内の大手事業者である西武バス,東武バスの2事業者は路線網の拡大と基盤を盤石なものにしていった。一方埼玉県内においても現在のおおむね国道16号の内側地域は調整区域とされ,その地域は戦前に完全に事業者の整理ができず,その地域内で戦後乗合バス事業を拡大していったのが国際興業となる。また,2002年に改正される前の道路運送法によれば一路線一事業者の基本原則のもと,事業への参入は路線ごとの免許制となっており,これにより無秩序に様々な事業者が路線を乱立させるという事態は制度上起こりえなくなっていた。
ところで,1960年代後半からモータリゼーションの進展と地下鉄などの新規鉄道路線の開業などにより,乗客は最盛期に比べて減少した。そのため各事業者は中距離路線の廃止を行い,埼玉県内でかつて調整区域とされたエリアで,乱立する路線において,1970年代前半に相次いで事業者間で路線調整が行われた。
Ⅲ 乗合バス事業の規制緩和後の動向,対応
2002年2月1日改正道路運送法施行され,乗合バス事業は大幅に規制緩和なされた。需給調整規制は廃止され,新規参入が免許制より 許可制になり新規参入が容易になり,運賃は上限認可制になり運賃競争が可能になり,路線からの退出は許可制から届出制へ移行し,不採算路線からの撤退が容易になった。その結果既存の乗合バス事業者の競合激化し,貸切りバス,タクシー事業者,運送事業者の乗合バス進出があり,乗合バスの活性化,サービス向上といったプラス点がある半面,乗合バス衰退の加速,赤字路線廃止といったマイナス面も浮き彫りになった。
この規制緩和を前に大手3事業者はそれぞれの違う形で対策を行った。国際興業は得意のイベント時の「波動輸送」の強みをいかし「一元運営維持」を保った。西武バスは過疎地域になる秩父地域などを分社化したうえ,子会社との管理受委託を段階的に増やし,ローコスト化する「分社化・管理受委託推進」をはかった。東武バスは埼玉県北部と北関東3県の全路線をグループ子会社へ路線移管を行い,残った路線も地域ごとに4つの運営会社に分社,「他社移管推進・完全分社化」を行い,スリムな運営体質を目指した。
ところで規制緩和で,新規参入が自由になったとはいえ,現実に投資をしても,効果がすぐに表れるほど乗合バス事業に"うまみ"がなく,実際に新規参入となったケースは全国的にそれほど多くない。しかしながら,その中でも埼玉県は新規参入事例が多い県として特徴的である。新規参入事業者は貸切バス事業の事業者が多く,結局バス運行にまったく携わっていない事業者の参入は限られたケースでしかない。埼玉県における新規事業者の参入地域は基本的には大手3事業者の空白地帯,もしくはそれら大手事業者からの路線移管や廃止代替バス,もしくは市町村コミュニティバスでの進出が目立つ。
かつての「地方バス路線維持費補助制度」において一定数以上の都市の市街地内は,補助対象外であったために市街地やその周辺に公共交通空白地帯がたくさんできでていた。その既存の事業ベースの乗合バスではカバーしきれない交通不便(空白)地域の住民のモビリティを確保するため,コミュニテイバスが運行されている自治体も少なくない。市町村が企画・計画を行い,運行を乗合バス事業者,もしくは乗合バス兼業事業者または貸切バス事業者に委託するというスタイルが一般的である。
乗合バス事業への各種補助については規制緩和以降,生活路線の維持方策については,地域自治体の責任において,「地域協議会」を通して検討することとなり,地域の責任に委ねられることになった。生活路線維持の補助制度に「地方バス路線維持費補助制度」があるが,事業者に対する補助から,路線そのものの維持に対する補助へ,廃止代替バス補助の地方交付税化により市町村が自力で対応しなければならない生活路線は増える傾向にある。埼玉県においても国庫補助対象外の生活路線維持に対して補助を設定したり,市町村に対する支援措置を行っている。
Ⅳ まとめ
乗合バス事業が抱える課題は埼玉県においては秩父地域に代表される中山間地域は過疎化の進展のため,さらなる人口減少により,運営困難な路線は急増していく。利用者が減少,バス減便,利用者減少という悪循環に陥る構図がある。また現在利用者が順調な都市部のバス路線も必ず,利用者が減少する時が来る。かつて需給調整によって「内部補助」と呼ばれた採算路線の黒字分で末端の不採算路線の赤字を補填するという仕組みは,制度的にも実質的のも崩壊した今,このままでは都市部のごく一部の採算路線のみ維持されないことになりかねない。
今後も乗合バス事業を地域住民の交通手段として維持していくためには,民間資本だけでは維持の限界が間違いなく生じ,公的資金の利用は間違いなく必要であろう。行政のリーダーシップのもと,中山間地域や都市部の交通空白地帯へ向けた公的資金の適材適所の投入が求められる。今後は法や自治体の動向と合わせて,地域住民の意識と共に検討を重ねる必要があるだろう。
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松本啓志 | 高崎市の形成とその発展 |
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Ⅰ はじめに
高崎市は平成の大合併の波に乗り,合併を繰り返し群馬県一の人口を誇る都市となり,中核都市にも名を連ねることになった。今も尚発展を続けている高崎市の「歴史」を紐解き,それを「地理」的な視点から見ていくことで,高崎市の形成から時代の流れによる変化,そしてこれからの発展への展望などを検討した。
先行研究は,高崎城下町の江戸時代の考察は存在するが,明治以降にまたがっての研究はなされていなかった。また,この研究では地域構成や屋敷割りが現在の高崎市の町割に影響しているのかどうかまでは言及していない。このため,江戸時代以降のものと比べ,その地域構成や屋敷割りが現在の高崎市の町割に影響を与えているかどうかについて考察していった。そして,市町村合併し中核都市になった高崎市のこれからの展望も「第5次都市振興計画」から探った。
Ⅱ 高崎市の成り立ち
江戸時代に箕輪の地から井伊氏が高崎の地に移転したことから,元々和田という地名であった高崎の地に新たに城下町が築かれるようになった。その後は,19代にわたり様々な藩主が高崎を治めた。六斎市が三カ所で開かれていたことからも,高崎城下町が他の地域との交流が盛んだったと推測でき,中山道が交流の主軸にあった。明治時代から第二次世界大戦までは県庁所在地が高崎と前橋を行き来した時代であり,結局のところ不徹底な口約束により前橋に県庁所在地が落ち着くことになった。また,明治時代には鉄道が通ったことも発展の一歩であった。戦後は周辺市町村と合併・編入を繰り返すことにより,現在の高崎へと発展していった。また,第二次世界大戦後の高崎市は交通網の発達が著しく鉄道網と合わせ,江戸時代に中山道交通が通っていた点からも道路網も拡充され,交通の要所となっていった。特に,高速道路や新幹線の開通が高崎の発展を支えていったのだと考えられる。
高崎は東海道の裏街道として整えられた中山道の宿場町であった。他にも,越後につながる三国街道,信濃につながる信州街道,足利につながる例弊使街道など複数の街道が交差し分岐する交通の要所であった。このことから,高崎には多くの商人が集まり,商人地として商業が発達したと考えられる。
近年では,平成の大合併により,高崎は急激に市の面積・人口ともに伸びることになった。この合併の背景として,国家主導の合併への支援・推進があったためだと考えられる。その証拠としては,新町・群馬町・箕郷町・倉渕村の合併が,国の合併支援の特例廃止の期限ギリギリに手続きされていることからも読み取ることができる。やはり,この政府主導の合併推進・支援に乗じ,メリットが多いと判断し合併したのだと考えられるのが妥当であろう。この流れにより6つの市町村との合併を果たし,中核都市への権利を得たのである。現在は,ゆったりとした人口増加が続いており,第5次総合計画により政策が進められている。
Ⅲ 高崎城と城下町高崎
日本では飛鳥時代から山城が主流であった。山城とは高地に建てられた城のことであり,高地は軍事的防御に有利であることから山に城郭を築いていた。しかし,戦の常態化や戦国大名の支配の確立・火縄銃の導入・城の大規模化により城の形態が平城へとシフトしていった。確かに,年代的に見ると山城の平均築城年は1492年で,平城の平均築城年は1536年で,平城が作られている時期の方が遅いことがわかった。しかし,山城の中にも築城年はばらばらであり,平城の中にも古くから建てられているものもある。このように見ると,一概に山城が古く,平城が新しい城であるということは言えないことがわかった。
次に,城の立地と現在の各市町村の中心部の位置が一致しているかどうか考えた。各市町村の中心部は全部で33カ所であり,その中の12カ所が城の立地(城下町)と合致する結果となった。また,山城と平城双方で一致している点から,山城だからと言って城下町が栄えなかったというわけではないと考えられる。そして,これは現在の中心部の3分の1は城(城下町)が発展し続けたということであり,城が立地した場所は現在でも栄えているということになる。やはり,城下町には集積の利益により人も集まってき,そこを中心に現代まで発展してきたと見て取ることができた。
Ⅳ 高崎の移り変わり
(1)江戸から明治への移り変わり
まず,新紺屋町を事例に考察した。新紺屋町では紺屋町と今でも呼ばれているが,明治時代にはすでに染物業は1店舗を残し消えてしまっていた。しかし,新紺屋町の町割は変わることなく,道などもほとんど変化せず,明治時代まで残っていることがわかった。また,屋敷割りもほぼ変わることなく,南北に走る道に向かって軒を構えていることが読み取れた。このことから,江戸時代から明治時代になるまでに業種は変わってしまったが,町割や屋敷割りはほとんど変わることなく受け継がれているということがわかった。
次に,鞘町を事例に考察した。鞘町では資料が二つあったが片方は火災があり焼失してしまったため町並があまり載せられていなかった。しかし,二つの資料に登場する人物がいたため,二つの資料はあまり年が経たず作られたものだと考えることができた。このことから火災はあったが,明治時代後期には鞘町の町並みは復興したと考えられる。そして,この頃に他の町では多く見られる飲食店や服屋が鞘町ではあまり見られないことから,江戸時代からの特色ある職人町としての面影を残し復興を遂げたと推測できる。また,屋敷割りも江戸時代から明治時代にかけてはほぼ変わることなく受け継がれていた。
(2)武家屋敷の移り変わり
最初に,高松町を事例に挙げ考察した。高松町は,江戸時代は天守閣がある城内であり,その周辺部には城(天守閣)を覆うように二の丸から三の丸にかけて武家屋敷が建ち並んでいた。明治時代になると天守閣を含み城と武家屋敷は壊されてしまい歩兵第15連隊という陸軍の敷地となってしまった。しかし,戦後に解体されると相次いで官庁や公社・学校が建ち並び一大官庁街となっていった。そして,平成の時代になると市役所の移転に伴い道の整備も行われ,現在の町並みになったのだと考えられる。
次に,柳川町を事例に挙げ考察した。江戸時代の柳川町は高崎城の三の丸の北側堀外にあった町であり,武家屋敷と空き地が混在していた。明治時代になると,北西部の一画を除き大きな屋敷割りがなされ,業種としては医師が多く見られ,私立病院なども存在していた。また,北西部は飲食店街(歓楽街)と変貌し,二つの顔をもつ町となった。この原因として,北西部以外は藩士や代官が土地を持っていたことから大きな屋敷が多いと考えられ,北西部は軍部に近いことからそのニーズに合わせた発展の仕方をしたと考えられる。
Ⅴ 現在の高崎市と今後の展望-第5次総合計画から
高崎市は総合計画という名でまちづくりの目標(理念・姿)や基本戦略などが示されている。現在は第5次総合計画により政策が進められており,これは合併を繰り返した結果,第4次総合計画が満期になる前に踏襲され計画されたものであると推測できる。政策の中では,高崎市を6つの地域に分け,それぞれの特色を活かした政策を行っており,合併した地域の特色を残し活かしつつ政策を進めていることがわかった。
Ⅵ おわりに
高崎市の基礎は江戸時代に築かれ,その面影が現在もいたるところに残されていることがわかった。井伊直政を筆頭に江戸時代の藩主が計画的に築いた城下町の機能は今も廃れることなく,高崎の地に根付いているのである。その証拠が,現在でも残る町名や町割,屋敷割りなのである。これらを考察することで,城下町高崎の特色を見出すことができ,これからの高崎市のあるべき姿を考える良いきっかけとなっただろう。
今後の課題としては,本稿では昭和時代の考察が薄く戦前と戦後の比較ができなかったので,戦争によって町並が変化したかどうか調べることである。また,江戸時代から明治時代への移り変わりで,全ての町を比べることができなかったので,それぞれの町の変化を調べていくことも課題である。しかしながら,この研究を通し高崎市についての知識が一層増えたので,これからの発展をこの研究を活かしながら見守っていきたい。
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2009年度卒業論文 |
上野宏朗 | 首都空港としての成田国際空港の今後のあり方 |
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大橋夕姫 | 群馬県の明治後期における町なかの商業機能立地 |
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Ⅰ 研究の目的と方法
本研究は明治期の町並みを表した『群馬県営業便覧』を資料として,明治期の群馬県における町なかの商業機能の立地を検討する事が目的である。『群馬県営業便覧』に記載されている業種を分類ごとに集計し,市町間で比較するという方法を用いる。『群馬県営業便覧』を使用した先行研究には,文明開化業種の地域別立地数を6業種において論述した井上(1980)や,各市町村史がある。また,『埼玉県営業便覧』を使用した研究として,坂戸市と越生町の商業地域の形成過程を研究した田村(1980)や,『埼玉県営業便覧』の資料的特性と明治期における中心地機能の分布を研究した谷・飯田(2006)がある。
Ⅱ 対象地域について
前橋市,高崎市,大胡町,倉賀野町,渋川町,伊香保町,金古町,総社町,藤岡町,新町,鬼石町,吉井町,富岡町,一宮町,妙義町,福島町,下仁田町,安中町,松井田町,原市町,臼井町,坂本町,板鼻町,中之条町,長野原町,原町,草津町,沼田町,伊勢崎町,境町,玉村町,太田町,尾島町,木崎町,薮塚本町,桐生町,大間々町,館林町,小泉町の2市37町で構成されている。群馬県は南西部を関東山地,北部を足尾山地や三国山地に囲まれ,平野は利根川と渡良瀬川に挟まれる南東部に広がっている。そのため収録されている2市37町の計39地域は県南部や西部の河川の流域に位置しているものが多い。
Ⅲ 人口と機能数
営業便覧が書かれた当時,明治36年(1903)最も人口が多かったのが前橋市の40488人であり,それに高崎市33537人,桐生町30022人と続いている。前橋市が高崎市と桐生町より1万人程度多く,また高崎市と桐生町は4位以下の町と3万人程度の差をつけている。1,2番目に人口の多い前橋市と高崎市はともに城下町であった歴史を持ち,高崎市は中山道の宿駅でもあった。3番目に人口の多い桐生町は比較的規模の大きな在郷町であった。機能数は前橋市が2232,高崎市が1750,桐生町が1413,と機能数の4位以下の町と大きな差がある。これらの人口数と機能数は相関関係にあったが,人口数が同程度でも機能数に大きな違いが見られる町がある。例えば,原市町の人口数は5173人で機能数は144であるのに対し,同程度の人口数を示す沼田町では人口数は5172人だが機能数は526である。そこで1機能あたりどれだけの人口を抱えているか人口を機能数で除して機能数比を算出した。機能数比は8.9から212.8までと差が大きい。機能数比212.8と突出している妙義町は市街地が小さく収録されている人口数に対して機能数が少ないためであると考えられる。また妙義山の麓には果樹園が広がっており,農業人口の多さも一因であると思われる。この機能数比が大きいほど人口に対しての機能が少なく,凡そ町の規模が小さいことを示している。しかし町の規模については人口密度や町の面積も併せて考慮せねばならないため,ここでは一概に町の大きさを示すとは言えない。
Ⅳ 群馬県内で見る,大分類の業種割合
大分類での業種の割合だが,明治期の群馬県における町なかの機能は小売業が60%前後と多く,次にサービス業が多かった。そして製造業や職人といった業種は,町なかにおいてはあまり重視されていなかった。例外的にサービス業や小売が多い地域では,歴史的な要因や鉄道や温泉などの施設などに関係があった。製造業が高い地域では,織物業など伝統的な業種が見られた。
Ⅴ 各市町における特化業種
各市町において,特化業種の上位にあるものは荒物や菓子,米,理髪,医者,飲食料理,旅館などが共通して見られる。荒物や菓子,米穀,医者,足袋などは日常生活に不可欠な点が理由として挙げられる。一方で日常生活に不可欠ではない旅館や飲食料理は,当時の物流の状況や町の歴史に要因があると考える。この時代は全ての町に鉄道駅が存在せず,物資を運ぶのに相当の時間が必要であった。特に営業便覧に掲載されている町は,街道沿いの物資集散地若しくは城下町として栄え,歴史的に物の取引が盛んであった。ゆえに遠方からの商人や荷物の積み替えのためなどに,旅館や飲食料理店が多かった。
Ⅵ 群馬県の伝統工業である製糸業と織物業の市街地における立地
群馬県では製糸業と織物業が盛んであったが,織物業においては桐生町で製造業やそれをとりまとめる機元の機能が町なかに多かった。製糸業の機能は,前橋市において多く見られた。群馬県の市街地では製糸業において原料となる糸繭の小売や糸の小売が多く,また製造の多くは農家で行われていたという記述から,製造面よりも流通面などで支える役割が大きかったと考えられる。織物業では,群馬県内において県外や外国への輸出が多く,小売が少なかった。織物業は市街地で製造や,機元が多かったことから,製品を作る工程をまとめる機能が多かったと考えることができる。製糸業と織物業は地域的に分化が見られたが,糸繭小売業は県内各地に分散していた。
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大類太郎 | 明治40年における栃木県内の商業機能の分布 -栃木県営業便覧をもちいて- |
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Ⅰ はじめに
1.営業便覧について
本研究では,『栃木県営業便覧』を用いて,明治末期における栃木県の各町村等の商業機能数を調査し,各機能を業種ごとに分類する作業を行う。その上で,営業便覧が発行された明治40年当時における栃木県の商業機能の分布について,機能数,業種数などのデータをもとに明らかにする。
業種数のデータを得るために利用する『栃木県営業便覧』は,明治40年に編集,発行された文献である。今回の調査では,1978年に吉本書店から出版された復刻版を用いた。文献の内容としては,はしがき,町ごとの地誌,町ごとの道路に沿った店舗業種と商店主名及び店名の町並み図からなっていて,現代におけるタウンページの地図バージョンのようなものである。
2.営業便覧を用いた先行研究について
『栃木県営業便覧』を利用した研究としては,明治40年の栃木県における文明開化業種の展開についてまとめた井上(1983)がある。また,他県の営業便覧について用いた研究では『埼玉県営業便覧』を用いた研究として,『埼玉県営業便覧』の資料的特性と明治期の埼玉県における中心地機能の分布を調査した谷・飯田(2006)などがある。
Ⅱ 対象地域の概要と業種分類
1.対象地域の概要
明治40年の栃木県は,宇都宮市と河内郡,上都賀郡,芳賀郡,下都賀郡,塩谷郡,那須郡,安蘇郡,足利郡から成り立っていた。交通機関としては,鉄道で南北へ走る東北本線,宇都宮市と日光を結ぶ日光線,県南部では,東西を走り抜ける両毛線・水戸線があった。その他にも,特産物を運搬するための鉄道として,葛生町の石灰を運搬する葛生から佐野を結ぶ佐野鉄道会社。そして,宇都宮では大谷石の運搬を主体に置いた宇都宮石材軌道株式会社。水運は,明治中期ごろから前述のように鉄道の登場とともに衰退していくところが多かったものの,佐野町の越名河岸では鉄道とタイアップし,葛生町の特産物である石灰の運搬に貢献したという例もある。
2.業種分類の方法
業種分類の方法としては,まず大分類として,小売業,サービス業,職人・土木建築業,卸売・買継・仲買業,製造業の5種類に分類する。次に,中分類として,先ほど分けた大分類の中でさらに分類を行った。そして最後に,小分類として具体的な業種ごとに分類していった。
また,営業便覧上では,「米穀材木商」という記載に見られるように,一つの店舗において複数の機能を有している店舗が少なからず見受けられることがあった。このような場合においては,一つの商店において複数の機能を有するものとして,それぞれの小分類ごとに分けてカウントした。このような商店では別々の機能として集計し,得られた値は商店数ではなく機能数となる。
Ⅲ 機能分布について
1.各地域の機能分布
『栃木県営業便覧』から調べた栃木県内の各町,各地域の業種数,機能数などのデータをもとにして当時の各町,各地域の商業の特徴についてまとめた。
明治40年当時の時点でも県庁所在地であり,県内最大の人口を抱えていた宇都宮市が最大の機能数を有していた。しかし,県内2位の足利町とさほど差は無い状況となっている。足利町は,織物の生産がとても盛んな町であり,そのことにより宇都宮市に次ぐ規模になったといっても過言ではない。当時の栃木県で宇都宮市の人口が占める割合はせいぜい約5%であるのに対し,平成22年12月1日現在の栃木県においては宇都宮市の人口が4分の1を占めることから,当時は宇都宮市の一極集中ではなかったことが分かる。一方,宇都宮市や各郡の中心となる町とその他の町で機能数の差は大きくなっている。どの町についても,小売業が最も多くなっていて,卸売業については立地していない町もあった。ただし,温泉地については,例外でありサービス業が圧倒的に多くなっていた。また,調べていく中で特徴的な栃木県の特産物である湯葉や干瓢といったものを扱うと書かれている店舗がしばしば見受けられた。
2.江戸期から明治40年ごろまでの宇都宮市の商業
宇都宮は江戸時代から宇都宮城の城下町であった。城下町は消費都市であり,ほとんどが商人と職人で占められていた。そして,日光東照宮の参拝の通り道であり,奥州と江戸の中継地ということで,参勤交代などにより,交通が頻繁であった。そのため,城下町としてだけでなく,宿場町や市場町の機能を果たしていた。しかし,戊辰戦争で商店街は破壊され,参勤交代や徳川家の日光社参は無くなり,変化が現れた。そして,明治18年の鉄道開通により宿場機能に由来する中小商業機構は崩壊へ進み,明治29年の市制施行当時にもなると日清戦争後の好況を反映して,企業が創設されるようになった。『栃木県営業便覧』が発行されたのは,ちょうど日露戦争の好景気の時期であり,さらに企業が増えつつあった時期ということになっている。
3.足利町の織物業
明治40年というのは,ちょうど足利の織物が再び盛んになっていくところの時代であった。栃木県史に掲載されている足利の織物生産の点数,売上総額に関する統計を参照してみても,明治40年の値は点数,売上総額ともに,5年前である明治35年の値に比べ,上昇していっていることが分かるし,その後についても大正時代に入ってなお成長を続けていることが分かった。
Ⅳ おわりに
約100年前の明治末期という時期についても宇都宮市が栃木県の中心となっていた。ただし,人口数,商業機能数ともに現在に比べると集積の度合いは小さかったようであり,機能数2位の足利町との差も小さい。一方で,県南部の足利町や足尾銅山で有名な足尾町の発展ということが当時の歴史的背景の特徴であり,現在の栃木県との違いであったように思う。足利町は,織物という特産品,足尾町は,銅山で働く労働者の存在から栄えていた。
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北川 拓 | 敦賀港の港湾機能の現状と今後の展望 |
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港湾は陸と海の交通の結節点である。港湾においては,鉄道,自動車,船舶等による貨物の積み替え,検査,通関といった流通に必要な機能が集まっている。近年では,自動車交通,航空交通の利用が多くなってきているが,貨物輸送に関しては依然として利用率が高い。これは,大量に安価で輸送手段として,海上輸送が優れていると考えられているからである。
本研究では,重要港湾に指定されている,福井県の敦賀港に焦点を当てている。敦賀港における内貿・外貿の取扱量や,割合等から敦賀港の特徴を明らかにすることを目的としている。敦賀港は,近畿圏や中京圏からは最も近い日本海側の港である。その地理的な優位性を活かして,今後どのように展開していけるのか,考察していきたい。
敦賀港の定期航路や取扱貨物,港湾施設等から,同港の特徴を明らかにしてきた本研究においては,以下のようにまとめることができる。
1.敦賀港は,国内とりわけ北海道との間で移出入が多い。それは,フェリーやRORO船の定期航路が存在しているからである。太平洋航路より,日本海航路の方が時間的に短くて済むため,敦賀港を介した近畿圏・中京圏と北海道との間に,高い物流需要が存在している。
2.現在敦賀港には,韓国釜山港との間に定期コンテナ航路が,週3便体制で運航しており,敦賀市はもとより,滋賀県などの他府県の企業も敦賀港を利用して取引を行っている。ハブ港であり,北米や東南アジア諸国や,欧州など世界の主要港と定期航路を開設している釜山港との航路をさらに強化し,現在よりもコンテナの取扱量を増加させることが必要である。
3.以前まで,太平洋側の大阪港や神戸港,名古屋港を利用していた県内外の企業が,敦賀港を利用するようになったため,コンテナ取扱量が増え,韓国の興亜海運株式会社が2009年2月からの増便を決定し,週3便体制が実現した。
4.敦賀港で輸入される貨物のうち,92.5%が石炭,2.4%が非金属鉱物,0.5%が原木とコンテナ輸送に適さない貨物が,大多数を占めている。そのため,外貿貨物取扱量に占めるコンテナ貨物の割合が低い。全国平均では19%台であるのに対し,同港は3.6%である。
5.敦賀港から輸出される貨物は,紡績半製品や染料,繊維工業品など,紡績関連の貨物が多いことが特徴である。敦賀市に立地している紡績会社である東洋紡績敦賀事業所をはじめ,県内に多く立地している紡績関連企業が敦賀港を利用し,海外に製品を輸出しているためである。東洋紡績は,2012年度には2007年度の敦賀港利用実績の約10倍にあたる,31,000トンの輸出入の計画を発表している。この他にも,滋賀県の日本電気硝子がメインの港を敦賀港に切り替えたこともあり,敦賀港のコンテナ取扱量は増えてきている。日本海航路の重要性が見直された結果,このようにコンテナ取扱量が増える結果となった。
6.輸出入相手国を見ると,輸入の場合,主要輸入品目との関わりが深い。石炭の世界的な輸出国であるオーストラリアとインドネシアで,約4分の3を占めている。一方,輸出の場合,定期コンテナ航路が唯一ある韓国との取引がほぼ独占状態である。
7.2008年の敦賀港の海上出入貨物を分析してみると,一番多いのは移入であり39.2%を占める。次いで移出が38.1%を占めている。輸入に関しては21.6%であり,輸出は0.9%である。非常に輸出の割合が低く,内貿の割合が高い港である。
8.現在では,運航している韓国航路の他に,以前運航していた中国航路,ロシア航路を開設させようと,敦賀市や福井県が誘致活動を進めている。特に,近年の目覚ましい経済成長を見せている中国との航路は,県内外の企業が望んでいる航路である。
9.2010年秋に,大水深の多目的国際ターミナルが鞠山南地区に完成する予定である。大型コンテナ船も接岸することができ,2015年度には外貿貨物360万トン,内貿貨物1520万トン,合計1880万トンを目標としている。敦賀港が今まで以上に魅力的な港となるであろう。
2009年2月に,釜山港とのコンテナ航路が増便されたわけであるが,それは世界的な景気悪化で輸出入量が減っている中での決定であった。そのことは,日本海航路の重要性が評価されたことであると考えている。北東アジアやロシアと日本を,短距離で結ぶ敦賀港からの日本海航路は,大阪港や神戸港,名古屋港などの太平洋航路と比べ,効率的な物資の輸送が期待できる。
今後,天然の良港や,近畿・中京と近いという地理的な優位性を活かし,中国航路の復活や,ロシア航路や日本海横断航路の新規開設,釜山港や上海港発で日本海経由の北米行きコンテナ船の敦賀港寄港の誘致を進める。またハブ港である韓国釜山港との航路を強化し,北米や東南アジア,欧州向けの貨物の増加が期待される。
既存の韓国航路の強化だけではなく,新規航路の開設も非常に重要である。大型船舶が接岸可能な,日本海側最大級の大水深岸壁を活かし,より多くの外国の港と定期航路を開設し,幅広い国の貨物を扱うことが大切ではないだろうか。アジアのハブ港である釜山港でトランシップを利用し,多くの日数を要するより,輸送日数のかからない敦賀港から諸外国に貨物を運ぶ方が,荷主にとっては喜ばれることであろう。
最後に,現在では,企業の国際的な事業活動や連携がもたらすマクロ経済化に伴って,世界規模で商品が製造,流通している。このような状況にあっては港湾,特に大型コンテナ船や,それを接岸できる港湾が重要になってくる。
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栗田博彰 | かつて性風俗の街であった西川口における西川口駅西口の再生事業について |
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Ⅰ はじめに
1.研究の目的と意義
本論文の対象としている埼玉県川口市のJR西川口駅の西口エリアは,かつては数多くの性風俗店が立ち並ぶ全国的にも有名な風俗街であった。平成18年から埼玉県警による違法性風俗店の一斉摘発が行われた。その結果,街は浄化されたが,同時に街の活気も失われてしまった。そんな中,行政や商工会議所などが住民の要望を受け,西川口駅西口エリアの再生事業をスタートさせ,現在もいくつかの事業が実施され,再生へ向けての活動がなされている。
そうした背景を持つ西川口の再生への道を検討してみたいと思う。
2.関連法律について
・「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律」(略称:風適法,風営法)
・「売春防止法」
Ⅱ 西川口の歴史
1.風俗の街西川口 黎明期~繁栄期
西川口を含む川口市は近代以降,地場産業として発展していた鋳物の街として知られ工業都市として発展していた。JR西川口駅は川口オートレース場の最寄り駅であり,埼京線開業前は戸田競艇場の最寄り駅でもあったことから,当時はその帰りの客を目当てにした風俗店が細々と営業しているに過ぎなかった。平成12年前後から主にピンクサロンなどで広まったNK流と呼ばれる格安の違法サービスがマスコミで取り上げられることが増えるなど評判となり,連休などには全国各地から大勢の客を呼び込んでいた。最盛期には店舗型の違法風俗店は85件,マンションヘルスやインターネットなどを利用した無店舗型も含めると200件以上の違法風俗店が存在していたと言われる。まさに,関東有数の性風俗店の集積地であった。
2.風俗の街西川口 繁栄期~衰退期
前述のような状況を背景とし,地元住民の要望を受けた埼玉県警は,平成18年5月に施行された前述の風営法に基づき,売春防止などで多数の違法性風俗店が摘発された。全盛期200件以上といわれた違法風俗店は,平成20年には店舗型のものは数字上0店とされ,西川口エリアの店舗型の違法風俗店は根絶された。
しかし,街が浄化される一方で,街の活気そのものが失われてしまうという問題が発生し西川口駅西口周辺のビルは空き店舗のシャッターが目立つようになった(第2図参照)。加えて当時,風俗店関連の業者やその客を相手にしていた飲食店の多くも閉店に追い込まれることとなった。
Ⅲ 西川口駅西口の再生事業
1.事業の目的と進め方
平成21年川口商工会議所発行の『平成20年度地方の元気再生事業 西川口・安全で明るい街への再生~性風俗の街からの脱却~ 報告書』※参照→対象地域図参照
2. B級グルメタウンとしての街づくり
○新たな街づくりへの模索
平成19年,川口商工会議所が西川口駅西口の再生に着手する。まず行ったものとして主に次のも
のが挙げられる。
①ビルオーナーの意識調査・実態調査,消費者モニターアンケート調査
②アート作戦→図参照
③西川口再生シンポジウムの開催
これらの活動や住民の声から,西川口をB級グルメの街として再生しようという提案が打ち出される。「うまいぞ!西川口」をキャッチフレーズとしたB級グルメタウンとしての街づくりが進められることになった。平成20年度には国が実施する地方の元気再生事業に支援を受けるべく,国に提案をし,勝ち抜き見事国からの支援を受けられることとなった。
○PR活動・・・川口商工会議所報「むうぶ」,「うまいぞ!西川口」
○埼玉B級ご当地グルメ王決定戦の開催
西川口駅西口がB級グルメタウンとしての再生を目指す中で,B級グルメタウンを標榜するためには,是非とも埼玉B級ご当地グルメ王決定戦の誘致が必要であるとの意見が挙がった。上田清司埼玉県知事(現職)の合意もあり,平成20年11月24日に開催された。→キューポラ定食
当日は予想を上回る大盛況で約3万5000人の来場者がつめる大成功となった。ちなみに平成21年に
は川口市の中で王座を競う「川口B級グルメ大会」が開催され,こちらも3万8000人の来場者が訪れ,大盛況となった。
○チャレンジ店舗事業
空き店舗活用の具体的誘発と,B級グルメ店舗の立地促進を図るために,B級グルメチャレンジ店舗の一般公募・選定を行った。このチャレンジ店舗は店舗改修などの開業資金の援助,家賃補助を受けられるものである。→写真参照
3.大学・NPOと連携した実践的次世代人材育成,まちづくりへの参加・自己表現の場の提供
「うまいぞ!西川口」をキャッチフレーズとしてB級グルメタウンの街づくり推進事業を切り口にしながら,中長期的に,社会的に広がりのあるまちづくりを展開し,将来にわたって市民や地域が地域再生に主体的にとりくむための体制づくりを大学とNPOの協働のもと行うこととなった。
○地域再生を担う「市民力コーディネーター」の人材育成講座の開設
○「コ・ラボ西川口」→写真参照
Ⅳ おわりに
私が研究を進めていく中で,当初,西川口の再生,復興への道のりで最大の障壁はやはりかつて性風俗の街として世間に知れ渡ったことにより人々の間に生成された「西川口は危ない・汚い街」といったマイナスイメージであると思い込んでいた。しかし,その点はこれまでの活動で改善が見られる。また,残っている性風俗とは共存するしかないし,昔の知名度は逆に再生への武器にもなりうるだろう。よって,西川口の再生にとって最も大事なものは地元住民のスピリットである。
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島本大幹 | 関東縁辺部におけるツーリスト行動の空間的特性 -一般ツーリストの周遊行動を対象とした着地データを利用して- |
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Ⅰ はじめに
1.問題の所在
日本のツーリズム研究は,①余暇圏構造の解明と分類,②活動地点(主に観光地),③活動主体のツーリストの行動,の3点から発達を遂げてきたが,③における研究は未だ不十分である。また,地方部では,観光圏整備法に基づき観光庁により「観光圏」が設定されるなど,地方部観光の重要性は未だ低下していない。このような中で,滝波(1994,1996)は,都市部での発地データによりツーリスト行動の分析を行っている。また,小島(2008)は,「観光行動に関する研究が,調査の困難さゆえに不十分である(Pearce,2001)」という指摘に基づき,熊本市での旅行者着地データにより,都市観光におけるツーリズム空間とツーリスト行動の規定要因を明らかにしている。
これらを踏まえて,本研究では,東京都心から半径50-150km(関東縁辺部)を対象地域とした,都市観光に対する地方部観光におけるツーリズム空間の特性を捉え,その広がりの規定要因を明らかにする(Ⅱ,Ⅲ)。同時に,ツーリストの立寄地(通過ノード)の機能変化に焦点をあて,ツーリストの動向を明らかにする(Ⅳ)。
2.調査概要と調査対象
本研究では,ツーリストの行動にともなう軌跡(ツーリズム空間)を「往路行動(空間)」,「周遊行動(空間)」,「復路行動(空間)」の3つに分類し,うち周遊行動(空間)を対象として扱う。使用する着地データは,対象地域に沿うよう,地点間距離・集客力・利用交通の3観点から選択した計6地点(野島崎灯台:南房総市,道の駅開国下田みなと:下田市,箱根関所:箱根町,道の駅ちちぶ:秩父市,鬼押出し園:嬬恋村,日光華厳滝:日光市)における,一般ツーリストに対するアンケート調査(:調査員同伴の街頭調査法,2009年8-9月土休日,2日×6地点,n=615,属性や日程中心の10項目回答)により収集したものである。なお,同一調査地点においても,調査時期により周遊行動空間が変化する問題が考えられるため,旅行日数と出発地により,対象とする「余暇圏(高橋・高林,1978)」の明確化を図った。これに従うと,本研究では「日帰り」「一泊」「連泊の一部(2泊)」の『余暇圏』とされる,関東縁辺部を経由地とする周遊行動(とそれに伴う空間)を分析対象にしているといえる。
Ⅱ 2スケールからみた周遊空間の広がり
本章では,関東スケールおよび調査地点を基に区分した6エリア(房総,伊豆,箱根,秩父,軽井沢・吾妻,日光)スケールにおいて,前者では通過ノードの連結関係,後者では通過ノード間のトリップ数,ツーリストの往路・周遊・復路空間での移動経路距離(往路距離・周遊距離・復路距離)・行動未定数」に着目をし,関東辺縁部における周遊空間の特性を捉えていく。
流線図判読の結果,関東スケールでは,名勝地・景勝地や市街地,温泉地を中心とした「核」となるべき通過ノードおよび,隣接して複雑に繋がりを持つ通過ノードによる「域」としての「核」がみられ,「核」から放射状にのびた先に位置する「末端」となる通過ノードも確認された。
エリアスケール毎に周遊空間の特性を捉えると,箱根エリアは明確でコンパクトなツーリスト行動により,伊豆エリアは明確で通過ノード間の移動距離が長いツーリスト行動により,房総エリアは,日程の密度は比較的高いものの,行動が明確なツーリスト行動と曖昧なツーリスト行動の両極により,それぞれ形成された特性を持つ。秩父エリアは,エリア近くを発地とするツーリストによる,秩父盆地内もしくは雁坂峠経由の甲府盆地間を中心とした,比較的少ない通過ノードの経由により形成される特徴をもつ。軽井沢・吾妻エリアは,「核」となる通過ノードが隣接しており,清里,伊香保,長野,新潟方面に末端を広げ,曖昧ながらも広範囲な移動を伴うツーリストにより形成される特徴をもつ。日光エリアは,明確で高密度にツーリストが動くことにより形成された空間であり,那須,宇都宮を中心に末端をもち,エリア内では日光街道に沿いに強い通過ノード間の繋がりがみられる。
Ⅲ 周遊空間の広がり(周遊距離)の規定要因
本章では,Ⅱで触れた周遊空間の広がりを捉える指標として周遊距離を用い,日帰り,1泊,2泊以上の旅行日数別に分類した個々のツーリストの動きに着目をしながら,周遊空間すなわち周遊距離の規定要因を,林知己夫(1918-2002)の数量化理論Ⅰ類による分析を通して明らかにしていく。説明変数(アイテム)には,往路距離,復路距離,通過ノード数,予算(1人1日),年齢,来訪頻度,交通,行先選択理由,行動単位の9アイテムに加え,通過ノードの機能に関する4アイテム(名勝地・景勝地・自然,市街地・町並み,各種施設・公園,寺社・港・海岸・祭事)の計13アイテムを利用する。
分析の結果,旅行日数を問わず,通過ノード数と復路距離の2アイテムが周遊距離の主要な規定要因として挙げられ,通過ノード数が多く,復路距離が短いほど,周遊距離をより小さくする方向に作用が見られた。一方で日数別にみると,日帰りでは往路距離と交通種別が,1泊では交通種別,往路距離および行先選択理由が要因として挙げられた。また,往路距離が増加するほど,行先選択理由が活動内容に志向するほど周遊距離を大きくする方向に作用し,公共交通の利用が周遊距離を小さくする方向に作用することがわかった。2泊以上では予算(1人1日),年齢,来訪頻度,交通種別が要因として挙げられ,予算の増加,年齢層が高齢,来訪頻度が中間的な層で,周遊距離が大きくなる方向に作用することがわかった。立寄り地の機能に関するアイテムは,大部分が周遊距離の規定要因として挙げられないことが確認された。
Ⅳ 通過ノードの機能からみた周遊行動の動向
本章では,Ⅱで触れた周遊空間の構成要素である通過ノードに着目し,ツーリストが各通過ノードで選択する機能の変化を通して,周遊行動の動向を捉えていく。ここでは,機能を選択するツーリスト数とその機能への総移動距離により規定する「機能選択確率」を私用し,分析していく。
分析の結果,日帰り及び1泊では,名勝地・景勝地・自然の機能が旅程の前半から中盤で選択される確率が高く,旅程の中盤で市街地・町並みが選択される特徴を共通にもつ。日帰りでは,旅程の前半で道の駅が顕著に選択され,1泊では,施設が旅程の前半で顕著に選択される。2泊以上では,名勝地・景勝地・自然および市街地・町並みの2機能が,旅程を通して選択される確率が特に高いことが明らかになった。
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高江 豪 | つくばエクスプレスの開業に伴う沿線の変化とこれから |
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Ⅰ 研究の目的
かつては「陸の孤島」とまで呼ばれたつくば。この地に鉄道が敷かれて4年になる。元々市街地化されていたとはいえ,つくばエクスプレス開業によるまちの活性化はかなりの効果があると思われる。新たにこの地に住み始めた人たちの生活が落ち着き,スーパーやショッピングセンターの賑わい,朝や夕方の通勤・通学ラッシュ,駅前地区の整備など,駅を中心とした街並みが完成されつつある。このような,この地で生活する人々以外に,この地へ不定期で訪れる人々も増えている。この研究では,開業から4年という歳月が経ち,比較的開発が進み人々の生活が落ち着きつつある中で,最後の大規模新線開発といわれたたつくばエクスプレスの沿線の開発,それもただ単に新しい鉄道を敷くのではなく,街づくりと一体化となった新線建設の実態を,筑波研究学園都市を中心とする背景も含めて検証し,これからの展望も考えていこうと思う。また,つくばエクスプレスの影響は沿線だけでなく,その周り一体をも巻き込んでいる。つくばエクスプレスの開業を機に,その周辺部,特に競合路線はどのような対応をしたのかも調査していきたい。
Ⅱ 研究対象地域の概要
1.筑波研究学園都市(つくば市)
位置としては東京都心から約60kmであり,おおよそ現在の茨城県つくば市の区域にあたる地域である。1950年代に「科学技術の振興と高等教育の充実」と「東京の過密対策」を目的に首都機能の一部を移転し,1980年に完了した。現在の筑波研究学園都市は人口約20万人で,国と民間とを合わせて役300に及ぶ研究機関・企業と約1万3000人の研究者の集う日本最大の研究開発センターとなっている。
2.つくばエクスプレス
構想は,1960年代後半の通勤時間帯の異常な混雑と都市部の周辺にはベッドタウンが形成されたことに始まる。これらのことから,1978年に茨城県の県南県西地域交通体系調査委員会から,常磐線の混雑緩和,そして周辺の鉄道過疎地域に新たに線路を敷き,沿線の開発と宅地の供給を柱とする,第二常磐線構想が提案された。そして「大都市地域における宅地開発及び鉄道整備の一体的推進に関する特別措置法(宅鉄法・一体化法)」や鉄道整備基金などの枠組みを作り,1991年に首都圏新都市鉄道が設立され,東京圏北東部地域の交通体系の「整備」,JR常磐線等既設鉄道の混雑の「緩和」,首都圏における住宅の「供給」,沿線地域における産業基盤の整備と業務核都市の「形成」の4つの基本目標を軸に,2005年8月24日に,全長58.3kmのつくばエクスプレスが開業した。
3.沿線開発の違い
不動産部門を持っていない為に,鉄道の運営が使命である。宅地やまちの開発は,自治体や民間のデベロッパーが行う。
Ⅲ 現状と考察
1.つくばエクスプレス開通に伴う他社線の動向
JR常磐線では新型車両を導入し上野~土浦間を従来の70分から55分に短縮した。関東鉄道常総線でも,列車の本数を増発や快速列車の設定をした。つくばエクスプレス開業前は,高速バスとしては破格の1日88往復であったが,開業後は1日44往復に減便されている。また,筑波大学への路線延伸,途中停留所の増設,深夜バスの設定,運賃の値下げなどを行った。
2.都内~守谷・取手間と都内~つくば・土浦間の比較
・都内~守谷・取手…運賃ではJR常磐線であるが,所要時間に関しては利用する時間帯に合わせて選んでいく方が良い
・都内~つくば・土浦…つくばエクスプレスが優位
Ⅳ 今後の開発
起点・終点の延伸と8両化による輸送力増強の構想がある。
Ⅴ 終わりに
2年前にはまだ建築中であったが,沿線には住宅地や商業施設が立ち始め,街らしくなってきている場所が多かった。利用者数の増加を見ても,沿線の住民,沿線に移り住んできた住民,そして今まで別の経路を利用していた人々は確実につくばエクスプレスにシフトしていると思われる。それは,高規格路線のつくばエクスプレスの特徴でもある安心・安全の安定輸送と速達性に優れているからである。これが利用者の信頼につながっている。そしてつくばエクスプレスは沿線の活性化にも役立っている。今まではバス主体で鉄道が過疎なエリアや,自動車社会のエリアまで影響を与えている。特に自動車社会のエリア,とりわけ茨城県の駅ではパーク&ライドというつくばエクスプレスらしい21世紀の鉄道利用の仕方を推進している。また,研究学園都市と首都を結ぶことによって,日本の将来に多大な影響を及ぼす可能性だってある。陸の孤島は都心に直結した大都市になる。たくさんの影響を及ぼしているつくばエクスプレスであるが,4つの基本目標に立ち返ってみる。東京圏北東部地域の交通体系の「整備」,JR常磐線等既設鉄道の混雑の「緩和」,首都圏における住宅の「供給」,沿線地域における産業基盤の整備と業務核都市の「形成」とあった。「整備」は,鉄道過疎地域に線路を敷くことができたので達成できた。「緩和」は,ある程度まで常磐線の利用者は減っているので達成できてはいるが,今後つくばエクスプレスの利用状況がよくなればますます,混雑率も下がってくるので,まだまだ努力が必要である。「供給」は入居者がいないと意味がない。住宅は供給されているが,入居者が停滞している地域もあるので,改善の余地がある。「形成」は全ての駅で出来ているわけではない。流山おおたかの森駅や柏の葉キャンパス駅では,できていると思うが,他の駅は努力が必要である。
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2008年度修士論文 |
劉 丹丹 | 日本企業の大連進出と大連経済技術開発区 |
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Ⅰ はじめに
1973年の第一次オイル・ショックの頃から,日本企業の海外,とりわけアジア進出が活発化したが,1985年のプラザ合意後の急激な円高以降,加速的に進行していった。
中国では,1978年から始まった改革開放政策によって,投資環境が整備されるようになり,80年代後半以降,中国進出が日本企業のアジア展開の一つの主要な流れになっていった。そして,日本企業の中国進出や都市の変容を考えていくに当たっては,日本企業の中国進出の最大の拠点である大連市がもっとも重要と思われる。
本研究の目的は,日本企業が大連市に進出した理由を明らかにし,大連経済技術開発区の開発過程と現状を明らかにすることである。
本研究では,まず既存の研究などを参考に,日本企業の海外進出の様子,中国改革開放政策,外資誘致政策などの変化を把握する。その後,統計上にデータを経年的に調べ,日本企業の進出変化をまとめ,大連経済技術開発区の変容を地理的に分析する。
Ⅱ 中国における外資企業の進出基本状況
30年にわたる対外開放政策の結果,大量の外資が中国に流入することになった。中国の経済発展に対し,外資は大きく貢献している。本章では,中国の改革開放を紹介し,中国における外資進出状況,特に日本企業の状況をまとめ,最後に改革開放の成果の大きい五つの都市を比較分析する。
日本企業の対中直接投資推移を見ると,開始段階(1979-83),発展段階(1984-90),急成長段階(1991-95),減少回復段階(1996-2001),安定成長段階(2002-現在)の五つの段階に分けられることが分かる。
また,中国の改革開放状況を都市別に見てみる。大連,瀋陽,青島,上海,シンセンの5都市を比較して分析し,大連は日本の存在感がかなり強いことが分かる。
Ⅲ 大連経済技術開発区と日本企業の進出
大連市は中国沿海の14の港湾都市の一つとして1984年5月に対外開放された。その後,20年間で急速に発展し,全国的に有名になった。本章では,大連の概要,大連の中でもっとも注目すべきの経済技術開発区の建設と日本企業の進出様子を紹介したい。
大連市アジア大陸の東海岸に位置し,中国東北遼東半島の最南端にあり,日本の仙台と同じ緯度になる。日本による統治が40年続いたこともあり,日本人には馴染み深い都市で,在留邦人数も中国の中でも上位になっている。
大連経済技術開発区は大連市街地から27km離れており,とうもろこし畑,りんご畑を切り開いて開発された。当初の開発面積は3k㎡であったが,1989年に17 k㎡を加え,さらに,1993年には24 k㎡へ拡張され,2007年には50 k㎡開発済みで,総人口は50万人の新市区になっている。2007年まで,大連経済技術開発区には46国と地区から2,185社の外資企業が進出し,中でも,日本企業の進出が著しく,東芝,三菱電機,三洋電機,日本電産,キャノン,マブチモーター,三島食品といった企業が進出している。
また,大連経済技術開発区の中には,日中合弁大連工業団地がある。この大連工業団地のような「官民一体」のプロジェクトとしては日中間で初めてである。工業団地は経済技術開発区第2期工区のうち,2.17 k㎡を開発し,分譲するというもので,中小企業を中心に日本企業約90社を誘致しようとする計画であった。工業団地に進出した企業の特徴として,二つ挙げられる。一つは,日本の独資の企業が圧倒的に多い。二つは,輸出型企業が圧倒的に多い。
外資企業に対し,大連市政府は国家規定の外資誘致優遇政策以外にも,改革開放初期から企業所得税,地方所得税などの大連ならではの優遇政策を提供している。
Ⅳ 大連経済技術区の土地利用と人口流入
大連市全体の土地利用が変化している中,大連経済技術開発区の変化は無視できない存在である。大連経済技術開発区は大連市の中心部から北東へ27.5km,大連湾に面した馬橋子地区にある。現在は単なる工業団地ではなく,総面積は220k㎡,開発済みの面積は50k㎡,工業区,商業区,生活区に分かられ,人口30万人からなる都市機能を完備した大連市新市区になっている。開発区は住宅地区,工業地区,金融貿易中心区と商業地区に区分されている。
大連経済技術開発区で多くの外資企業が建設され,非農業経済が急速に発展し,労働力の莫大な需要が生まれた。そのため,開発区の人口流動が大きく,大量の外来人口を集めている。1990年の第四回人口国勢調査と2000年の第五回の人口国勢調査の資料によると,大連経済技術開発区の人口に占める戸籍人口の割合はそれぞれ92.0%と46.2%で,戸籍人口の割合が減少し,外来人口が急速に増加していることが分かる。
流入人口の出身地から見ると,遼寧省が一番多く,全体の65.0%を占めている。
流入理由としては,就業・操業を理由とする者が54.38%に占め,割合は他の理由より遥かに高く,その次は家族滞在,勉学,転勤,他の理由,親族訪問であった。
流入人口の就業先を見ると,主に外資企業へ就業してきた。就業構成から見れば,製造業への就業者数は就業者総数の70%強を占めている。
賃金についても,外資企業の賃金は同じ地区の国営企業の20%~50%高とされる。
雇用形態に関しては,従業員は「職工」と呼ばれる。「職」は事務職員,ホワイトカラー労働者,技術スタッフで,「工」はブルーカラー労働者であり,およそ学歴により選別される。
本章の最後に,大連経済技術開発区の商業の変容を明かにした。大連経済技術開発区は建設以来,第3次産業が重要な位置を占めるようになった。第3次産業の内部構成から見ると,商業が大きい役割を果たしている。開発区の経済発展,人口の増加に伴い,商業施設も市中心から周辺へ拡大し,かなり立派な商業ネットワークが形成されている。
Ⅴ おわりに
本研究では,大連市の外資企業の進出状況を研究し,さらに進出による,大連特に大連開発技術開発区の人口,労働力の就業,商業の変容を検討した。今後の課題として,大連開発技術開発区以外にも,大連ソフトウエアパークや大連ハイテクパークといった産業集積地の調査も必要である。
世界グローバル化の今日,大連市の日本企業との相互依存の関係との関係強化のための整備が進むに従い,企業の進出が続くことが見込まれる。
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2008年度卒業論文 |
岩淵真太郎 | 中核市としての盛岡市の課題と都市開発事業の成果と今後 |
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本研究の目的であるが,日本において四全総以来,地方分権という概念が強まっている。それまでの東京一極集中(中央集権)を解消するべく考え出されたものではあるが,現在では地方都市を対象とした研究というものがなされていない。地方分権(地方主権と言うことも)時代において重要な地方都市を研究することで,これからの地方,そして日本を読み解くことを目的とする。対象地域は2008年4月に中核市に指定されたばかりの盛岡市とする。
中核市とは人口が30万人以上の都市のことで,政令市の事務権限の7割を移譲される(政令市は都道府県の事務権限の8割を移譲される)。事務権限の内容としては保健衛生・民政行政・環境保全・都市計画などが挙げられる。ただし,実際には人口が30万人以上であっても中核市の指定を受けていない都市も存在する。
盛岡市の歴史は1597年に南部藩の当主・信直公が不来方の地に盛岡城を築城した頃から始まる。その後,南部城の城下町を基本として1889年に盛岡市ができあがる。当時人口29,190人,面積4.47平方kmであり,それから120年が過ぎた現在は人口約30万人,面積886.47kmにまで成長し,2008年4月1日に中核市の指定を受けた。
盛岡市は総面積の約70%を山地が占めており,人口のほとんどが市西部の盆地部に密集している。盆地内を河川・鉄道・幹線道路が十字に走り,その中心に市街地が形成されている。そして市街地周辺を取り囲むように住宅街,さらにその周りに農地が広がっている。近年では周辺市町村にベッドタウンが見受けられる。
温泉街である「つなぎ」を中心とした観光産業にも最近は力を注いでいる。全国的に有名なものとしては盛岡三大麺(わんこそば・冷麺・じゃじゃ麺)や南部鉄器が挙げられる。
統計資料によると道路の規模による交通量に差がない。よって規模の小さい道路であっても交通量が多いため交通渋滞の問題が多く存在する。この問題を解決するために,一つは,大規模な環状道路の整備が挙げられる。そしてもう一つは公共の交通手段の利用促進が挙げられる。先の手段では道路規模に応じた交通量の調整を目的とし,後の手段では交通量自体の削減を目的とする。
老年人口の割合が18.7%とやや高い数値になっている。そして今後この数値はさらに大きくなると懸念される。しかし現在の医療技術を考えると,これから老年人口は増え続ける。そのため,考えるべきことは老年人口を減らすことではなく,若年人口を増やすこととユニバーサルデザインを目指した街づくりである。老年を社会の一部とみなした都市の形成が重要となる。
都市計画とは,上下水道・道路・鉄道・公園・宅地・公共施設・土地利用など都市機能が滞りなく円滑に働くことを目的とした,いわば行政の「街づくり」の指標である。都市計画の歴史は古く,中世ヨーロッパではすでに都市計画が行われていた。現在理想的な都市計画が主流で,具体的な対応策としての都市論があまりなされていない。
現在開発事業が行われているのは,これまで開発の対象とならなかった盛岡駅の西南部となっている。開発前はそのほとんどが住宅地と水田だった。また,JR盛岡駅の西口の開発も同時に行われ,それまで駅の西側を河川が流れているため東口の発展しか考えられなかった。
開発の目的であるが,基本的には従来の都心部が飽和状態であることが原因による「緩和」が主である。盛岡駅を中心として市街地が南西方向へと拡大し,それにより都市としての規模を大きくしようとしている。実際,従来の都心部の飽和状況はひどく,もはや空地が存在せず,建物が密集・老朽している。交通は慢性的な渋滞を抱え,公共の乗車物の便は非常に悪い。この開発には現状を打破するという期待が大きく込められていた。
盛岡駅の西南部を「盛南地区」「ゆいとぴあ盛南」と名づけ,職住隣接の新たな都心を形成することとなった。大規模な道路を整備し,ロードサイド型の商業施設地区を配置。郊外型の街づくりの性質を持ちながらも,しかし都心部という特性も兼ね備えた新都心部は,盛岡市の今後の発展に大きな可能性を与えた。
地方自治として,移譲された事務権限を最大に活用することが最大の課題として挙げられる。とりわけ環境保全,都市計画といった分野に力を注ぎ,都市の発展を目指さなければならない。目指すべき都市像は,高齢者も含め全ての人が住みやすい都市で,これはユニバーサルデザインを取り入れることになる。少子高齢化を解決すべき問題として受け止めるのではなく,それを新たな時代へのシフトチェンジと見なし対応することが重要となる。
都市としてさらなる発展を遂げるため,魅力溢れる街づくりを行わなければならない。そしてただ普遍的な魅力を持つのではなく,盛岡らしい,盛岡にしかない魅力というものを模索し続ける必要があると考えられる。そうした街づくりができれば,様々な問題の解決にも繋がるであろう。
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小野徳孝 | 川越市の観光の現状から見る今後のありかたと可能性 |
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Ⅰ はじめに
観光のもつ意義はとても大きい。国土交通白書によれば,「地域経済の活性化,雇用機会の増大等,国民経済のあらゆる領域にわたりその発展に寄与するとともに,国際相互理解を促進するという意義を有する。特に,わが国で,(中略)観光は,国際相互理解の促進に加え,交流人口の拡大を通じて需要を創出し,わが国経済を活性化させるという重要な役割を担っている」。また今回取り上げる川越市はメディア等でも紹介されることも多くなり,1989年にはNHK朝の連続テレビ小説「春日局」が放映され,そして今年4月からは新たに連続テレビ小説「つばさ」が放映されることになり,ますます川越の注目度が上昇し,県内各市町村からだけではなく,全国からの観光客の増加を見込むことができるほど川越がクローズアップされるであろう。
Ⅱ 川越市の観光の現状
川越市は江戸時代からある十組問屋などを中心として商人の経済力が強く,その後も小売業者や卸売業者を中心に商業集積地として発展を続けた。しかし川越の観光が注目され,観光振興が図られ始めたのは1972年に埼玉県が設定した「ふるさと歩道」14コースの中に「小江戸川越・伊佐沼コース」が選定されてからである。その後1977年に川越一番街に蔵造り資料館が完成し,1979年に開局した埼玉テレビで,市が川越の情報発信を行い観光客の誘致を促進していった。その頃の観光形態は時の鐘,喜多院,川越まつりといった歴史的遺産などをめぐる観光と芋掘り観光が中心であった。
1989年に川越市では観光に関わる施策の基本となる『川越市観光行政指針』を作成し,「バス路線の新設・市営バスの運行」など105の事業が提案された。現在これらのうち約6割の事業が終わっている。またこれ以外にも,1999年の重要伝統的建造物群保存地区の選定や2006年には川越ナンバーが実現するなど観光振興に大きく影響を与えた事業も数々あり,川越の観光客数も大幅に増加することとなった。
川越市が抱えている観光に関する問題は,大きく分けて「観光環境の整備」と「新たな観光事業の推進」の2項目に分けることができる。
アンケート調査より要望として出されているもので最も多いのは「交通の安全性の向上」である。とくに蔵の町並みを通る道路は電線が地中化されているものの,歩道がなくまた交通量が多く狭い道の中で人と車が錯綜するようになっている。また「駐車場の整備」も要望としてあげられている。
後者の観点では大きく,①外国人観光客の誘致,②イベントの振興,③観光資源の発掘・活用,④観光ルートの設定,⑤受け入れ態勢の強化・ホスピタリティ,⑥地区別の観光政策の点で課題を挙げている。とくに①については,日本に来訪する外国人観光客の増加をめざしている以上重要な課題となっている。川越市観光振興計画には「外国人観光客が多く訪れる地域では,日本の風習・文化に触れることができる体験等が企画され,需要が高まっています。(中略)「Koedo Kawagoe」の名を広く世界に発信し,国際交流に対する市民の意識の高揚を図るため,本市へ訪れる外国人観光客の誘致施策の充実」を課題としてあげている。
川越市のマスタープランである「第三次川越市総合計画」では,2010(平成22)年度までに,川越市の観光客数を1000万人に増やすことを目標として掲げている。現在の観光客数を考えるとほぼ倍となる計画となっている。主な対策として3点①観光環境の整備,②さまざまな観光客に対しての方策,③新しい観光事業の整備のために必要である方策があげられている。
①観光環境整備のために
連携体制の強化,魅力ある観光情報の発信,観光インフラの整備があげられている。特に重点的な取り組みとして,「小江戸川越キャラバン隊(仮称)の結成」,「郊外型駐車場整備による団体客の受け入れ強化」がある。前者は全国規模での観光客誘致のために,幅広い世代から観光キャンペーンに携わる人材を公募するとともに,キャラバン形式の観光キャンペーンを取り組むものである。後者は団体観光客誘致のために必須となる観光バスを受け入れることができるように郊外型駐車場を積極的に整備している。また,グリーン・ツーリズムや地産地消の取り組みの一環として農業と,また観光協会や商店街など商工業との連携も強化することで,商店街の活性化や観光客の増加を図っている。
②さまざまな観光客への対応
外国人観光客の誘致と世代別の観光客に対しての対応の2つに大別されており,後者に関しては高齢者や障害者の方に対応できるように観光関連施設等のバリアフリー化や入場料の軽減,また経験豊かな本物志向が強い団塊の世代や多様な趣味・嗜好をもつ若年層の観光客をターゲットに宿泊・体験型観光を企画していくことがあげられている。さらにはリピーターや川越ファンを確保するために通年でのイベントの開催や既存のイベントの充実化を行ったり,観光施設の共通入場券のサービス拡充を行ったりすることを施策としてあげている。
③新たな観光地形成のために
①新たな観光資源の発掘と既存の観光資源の見直し,②特産品・郷土料理の開発,③観光ルートの設定,④宿泊観光の推進を重点施策としてあげている。既存の資源だけではなく自然や植物,郷土芸能にまで発展させて新たな観光資源を求めていく。特に自然資源については,水や緑と親しむ場を設けることにより,エコ・ツーリズムの推進もできる体制を整えている。
川越市は2007年度に観光ルネサンス制度の選定を受けることとなった。そして同年「川越市地域観光振興計画」を策定した。これは2007年から2010年までの3ヵ年を目標にしており,2006年ベースで20,000人程度しか川越市に訪れていない外国人旅行者の数を,2010年度までに40,000人に設定するとともに①公共施設における外国人観光客数の把握(国別統計を含む),②i案内所の増設,③i案内所およびその他案内所における外国語対応スタッフの充実,④外国人観光客の実態把握および観光志向/満足度の調査,⑤観光環境の継続的な整備・維持(ハード・ソフトの両面),⑥国際観光ホテル・旅館の設置推進,の努力目標を掲げ,「本市の産業の活性化につなげ,地域が持つ魅力や文化を再認識することができるだけでなく,新たな観光資源の発見につなげたりする」ことを目的としている。そして①「地図がなくても一人歩きが楽しめるまち川越」の形成,②「魅力あふれるまち川越」の創造,③「いつか一度訪ねてみたいまち川越」の実現,④「また訪ねたいまち川越」の探求,⑤「産学官民による国際観光都市川越」の整備を基本方針として同事業を実施する民間団体・組織(ATA事業者),国・県等の関係機関と連携しながら,支援・協力していく。そのほかの事業として伝建地区周辺をはじめとする市内交通体系の整備,観光客の満足度診断,評価,改善等コンサルティング事業,外国人観光客の旅行費用の低廉化といった面でも観光振興の面から事業を推進している。
また観光ルネサンス制度によりATAとして認定を受けた財団法人小江戸川越観光協会は川越市と提携して「小江戸川越観光振興事業~都心直近で本物体験!文化が息づく暮らしに光をあてた観光まちづくり~」として事業を行っている。
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2007年度卒業論文 |
青木俊太郎 | 埼玉県の農業の特徴と変容に関する研究 |
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Ⅰ はじめに
近年,海外からの食品輸入が激増しそれに従って,輸入野菜に含まれる残留農薬や牛海綿状脳症(BSE)の発生によるアメリカ・カナダ産牛肉の輸入停止問題など「食の安全」に関する報道が大きくなされるようになった。また,原油高による小麦やトウモロコシなどの輸入農産物が値上がりし,日本の家計に大きな影響を与え始めるなど,農業に関わる諸問題が大きくクローズアップされている。
現在,農林水産省の「平成17年度(2005)食料自給率レポート」によると,日本における食料自給率(カロリーベース)は40%であり,埼玉県においては11%と全国値を大きく下回り,都道府県別にみると44位という状況である。しかし,平成17年(2005)農業出荷額では1933億円で都道府県別では19位であり,さらに野菜の農業出荷額では813億円で同6位となり,農業が盛んであるとも考えられる県でもある。
そこで本研究では,埼玉県の農業について,埼玉県の立地,自然環境,農業政策,農業統計をもとに埼玉県の農業の特徴と埼玉県内の農業生産の変容を明らかにすることが目的である。
Ⅱ 埼玉県の農業の概要と歴史
埼玉県の農業は日本の農業と同様に農家数,農家人口ともに減少傾向である。埼玉県の産業3部門別の就業者割合(2005年)は第一次産業2.2%,全国の値は第一次産業5.1%であり埼玉県は全国に比べ低い値である。また埼玉県の部門別の農業産出額の割合は野菜類が約42.1%を占め,全国の23.5%に比べかなり高い割合を占め,東京周辺の大都市近郊農業という特徴を持っている。
埼玉県の農業の歴史は江戸幕府の成立と江戸の繁栄を境にそれ以前とそれ以後では大きく性質が変化した。江戸以前では自給的な農業であったのに対し,それ以降は江戸の発展と河川による水運の発達により,荒川や利根川沿いの地域を中心に自給的な農業に加え江戸向けの野菜の生産も行われるようになった。明治以降,車の登場と交通網の整備により,東京向けの野菜生産は東京近郊の県南部地域のみならず,県北部地域まで拡大していく。
戦中・戦後すぐの頃には緊急食料難の時代を反映し,その時期に限り主穀の生産が主になり近郊農業の性質とは異なったが,復興が進むにつれ近郊農業も復活した。
高度成長期以降は鉄道沿線を中心に住宅開発が進み,埼玉県は従来のような東京都市部とその周辺に位置する近郊農業地域との関係と県内の都市とその周辺の近郊農業地域という複雑な構造を有するようになった。
また近年では交通網の発達・輸送技術の発展により輸送時間が短縮され,東京の近郊農業地域は国内の遠隔地のみならず海外へと拡大を続け,埼玉県の農業はそれらの地域との競争にさらされている。
Ⅲ 農作物別にみる県内農業地域の歴史的変化
埼玉県内で収穫された農作物について埼玉農林統計年報(1965)および埼玉農林水産年報(1975~1976・1985~1986・1995~1996・2005~2006)を用い,農作物別に市町村ごとの収穫量の歴史的変化を追うことによって埼玉県内の農業の特徴と変容を明らかにする。調査年の範囲は1965年から2005年まであり,調査年間隔10年間ごととした。市町村名は調査年時のものである。調査に用いる農産物は水稲・陸稲・小麦・六条大麦・二条大麦・かんしょ・ばれいしょ・さといも・だいこん・にんじん・はくさい・きゃべつ・ほうれんそう・ねぎ・きゅうり・なす・とまと・日本なし・収繭量(養蚕)である。
農産物の種類によって生産地は大きく異なる。これは適地適作が行われているためである。農産物全体としては,収穫量・作付け面積ともに減少傾向がみられる。しかしながらそのなかで土地生産性の高まりが見られる。これは農業技術の進歩が要因として考えられる。また種類によっては生産地の移動が見られ,特定の地域に集約されていく傾向がみられた。
Ⅳ おわりに
埼玉県の農業は江戸期以降,江戸(東京)の近郊農業地域として野菜の生産を特色として発展してきた。しかしながら,時代の経過とともに東京の発展による都市拡大に飲み込まれ近郊農村から近郊都市へと変貌し,交通網の発達・輸送技術の進歩とあいまって,従来の近郊農業地域としての地位を低下させていることがわかった。
また埼玉県内の農業は1965年以降,農産物の種類によっては県内の広範囲な地域で生産されていたものが,ある地域へと集約されていく傾向がみられることがわかった。この要因としては農家数の減少が挙げられる。生産地域の集約には農産物の生産に適した土地で効率的に農産物を生産し出荷できるなどの利点とともに,生産地域を指定した農産物のブランド化による付加価値をつけ,市場での競争力を高めるなど農家の経営を安定させることができる。生産地域の集約は農家として生き残っていくには当然の結果であるともいえると考えられる。
埼玉県の農業は海外など他地域との熾烈な競争にさらされている上に,農家の高齢化など多くの問題を抱えている。最近の消費者の「食の安全」への意識の高まりのなか,埼玉県の農業は消費者のニーズにあわせた農業で生き残っていくしかないのだろうか。
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石高吉記 | ショッピングセンターの立地展開と経営戦略 |
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Ⅰ はじめに
ショッピングセンターは営業面積が1万㎡を超えるような大規模な小売店舗で,スーパーマーケットというキーテナントに加え,ファッション,雑貨,フードの専門店街,シネコンを複合した魅力ある商業施設である。Ⅱ章では,ショッピングセンターが今日までどのように発展したかを,大店法の廃止と社会的要因から探り,大店立地法をはじめとするまちづくり三法の成立がどのような影響を与えたか考察していく。Ⅲ章では,実際に埼玉県内にあるショッピングセンターを調査し,具体的な立地展開と経営戦略をさまざまな角度から考察していく。立地展開については,ショッピングセンターを特徴ごとに,郊外立地型と中心都市立地型に分類していくことも目的とする。Ⅳ章では大店立地法が示した内容が,どのようにショッピングセンターでは生かされているのか,新規出店したショッピングセンターを巡検し,明らかにすることを目的とする。
Ⅱ まちづくり三法とショッピングセンターの発達
1973年に制定された大店法により,営業面積500㎡以上の大規模小売店舗の出店が厳しく規制されるようになった。大店法は中小小売業者の保護を目的とし,大規模小売店舗に商業の利益が集中しないように消費経済の全体的な活性化をねらったものである。しかし,結果として中小小売業者の多くは大店法に守られている現状にあぐらをかき,大型店との競争力をつけるに至らず,地方の商店街などは閑散とした。また,大店法の存在により消費者がより質の高いサービスを大規模小売店舗から受ける機会が損なわれる結果となった。
大店法は2000年に廃止され,大店立地法が新しく制定される。大店法が廃止された理由として
①中小小売業者の保護に直接結びつかなかったこと
②日本に小売市場の開放を求めるアメリカなどの外圧の影響
③政府の中小小売業への政策が保護主義から自由主義に転換したことが挙げられる。
まちづくり三法とは大店立地法,改正都市計画法,中心市街地活性化法の3つである。大店法が店舗面積,営業時間,休業日などの大規模小売店舗の営業経済的な条件について規制しているのに対して,大店立地法は大規模小売店舗が出店したことにより,周辺の生活環境を損なわないかどうか監査している点で大きく異なっている。大店立地法が定める1000㎡以上の大規模小売店舗が配慮すべき生活環境の項目は①交通渋滞②駐車場および駐輪場③交通安全④騒音排気ガス⑤廃棄物 の5つである。改正都市計画法は,健全な都市の発展を用途地域制により達成することが定められた法律である。中心市街地活性化法は,土地区画整理事業やタウンマネージメントを用い,中心市街地の衰退を食い止めることを目的にした法律である。ショッピングセンターの発達には大店法廃止と,人々の購買行動の変化,モータリゼーション化の進行など社会的な要因が大きく寄与した。
Ⅲ 埼玉県内のショッピングセンターの立地展開と経営戦略
鉄道駅からの距離,送迎バスの有無,駐車場収容台数,駐車場利用料金などから埼玉県内の代表的なショッピングセンターを郊外立地型か中心都市立地型か分類した。イオンSCの店舗ごとの経営戦略の差違は建物の造りでは差異は見られないが,テナントの分野の割合が少し異なるなど地域ごとの特色を出している。
Ⅳ 新規出店するショッピングセンター-ララガーデン春日部-
ララガーデン春日部は2007年11月8日にオープンした三井不動産が運営する,営業面積23,000㎡の大規模ショッピング施設である。春日部駅西口から徒歩4分の区画整理された土地に立地しており,駅前での好立地を生かして電車での来客を多くねらった,都市中心立地型である。駅を頻繁に使う学生を意識したテナントが見られ,若年層向けの洋服店が多く,ファストフード,ゲームセンターなども入っている。大店立地法で定められた生活環境への配慮についてさまざまなことに取り組み,環境の維持を実現させている。周辺道路の右左折レーンの敷設,駐車監視員の配備,セットバック方式,吹き抜けの天井,緑地化の推進などがある。
Ⅴ おわりに
今後は大店法廃止により営業時間,営業日数にも制限が無くなったので,長時間営業するショッピングセンターが現れ,商店街の中小小売商店だけでなく,コンビニエンスストアとも競合することになるのではないか。埼玉県内のほとんどが郊外立地型のショッピングセンターの性格をもっているが,これは埼玉県が東京の都市圏にあり主要な幹線道路が多く走っていることと,中心都市の地価が高価なことで広大な用地が得られないことが原因に挙げられる。新規出店したショッピングセンターでは,大店立地法から周辺環境の維持を求められるが,近代的な手法を利用して,周辺環境を維持するだけでなく,より向上させるような地域に必要とされる商業施設づくりを目指していることがわかる。今後は各ショッピングセンターの商圏を割り出し,川口市などに見られるように,なぜショッピングセンターが近くに立地しているのに出店するのか,経営は成り立つという算段があったのかを研究していきたい。
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小幡圭子 | さいたま市のオフィス立地と都市機能-大宮駅周辺に立地するオフィスを事例として- |
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Ⅰ はじめに
1980年代以降,大都市圏における常住人口の郊外化に続いて,ホワイトカラーを雇用するオフィスの郊外化が進んだ。その要因や実態を探るべくさまざまな研究が行われている。その中で,さいたま市の比較対象とされやすい千葉市(幕張新都心)と横浜市(みなとみらい21)の2つの郊外都市を対象としたオフィスに関する研究を参考にした。
濱田(2003)は,幕張新都心に竣工した自社ビルとテナントビルに分類し,オフィスの移転元や営業エリアなどから,それぞれのバブル経済崩壊の前後のオフィスの機能変化を明らかにした。佐藤(2007)は,みなとみらい21の大規模オフィスビルの開発により,既存市街地のオフィスビルにどのような影響を与えたかを明らかにした。
本研究では,上記の研究を参考に,業務核都市承認以降のさいたま市の都市形成をはじめ,企業誘致活動,大宮駅周辺の民間オフィスの機能や入居・退去について調査し,オフィス立地の実態や動向とさいたま市の都市機能を明らかにする。
Ⅱ さいたま市の概要と業務に関する取り組み
(1)業務核都市
東京圏における大都市問題の解決を図るため,東京都区部以外で地域の中心となるべき都市を業務核都市として,業務をはじめとした諸機能の集積の核として整備が進んでいる。現在は,横浜,千葉,町田・相模原,土浦・つくば・牛久などの15の地域が業務核都市に承認されている。さいたま市もそのうちの一つで,浦和地区と大宮・さいたま新都心および周辺地区において開発が進められた。特にさいたま新都心は中心的な拠点として事業が進められ,国の公的機関の移転(合同庁舎)をはじめ,さいたまスーパーアリーナやけやきひろばなどの建設,鉄道駅の開設や高速道路の整備がなされ,行政と民間が融合した近代的な都市となった。
(2)企業誘致
企業立地は地域活性化のカギをにぎる「雇用」と「所得」を生み出す原動力である。さいたま市は,充実した交通網や人口増加などを市のアピールポイントとして,特に民間企業の本社機能と研究開発機能の誘致を積極的に行っている。その結果,カルソニックカンセイ㈱やクラリオン㈱(いずれも本社・研究開発機能)などがさいたま市進出を決定した。他にも市の誘致活動によってさいたま市への進出を決定した企業は多く,2007年9月には目標数であった30社の誘致を達成した。
Ⅲ オフィス立地の実態と入居・退去動向
業務集積の中心地である大宮駅周辺に立地する15棟のビル,357のオフィスを対象とし,調査を行った。産業別では,金融・保険業が最も多く,サービス業,製造業と続く。
オフィス機能に関しては,支社機能をもつオフィスが8割を超え,本社機能オフィスを圧倒的に上回っていることが分かった。これは,みなとみらい21や幕張新都心と比べても高い割合である。また,支社の本社所在地の多くが東京都であり,その管轄エリアは関東甲信越や北関東などの広域エリアを管轄するオフィスと,埼玉県や大宮などの比較的狭いエリアを管轄するオフィスが多いことも分かった。
立地動向に関しては,対象オフィスを住宅地図で各年ごとに比較したところ,2005~2007の入居・退去数より,2003~2005のそれのほうが多く,移転が活発であったことが分かった。これは2004年のシーノ大宮竣工により,周辺のビルからシーノ大宮に移転したオフィスの存在が一因となっている。また,これらの動向をビル別に見たことで,入居・退去数や入居年数の長短の違いによるビルの特性が見えてきた。入居・退去数が多いビルは,空室状態の期間が短く,人気度の高いビルであるといえる。入居・退去数の少ないビルは,足掛け5年以上入居しているオフィスが比較的多いことから,居住性の高いビルであるといえる。入居・退去数が中間的なビルは,オフィス数の増加するビルと減少するビルの二極化が見られた。
企業がさいたま市にオフィスを立地する理由として,さいたま市が東日本への広域交通利便性をもつことや,都心部への容易なアクセスが可能であることが挙げられる。また,ソニックシティビルやシーノ大宮などのインテリジェントビルの存在や,合併後の市の発展への期待などから,企業にとって良いイメージが持たれていることが入居理由になっている。他にも,さいたま市の積極的な企業誘致のアピールを入居理由としたオフィスも存在する。
Ⅳ まとめ
さいたま市は,大宮駅周辺のオフィスビル街,さいたま新都心の国の公的機関の立地に加え,浦和区や大宮区は県や市の行政の中心地となっており,業務において高次の集積がある都市である。民間企業においては,東京都に本社を置く支社機能をもつオフィスが多く立地し,その管轄エリアから,さいたま市が広域エリアの営業拠点として評価されていることが分かった。
これらの背景となるものは,一貫してさいたま市の交通利便性である。歴史的にみても,この地域は「鉄道敷設・大宮駅の開設」が発展の基礎となっている。大宮駅開設後,工場の操業,人口増加を経て,商業,経済,文化が発展し,現在に至っている。
現在のさいたま市には,集客性の高い商業施設が多数開発されている。交通利便性を活かし,多方面からの集客を確保することで,さいたま市の地域イメージがより向上することになれば,企業誘致も優位に進められるものと考えられる。
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堀 達也 | 鉄道開業にともなう周辺開発-つくばエクスプレスと埼玉高速鉄道を事例に- |
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Ⅰ はじめに
日本の住環境というのは未だに職住分離傾向である。そのために住居と職場とを結ぶ公共機関を利用する頻度は大変に高い。特にその中でも速く安全で,かつ時間通りに運行する日本の鉄道は職住分離の日本の通勤形態で大きな役割を担っている。日本のような郊外型住宅地はいわゆるベッドタウンと呼ばれるものである。日本のベッドタウンの開発には鉄道が,もっと言えば鉄道会社が深く関わっている。特に東武や西武,小田急や東急といった私鉄は,沿線開発をグループ会社に任せて鉄道と住宅を一緒に開発してきた。本研究は,鉄道の開通とそれにともなう沿線開発がおこなわれる要因や,開発がおこなわれることによる影響を検証し,鉄道開発によるまちづくりのおこなわれ方,今後のまちづくりの展望などを考察していこうというねらいをもって行った。
Ⅱ 対象地域の概要
東京大都市圏で東京通勤圏内であり,2000年以降に鉄道が開通し,現在もまちづくりの途中をなっているところを選択した。その対象とした鉄道は埼玉高速鉄道線とつくばエクスプレス線の2つである。この際の通勤圏内とは電車で60分以内と考えた。
Ⅲ 対象鉄道の概要
埼玉高速鉄道線は,1992年3月25日に高速鉄道東京7号線(現・地下鉄南北線)の埼玉県延伸部分の建設,運営をおこなう第三セクターとして設立された。鉄道事業は2001年3月28日に開業した。さいたま市東部の浦和美園駅から赤羽岩淵駅までの大部分が地下を通る鉄道である。赤羽岩淵駅からは東京メトロ南北戦に接続し,その先で東急目黒線と接続している。南北線は途中で飯田橋や永田町や六本木一丁目といった官庁街やオフィスの多い地域を通るので,通勤客の利用の多い鉄道である。
つくばエクスプレス線は,2005年8月24日に開業した,秋葉原駅とつくば駅を結ぶ鉄道である。基本コンセプトとしては,①東京圏北東部地域の交通体系の整備②JR常磐線等既設鉄道の混雑緩和③首都圏における宅地供給の促進④沿線地域における産業基盤の整備と業務核都市の形成という4つを基本の柱として開発が進められた。特に,②の中で特に常磐線の混雑の緩和は,茨城,千葉からの通勤客の切実な要望であった。秋葉原駅からつくば駅まで快速で45分という高速運転を行っている。それには,全駅に可動式ホーム柵の設置と,全線が高架や地下もしくは,掘割構造であるので踏切が存在しないということが大きく影響している。つくば駅以北の土浦から水戸方面への延伸と,秋葉原駅から東京駅への延伸が計画されており,利用客からの期待も高くなっている。しかし,今のところ実現するめどは立っていない。
Ⅳ 調査結果
(1)人口の変化
人口動態に関しては少なからず鉄道の開通が人口動態に影響を与えていることは間違いない。しかし,周辺の施設等を含めた生活環境の利便性が示されないと人口の移動にはつながらないのではないかと考える。引っ越すには一般的な認知がされていかないとならない。よって,現在人口が増加中の地区や今後に開発が行われていくところは,これから5年後,10年後には鉄道とともに認知されてくることで,その街が開発されその後発展し,生活,移動の利便性が向上して多くの人口流入が見られるのではないだろうかと予測される。
(2)公示地価価格の変化
公示地価価格というのは鉄道の開業は少なからず受けるということがわかった。しかし,どの程度の影響があるかというのは,その周辺環境と関係があるのだろうと予想する。鉄道開業というその事実だけが地価価格上昇の主要因にはなりえない。もちろん,鉄道が開業されることによって,駅の周辺部や沿線の開発は進むことが予測されるので,鉄道開業による期待値が高まれば高まるほど,地価価格も上昇しやすいはずである。その開業した鉄道が,どことどこを結んでいるのかということも重要な要因になってくる。
Ⅴ まとめ
鉄道の開業と街の開発に関して調査して感じたことを以下に示す。人口の流入に関しては,鉄道開業に合わせてまちづくりが行われるので,街がある程度完成し,その街の様子や雰囲気,通勤場所との関わりや住宅価格といった状態がわかってくることでその街に住みたいという気持ちが大きくなっていくのだろう。そのような地域は鉄道開業以前は通勤や生活に不便であるからだ。つまり,まちづくりがある程度行われてから人口は流入してくる可能性が高いということだ。
本研究より,鉄道開業と周辺開発には密接な関係があることがわかった。また,その開発には必ずといってよいほど建築計画,都市計画がされており,無秩序なまちなみにならないように工夫がされている。そして,多くの都市計画には,緑との調和を目標としたもの,自然を大切にしようとするもの,更にはバリアフリー対策といった3つが計画されていた。これは,今後の地球環境,社会環境を考慮してのものであろう。その場にあわせたものを計画するのではなく,10年先,20年先さらには50年先をも見越したまちづくりを行っているのだ。それは,その街に長く住んでほしいというあらわれでもあるのだろう。
今回の調査で感じたことは,少ない土地でも住宅供給が多く出来るためか,駅前の開発を中心に大型高層マンションの開発が進んでいる。しかし,住宅街や田畑の真ん中にマンションが一棟だけあるのは景観がよいとはいえない。今後の開発は周辺環境と調和した,そんな景観をも重視したものになっていってほしいものである。そして,すぐに建て直すような住宅,マンションを建設するのではなく,何十年,何百年と経過しても,そのまちなみが残るような景観のまちづくりが望ましいと考える。欧州のように内装だけをリフォームするような住宅が多くなってくれば,それぞれの街並みや景観は歴史あるものになっていき,長く住み続けたいと思える,伝統あるまちになっていくのだろう。
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諸麦有香 | コンビニエンスストアの配送センターと店舗立地について-さいたま市におけるセブンイレブンの事例- |
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Ⅰ コンビニについて
アメリカにおけるコンビニの定義
①売り場面積が93~300平方メートル
②5~15台収容できる駐車場がある
③営業時間は他のスーパーマーケットよりも長時間で,ショッピング上の完全な便利さを顧客に与えるためにセルフサービス方式が採用されている
④日用必需品についてバランスのとれた在庫を保有していなければならない
日本におけるコンビニの定義
①住宅地周辺に位置している
②300平方メートル以下の小型店舗
③絞り込んだ最寄り品を揃える
④セルフサービス方式
⑤営業時間が地域のどの店よりも長い
⑥原則年中無休
⑦従業員は店主と若干の店員でまかなう省力型経営
⑧顧客と親密な人間関係をつくる
Ⅱ コンビニエンスストアの発展
(1)アメリカにおけるコンビニの発展
・アメリカのコンビニの起源は1920年代,1960年代に入り急成長を遂げた
・スーパーマーケットが十分発展したあとにコンビニが登場
(2)日本におけるコンビニの発展
・スーパーマーケットが成長期でまだ成熟期に達する前に登場
・フランチャイズ方式の採用
Ⅲ 配送センターと店舗立地
(1)日本におけるセブンイレブンの物流
・創業当初1日1店舗70台以上あった配送者を共同配送により9台までに減らす
・1982年POS(販売時点情報管理)システム,EOB(電子発注台帳)による発注開始
・共同配送センターによる配送形態をとる
(2)埼玉県内の配送センターの概要
・フローズン4箇所,チルド3箇所,米飯4箇所,常温3箇所
・米飯は1日4回配送
(3)配送センターと店舗立地
・ニチヨーキャリー米飯配送センターから配送されるトラックは㈱斉藤商事と㈱サン・デイリー2つの営業所が保有し,あわせると20台前後
・1台あたり10店舗前後に納品するとみられる
・大宮米飯配送センターから配送されるであろうエリアは南部の店舗に集中しているとともに,北部にも配送されていると考えられる
・さいたま市内にはいくつかのドミナントエリアが形成されており,その形成過程は古い店舗の周辺に新しい店舗が形成されているケースが多い
・閉店した店舗の周辺に新しく店舗を出店させている
・青年人口と昼間人口の比率の高い場所に出店傾向がある
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2006年度卒業論文 |
亀井智人 | 浦和の住宅地の形成と変容 |
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Ⅰ はじめに
イギリスの産業革命に端を発した郊外住宅地の理念は、やがて日本にも伝わり、明治後期から昭和初期にかけて数多くの郊外住宅地が日本に誕生した。このような戦前につくられた郊外住宅地には、当時の都心の環境悪化を懸念した中流以上の勤め人が移り住んでいる。しかし、現代へと至る過程で、宅地の細分化や土地利用の変化が起こり、開発当初の自然環境の豊かさを売りにした「健康」というテーマは破壊されてきた。そこで本研究の目的を、戦前郊外住宅地の典型的なモデルである東京郊外の浦和の住宅地形成とその変容を追い、浦和の住宅地の細分化と土地利用変化の状況を明らかにすることとした。
Ⅱ 浦和の耕地整理事業
大正時代の浦和は畑、山林が多く、土地は平坦であったが田は水路が狭くて排水が悪く、雨が少し続いて湛水してしまい農作物に被害を出していた。道路は国道や県道は走っているものの、それ以外はほぼ紆余曲折の激しい耕作道で、車馬の通行や肥料・収穫物の運搬には不便が多かった。
大正期に2つの耕地整理事業が浦和町では発起認可されている。一件は、大正3(1914)年8月に起工された浦和町塚越の事業である。この対象地域は、もと農事試験場園芸部跡で、面積は2町歩にも満たない。もう一つは、浦和町耕地整理組合の事業である。耕地整理区域を与野市を含む浦和町の大部分とし、工事中の発展に伴って計画変更された後、最終的には約300町となった。八間八分の新国道、六間・四間半(中山道に接続する)、三間、一間半の道路をつくり、排水路を整備した。さらに、工事後であるが、移住者の増加に伴って浦和北部に駅設置の議論が起こり、昭和11年に北浦和駅を設置した。事業期間が11年余りにも及んだこの工事は、昭和9年に全ての手続きを終了した。
Ⅲ 事例地域の住宅地の変容
(1)細分化の種類
日興の住宅地図・浦和市街地編(1961)とゼンリンの住宅地図・浦和区(2006年)の2つで同じ街区を比較していくと、2種類の細分化を確認することができる。
一つは、1961年の宅地の一部を売却し、その敷地に新たな住宅が建てられるケースである。1961年のある宅地をAと仮定すると、2006年にはAの宅地が一部売却されA´の広さとなり、元々のAの宅地に、A´とB(さらにはC)の宅地が存在している状況である。もう一つは、1961年の宅地全てを売却し、後にその宅地に新たな住宅が複数建てられるケースである。1961年のある宅地をAとすると、2006年にはAの宅地が完全に売却されており、Aの宅地にB、C(さらにはD)の宅地が存在している状況である。
(2)調査結果
耕地整理後から70年以上が経過し、調査範囲内のほとんどの街区内に細分化された宅地が存在している。調査地域を現国道17号線で東西に分けると、西側地域では、宅地細分化の約6割が宅地の一部を売却した後、売却された土地に新たな住宅が建つことによる細分化であることがわかったが、東側地域は約3割程度に留まっている。これは現在のさいたま市の都市計画図から、西側地域が住居専用地域に指定されていることから、商業地域としての需要はなく、相続や贈与による住宅地の細分化の割合が高いが、東側地域は商業地域に指定されており、商業ビルや集合住宅といった建物の高層化が進むという土地利用の変化が原因といえる。
1961年には一戸建ての住宅が立ち並んでいたこの地域であるが、前述の東側地域の線路沿いを中心に集合住宅化が進んでいる。さらに、1970年代以降の車社会の影響を受けて、売却された宅地につくられた駐車場が数多く見られる。この地域は商業都市としてのイメージは小さく、住宅地から高層の商業ビル・商業地への移転を数多く見受けることはない。しかし、宅地が細分化され、数多くの小さなテナントが店を構えている。このような店は雑誌等でも取り上げられ、人気の店は、公共交通機関等を使って遠方からも客が訪れるようになるという。このような店や駅前大型商業施設には、住む郊外から訪ねる郊外へと都市の様相が変化している様が現れている。
Ⅳ おわりに
大正時代に起工され、昭和初期に完成した浦和耕地整理組合の耕地整理は、その後70年以上の年月を経て変化が起きていた。さいたま市の都市計画によって、前述の西側地域が住居専用地区に指定されているのに対し、東側地域のほとんどが、線路側であり、北浦和駅と浦和駅を周辺に持つことから商業地域に指定されている。この土地利用変化によって、細分化の状況も大きく異なっていることがわかった。
戦前の郊外住宅地には、「健康」というテーマが生まれる必然性があったが、都心との関係によって成り立っていたため、これを保全するしくみをもたなかった。故にその魅力を失ってしまっている。さらに、この住宅地の変容による環境の変化とともに人々のライフコースも変わってきている。親元を離れる若者が進んでいる現在、細分化によって小さな住宅が建ち並んでいる地域は、これからその地域の子供が両親から土地と建物を受け取ったときにどのような変化を見せるのであろうか。人口減少社会に突入している今、都心の住宅供給も高まっている。
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増田賢治 | 春日部市の市街地形成に関する研究 |
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第Ⅰ章 序論
今日、埼玉県東部は東武伊勢崎線を軸として幸手、春日部、越谷などの人口10万~40万人の中小都市が存在している。しかし、この地域は半世紀前の1960年頃までは、首都圏近郊の中でもどちらかといえば発達が遅れているほうだった。それが、1960年頃からわずか数十年で人口が殺到し、近代的な都市が成立したのである。
このため、本研究ではこの埼玉県東部の地域の都市に関して、春日部市を事例として、急激な人口増加の背景と、市街地の展開の特徴について研究したい。農村地帯がどのように都市に発展していったのか。そして、都市の市街地はどのように拡大していったのか。これらについて考察していく。
第Ⅱ章 1965年以前の春日部市~春日部市の原風景~
春日部市の基礎になったのは、現在の春日部駅東口周辺に位置した「粕壁宿」である。「粕壁宿」は江戸時代に奥羽、日光方面と江戸を結ぶ日光街道の宿場町として設置され、当時は街道を行き交う多くの人々で賑わいを見せた。その後も「粕壁宿」は発展を続けたが、1955年以降は、春日部市の人口は3万人程度で推移し、地方の小さな町でしかなかった。当時の春日部市内には東武伊勢崎線と東武野田線の2本の鉄道が存在し、東部地区の交通の結節点となってはいるが、これらが人口増加に貢献しているとは言い難かった。
市内を見回すと、市街地は春日部駅東口の周辺のみであり、春日部駅の西口を中心に、市内には広大な水田地帯が広がっていた。
第Ⅲ章 1965年以後の春日部市
1960年代の日本は高度経済成長の時代で、東京の郊外にも人口が増加していった。これに伴い、大都市圏近郊の鉄道沿線では開発が始まっていたが、東武伊勢崎線のみは都心へ直通することができない郊外型路線であったため、沿線一帯は開発が遅れ、首都圏近郊でものどかな田園風景が残っていた。
ところが、1962年になってようやく北千住駅から営団日比谷線への直接乗り入れが可能となり、この地域に転入する人が殺到した。日本住宅公団や民間の大手デベロッパー、中小建設会社・不動産会社なども先を争って開発を進め、春日部市の都市化も積極的に推進されていった。この結果、春日部市の人口は急速に増加していき、1960年代後半は毎年1万人近い人口が増加し、1972年には人口が10万人を突破し、1995年には20万人を数えるまでにいたるのである。
このように、春日部市の急速な発展は、東武伊勢崎線の郊外型路線から都市型路線への転換や、東京大都市圏のベットタウンとしての性格が密接に関わっていたのである。
第Ⅳ章 無秩序な市街化の展開
春日部市内の中でも、東武伊勢崎線沿線、東武野田線沿線などの鉄道付近は無秩序化した街並みとなっている。これは、東武伊勢崎線の都心への直通を契機に、1965年前後から急速な宅地開発が始まり、あたり一面の田畑に宅地が無秩序に進行していったためである。これらの地域では、急速な宅地開発のため、狭い道路、密集した住宅街となってしまった。このため、これらの地区は今でも民営借家の数が非常に多く、しかも、1・2階建ての小さな借家が多いという特徴がある。また、急速な宅地開発は市行政側に区画整理事業を行う間も無く進んでいったため、公共設備の整備が完全に後手に回り、学校の不足や、水の供給不足、雨水の浸水被害などの問題が頻発した。現在では区画整理事業は春日部駅東口のみが完了しただけで、その他の地域では区画整理事業は計画すらされておらず、無秩序なままとなっている。
第Ⅴ章 区画整理された市街地
春日部駅西口と内牧地域は区画整理事業が全般的に施行されていて、きれいな街並みとなっている。他の地域と違って区画整理事業が間に合ったのは、この地域が駅から離れていたり、宅地開発に適さない水はけの悪い水田地帯だったりしたためだ。特に、春日部駅西口には1960年代近くまで降り口が無く、交通も不便であった。このため、宅地化が無秩序に進む前に、大規模な土地区画整理事業を行うことができた。現在では十分な幅を持った道路が整然と建設され、今日の車社会に十分対応できる街並みとなっている。区画整理事業は西口のほぼ全域にわたって行われ、西部第一、第二、第六、第七土地区画整理事業は総面積266.7haにわたる広大な範囲で、水田の中心地帯が十数年で住宅地へと変貌してしいった。内牧地域に対しても、台地を除く主要な低地はほとんど区画整理事業をすることができ、整然とした街並みとなっている。
第Ⅵ章 おわりに
春日部市の市街地形成は主に1960年代後半から1970年代にかけて進行した。初期に宅地開発が始まった東武伊勢崎線沿いは、その開発の速さから土地区画整理事業を行う暇もなかった。一方で、従来、居住に適さなかった春日部駅西口などは、民間開発の遅れから結果的に区画整理事業を実施することができたにすぎない。行政側の先見性の無さが見える。
このため、従来、市街地が密集していた春日部駅東口は、近年になって、ようやく土地区画整理事業が始められるようになったが、市街地密集地の再開発は、時間とお金がかかり、今のところは実施されたのは春日部駅前のみであり、このような再開発の計画は他には挙がっていない。他にも、初期に宅地開発が行われ、宅地が密集してしまった地域では、地区計画が実施され、これ以上の再分化を防ぐため、最低敷地面積を導入したり、建築物同士の距離を制限するなど、規制・誘導をして、健全な市街地形成に努めているが、これらの事業は即効性が無いのが欠点で、春日部駅を除く駅前周辺は今後も、1960年代から1970年代に立てられた街並みが続くものと思われる。
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2005年度修士論文 |
Thant Zin |
東京とヤンゴンの都市計画制度に関する比較研究 |
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Ⅰ はじめに
都市は自然に出てきたものではなく人の手によって造られたものある。都市計画と計画の制度を研究すると共にこの重要性を感じた。本研究は日本の首都東京とミャンマーの首都ヤンゴンの都市計画制度を比較する研究である。東京とヤンゴンの歴史的背景を見ながら、現在までに渡ってどうやって拡大してきたか、成長してきたかを比較する。
Ⅱ 東京の都市計画
明治時期に東京をベルリンやパリのような都市にする計画が盛り上がった。その中で1989年の東京市区改正条例とその事業が日本の都市計画制度の起源とされる。具体的内容は道路、河川、鉄道、橋染の計画である。1919には日本全国に対して都市計画法が施行された。住居地域、商業地域、工業地域というゾーニング制度、都市計画制限、区画整理事業などが創設された。都市計画法及び市街地建築物法により確立された都市計画・建築行政の制度は大変な中央集権的制度であった。
土地区画整理事業は基本的に郊外地すなわちこれから市街地化が進む近郊農村地域で市街地として必要な道路・公園などの公共施設を整備し街区・敷地条件を備えるための制度であった。
1923年の関東大震災で東京の半分3465ha、市街地面積に対する44%は焼野原になった。災害復興計画で都市の不燃化を図るともに、東京の市区改正条例で部分的に実施しなかった都市基盤の整備を進める都市大改造計画であった。大量の道路、橋、運河、公園、学校などの建設・補修事業は実施された。東京都中心部の市街地改造に果たした意義は大きく、現在の東京を支えることになる。
戦後1946年に東京戦災復興計画が策された。それは周辺に衛星都市、外郭都市を配し区部人口350万人に迎えるものであったが、1949年からドッジラインによる緊縮財政で復興計画は見直され、大幅に縮小された。1958に第一次首都圏整備計画が策された。近郊地帯(グリーンベルト)、既成市街地を限定するものであるが人口増加、産業集中が進み、スプロール開発を止められなかった。1963年に容積率が導入され、高さ制限がなくなった。1964年の東京オリンピックに関連して整備が進められた。同年多摩ニュータウン計画決定し、建設を開始した。
1960年代から70年代にかけて高度経済成長過程と共に都市へ急速な人口や諸機能が集中して、市街地の無秩序な外延化が全国共通の課題として深刻化した。現在の都市計制度はこのような緊急に対応が求められていた社会経済情熱を背景として成立した。1980年にはよりきめ細かい開発・建築のコントロールを可能とする地区計画制度が創設された。1992年には都市計画法及び建築法が見直された。
日本では1919年の都市計画法に基づき12種類の用途地域が定められており、1998年には8種類の区分になった。地域の事情に対応して独自の用途地域を創設することが可能になった。また、建蔽率と容積率という建築制度によって建物の建てられる面積と階数が決まっている。
Ⅲ ヤンゴンの都市計画
1852年植民地になった下ミャンマーのヤンゴン(当時ラングーン)はイギリスによって作られた。3万6千人のために500エーカー大きさのある都市だった。1855年と1861年にヤンゴンを東と西の方向に道路を中心にチェース盤のような拡大し都市計画が立てられた。
1874年にインドのBombay Municipal Actを参考にし、ヤンゴン初発の自治体制度が誕生した。ヤンゴンを自治体制度の下で管理するとう狙いである。必要なふさわしいインフラ・整備をするという責任が求められた。1876年には13sq/miles面積まで拡大し人口は10万人を超えた。
1922年にCity of Local Government Act 1922が生まれ、一部の規制以外は殆ど今まで使われている。その法の中の法人及び自治体の義務と権限はヤンゴン地方自治体の心臓と呼ばれ、この制度の結果ヤンゴンはガーデンシティーと呼ばれるようになった。
1948年に内戦で逃げてきた難民たちでヤンゴン市街地にスラム街が発生した。1952~54年の間にスラム問題を解決する計画が立てられ、二つの衛星都市ができたが、成果は現れなかった。1958~60年にスラム街をなくそうという緊急計画プランが政府の予算で立てられ、ヤンゴン市街地の隣接に3ヶ所の衛星都市ができた。しかしスラム街はなくならず人口増加と共に深刻な問題になった。
1977年から1985年の間に自治体の役割は制限された。1985年にも工業に従事する人々のためにローンで最大の住宅建設計画を立てた。予算の限界などで予定通り行かず数が少なく成果は現れてなかった。
1988年以降に軍人政権に変わって今まで社会主義では見られなかった海外投資と民間企業の活躍は誕生した。合弁計画などが多く見られるようになった。そして1989年からヤンゴン市内に工業ゾーンが15ヶ所も建設され、同年ヤンゴン首都圏に対し次の4つの政策方針が出された。一、ヤンゴンをコンパクト形にする。二、都市の質を高める。三、公務員や政府機関に従事する人々に住宅を与える。四、小屋からアパートに生活基盤を上げる計画だった。1989年にヤンゴンのマスタープランができた。ヤンゴンを昔のガーデンシティーのイメージに取り戻そうという狙いがあった。
大きな計画は住宅建設ではなく住宅地開発である。住宅建設費用を節約するために市街地の隣接に住宅地開発をすることである。同時に三種類の住宅建設が行われた。体住宅、高級住宅、小屋からアパートへの建設であった。
1994年に建蔽率は実用することになったが、容積率はなかった。ただし、高さ制限があり、ヤンゴン市内で12階建て以上の建物は禁止された。場所によって6階建て以上立てられないところもあった。ヤンゴンは日本と比べ地域区分が少なく建物の形成などの性能規制が薄いため物理的空間の規制力も弱いのである。
Ⅳ おわりに
東京都とヤンゴン市の都市計画に関する制度を比較してみたが、戦後から現在にわたる都市計画制度や規制緩和政策などは、大幅にいたことも顕著である。それは、1988年まで社会主義だったミャンマーと、戦後から資本主義の民主化で進んできた日本との政策の違いが都市計画改革、開発などに大きな影響を及ぼしたことが原因になっている。
第二次世界大戦までの都市計画は、パリやロンドンのような街を作るという狙いも同じだった。ヤンゴンの都市計画、街づくりなど全てイギリスの手によって行われ、東南アジアのなかで一足早く都市化が進んだまちになった。この時期は東京が明治時代の市区海制事業などから近代都市に変わろうとしている時期と同じであったことが分かった。
日本は1919年都市計画法が出来た時から全国に対し都市計画制度を実施してきたが、ヤンゴン市は独自の都市計画制度をつくり政策を進めてきたことが特徴である。その結果、ヤンゴンは早くに都市化を進めはしたが、戦後の内戦や社会主義政権によって民間デイベロッパーや海外の投資者の参入を閉ざし、ヤンゴン自治体の管理だけに都市計画全てを限定するという政策をしたことが都市開発を妨げることになった。その結果が現在の東京とヤンゴンの違いの大きな理由と考えられる。
2005年11月07日に政府の発表によりヤンゴンから北方面250マイル(320キロメートル)離れているPyinmana というBago山脈の北部の方に首都を移動するということが現実になってきた。今回、経済都市と政治都市を分ける都市計画が出現したことによって今後現在の首都ヤンゴンが経済都市に変わっていくことは近いうち実現されると思われる。
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孫 氷哲 | 東京における日本語学校の分布と就学生の住居選択 |
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第1章 はじめに
1980年代に入ってから、日本の大学や専門学校で学び留学生数が急速に増えはじめ、95年には5万3千人になり、2003年末10万9千人にまで増加した。日本の留学生受入れの動向は常に日本の政府の方針と関連している。しかし、大規模に留学生受け入れ体制の改善を始めたのは83年に「留学生受け入れ10万人計画」を発表してからである。「留学生受け入れ10万人計画」は90年代初めに留学生人数は5万人の規模を達成して、西ドイツ、イギリスのレベルに追いつき、21世紀の初めに10万人を達成することを明確にした。留学生達は日本に留学するためには、最初から留学ビザを取得して大学に入学することもあるが、大多数の私費留学生はまず就学ビザを取得して、日本語学校の就学生として来日し、その後大学の入学試験に合格して留学生となる。従って、日本語学校は急速に増加し、そこを受け皿として来日する日本語学校生(就学生)が急増した。日本語学校の分布は東京なかでも、新宿・大久保周辺に集積していろいろ特徴が見られる。同時にこの地域は、アジア出身の外国人が多く居住し、「エスニックタウン」とも呼ばれている。新規に流入する外国人の住居選択・住居分布の問題は、アジア系を中心とする出稼ぎ外国人の増加が顕著になった1980年代中盤以降、日本の大都市地域に関する新しいテーマとして注目されつつある。本稿では、日本語学校の分布を明らかにし、日本語学校に通っている就学生のおかれている住環境の把握と住居選択プロセスを解明することを目的としている。
第2章 日本の留学生受け入れ政策と日本語学 校
「留学生受け入れ10万人計画」以来、在日留学生が急増し始めた。90年までの10年間で、毎年10~20%台の増加を続け、90年代には80年に6,572に過ぎなかった留学生数の六倍強の41,347人に達した。90年代に入って大きく鈍化し、1996年に一旦減少に転じたが、1998年には5万1,298人と再び上昇カーブに入り、以降、法務省は、2000年1月に受け入れ大学等の在籍管理に着目した在留手続の簡素化を実施しているが、さらにその後私費留学生は急増しており、2001年は7万8,812人、2003年は10万9千508人で、政府が目標としてきた「留学生10万人受け入れ計画」がついに達成されたことになった。
就学生は留学生の予備軍なので、就学生の受入れが留学生受入れと深く関連し、その促進が留学生受入れの拡大につながっている。1980年代半ばより、新規に設立される日本語学校が相次ぎ、84年には49校だったのが88年には300校を超え、そこを受け皿として来日する日本語学校生(就学生)が急増する。近年、外国人犯罪の多発等の社会状況を反映して外国人に日本語を教授する日本語学校への風当たりは厳しくなっているので、2004年に就学生の許可率がほぼ20%程度で、廃校になる日本語学校が続々と出かねない危機的な状況にある。こうした状況下で、2004年6月には初めての全国規模の業界団体である「全国日本語学校連合会」が発足し、業界側から論理規定を設けるとともに、関係行政機関に善処を要求している。
第3章 日本語学校の分布と新宿への集積
日本全国では、東京都(156校)、関東地区(90校)、近畿地区(77校)、九州・沖縄地区(50校)、中部・東海地区(42校)、中国・四国地区(21校)、東北地区(14校)、北海道(4校)の順で分布している。日本語学校全体(454校)の55%関東地区に集中しており、中でも、東京都には156校(34.4%)と圧倒的に日本語学校が密集している。東京都区部では、新宿区(35校)が一番多く、続いては豊島区(13校)、渋谷区(12校)で、品川区と練馬区など日本語学校がない区もある。日本語学校の分布の特徴は新宿区、豊島区と渋谷区を中心に分布しており、特に新宿区の数が圧倒的に多い。新宿区では、二つ地域で集中している特徴が見える。一つは高田馬場駅を中心し、もう一つは大久保・百人町・西新宿エリアを中心とした。このように、新宿区内の日本語学校は高田馬場と大久保エリアで密集している。現在の新宿区で日本語学校の集積は、新宿区の多様な国際的な共生の長い歴史と相連なっている。
第4章 新宿の日本語学校就学生に関する住居分析
就学生達の住居選択の過程及び諸要素の関係を解明するため、2005年6月に、新宿にあるフジ国際語学院に通う就学生を対象に行い、アンケート調査をし、最終的に140名から有効回答を得た。
今回の調査結果は、最初の住居の種類については借家に住んでいる学生の数が一番多かった(52人)。以下の原因が考えられる。まず、新宿には外国人を対象にした不動産業者が近年増えている。さらに、近年来日した就学生の経済的状況は以前より改善されたという点である。最初の住居の分布については新宿区に住んでいる学生が59人、圧倒的に多く占めている。やはり住居選択の基準として学校への近接性が重要であることが分かる。住居の探索方法は「知人・親族」(63人)であり、知人・親族の利用は外国人就学生独自の情報網が重要であることを示している。
アンケート調査によると、140人のうちに35人が転居したことがある。転居した学生の人数がちょうど1/4で、それほど多くないと思われる。35人のうち、新宿区に転居した者は15人で、最初の住宅に比べて新宿区の割合が高まっている。19人が不動産業者を通して、部屋を探している。環境への順化が進むとともに住居探索により多くの時間を費やすことが可能になるので、住居選択の幅は最初の住居に比べる程度が広がるであろう。さらに、転居後の平均通学時間が19.8分で、平均通勤時間は転居前より約10分短縮し、確かに通勤時間を節約した。
アルバイト先は新宿での総個数が61人で、そのほかの区より9少ないが、新宿が彼らのアルバイト先の中心地であることが分かる。学校の周辺でアルバイトをやるのは、時間コスト・交通費に最小限に圧縮できる。新宿は東京の副都心として、娯楽場、飲食場が集中しているので、大量のアルバイト需要がある。そのため、新宿は彼らにとってアルバイトの第一希望地であろう。
第5章 おわりに
今回の課題は就学生に限らず、さまざまな国籍や在留資格をもつ来日外国人を対象に、基本属性や住環境だけではなく、当初の滞日目的とその変化、及び現在の生活に対する認識まで踏み込んだデータ収集を行っていく必要がある。それによって、来日外国人の住環境の把握と住居プロセスを深く研究できると思われる。
日本が国際杜会の期待に応え、積極的に発展途上国に協力して人材を育成することは、日本の国際的地位と国際的イメージを高めることに役立つ。留学生を派遣しあうことは、日本と他の国の間でお互いの理解を促進することに役立ち、国際友好関係を築き上げることができる。帰国後留学生は日本と外国の友好関係を発展させる懸け橋になって、日本の将来の発展に対していっそう役に立つことが期待できる。
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2005年度卒業論文 |
小幡奈美 | 栃木県茂木町の農業の実態と支援・振興策 |
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第1章 はじめに
日本の食料自給率は40%程度であり主要な先進国の中で最低水準となっている。半分以上を外国からの輸入に頼っている日本の食は、常に危険と隣り合わせだという認識は高まっているものの、農業に関わる人口は減少の一途をたどっている。本研究では、栃木県茂木町を事例として取り上げる。統計資料や農家への意向調査から、茂木町の農業や農家の実態を明らかにしていく。また、全国的に行われている農業支援策や茂木町が特別力を入れている支援策を基に、農業の継承・発展のためにできることは何か、今やらなければならないことは何かを考えていくこととし、茂木町の農業の今後を考察していく。
第2章 全国的な農業支援策
現在の日本の農家の特徴は、人口の減少・高齢化、農地面積の縮小、また兼業農家の割合が高いことが挙げられる。このような課題に対して国では、多岐にわたる経営改善のための支援を受けられるようになる認定農業者制度や、農業・農村が持つ多面的機能を守るために、中山間地域等で農業をしている人達を支援するものとしての中山間地域等直接支払制度、遊休化する農地を法人に貸付できる(リース)制度などを講じている。また、集落内の農家全体で協力し合って農業を営む「集落営農」という形態を勧めている。
栃木県では独自に、栃木県農業士オープンファーム、エコファーマー、わんぱく農業インストラクターなどを実施し、主に農家と消費者の交流を深める施策を行っている。
第3章 茂木町の農業の実態
茂木町で最も多く栽培しているのは米である。農家戸数については、専業農家、第1種兼業農家は減少し、第2種兼業農の割合が大きくなっている。販売金額別では100万円未満の農家が多い。経営耕作面積規模別に見ると、零細農家と大規模農家の二極化が進んでいることが読みとれる。今後の見通しとしても同様の傾向が予想されることから、認定農業者の育成等による、農業の担い手の確保が課題となっている。兼業農家については、農地があるので仕方なく、世間体のために農業を続けている場合が少なくない。
2002年度に農業委員会が農家への意向調査を行った。それによると、農家世帯主の年齢構成は、50~70歳代が全体の7割を占めていることがわかる。今後農業を継続するかどうかに関しては、80%近くが5~10年は続けたいと考えており、農地拡大・経営の方向については、現状を維持しようという傾向が強く、規模を拡大してバリバリ農業をしようという農家が増えることは考えづらい。実際に農業を継続する際の問題点は、収益性が低いこと、後継者がいないことが挙げられる。今後の担い手や労働力については、後継者中心や機会による省力化が挙げられるが、雇用はあまり考えられていない。
個別に行った聞き取り調査では、各農家の事情をかいま見ることができた。それぞれに茂木の農業に対する不満ややりきれなさを抱いていたが、それ以上に農業に対しての誇りがあることを知ることができた。共通していたことは、仕事が忙しくなってしまうと、周りとの交流を図ることが難しくなってしまうということである。また、専業農家に対しての政策に力を入れるべきだという意見も強かった。
また、茂木町の耕作放棄地の割合は県内でも顕著に高く、さらに増加しているところである。耕作放棄地をどう減らしていくかが今後の大きな課題であると言える。
第4章 茂木町の農家支援・振興策
茂木町の行政区は125あり、中山間地域等直接支払制度の対象となる集落は、平野を除く96集落であり、取り組んでいるのはそのうちの88集落である。面積は、全1,085haのうち995haである。
役所が最も勧めているのが集落営農である。個人ではなく、大きな組織で農業をするということに関しては、すでに始まっている農業の法人化も有効であるといえる。さらに、町で力を入れているのは新規就農者の獲得であり、全国に向けてPRをしているところである。外からではなく、町中で農業を振興させる策としては、地産地消を促進させることが挙げられる。有機栽培や美土里堆肥の使用も地産地消の一つであり、ブランドとして販売に有効に生かすことが可能になる。
耕作放棄地の有効利用、町のよいところを生かすオーナー制度では農業体験ができ、都市と農村を結ぶ橋渡しの役目を果たしている。
第5章 おわりに
茂木町は人口が減少し高齢化が進んでいる。農業に関しても同じことが言え、このまま何の対策をとらなければ、茂木の農業はどんどん廃れてしまう危機的な状況にあると言える。ただ作物を作ればいいという時代は終わった。これからを生き残っていくためには頭を使う必要がある。自分だけの利益を求めるのではなく、広く、多くの人とかかわりながら情報を提供しあい、集落全体、町全体で助け合うような姿勢が理想だと考える。
また、都圏農業をすることが可能な位置にあるので、地産地消の精神は守りながらも、人口の少ない茂木町での消費ばかりを考えるのではなく、外の消費者を獲得したい。ある程度の競争意識は農家のやる気にもつながる。茂木というブランドの野菜や米を認知してもらうことができるようになれば、町の活性化にもつながる。人が生きるための基本は食べることである。農業が元気ならば、町も元気になるのではないだろうか。一人一人が、自分たちの集落が将来どうなるのか、自分の町をどうしていきたいのか真剣に考えることが必要である。
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鈴木譲二 | 埼玉県・千葉県における買物行動圏の変化 |
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第Ⅰ章 はじめに
私達の生活にとって購買行動とは切っても切れないものである。様々な財やサービスが誕生することで、消費者の購買行動はますます多様化している。なかでも郊外型大型店舗の進出とモータリゼーションの普及は購買行動の拡散化の大きな要因と言われている。そこで本研究では消費者の購買行動に様々な特徴が見られるであろう埼玉県、千葉県を対象に購入品目による消費者の行動の違い、大型店舗の郊外化が消費者に及ぼす影響、そして利用する交通機関の実態から購買行動を多面的に見つめ直す。その結果、消費者が望む小売店の形態、今後の新店舗立地の方向性を見出していくことを目的とする。研究の方法として、まず両県における財の種類と購買先の特徴について、市町村別商品別買物等場所の統計資料過去3年分(埼玉県…1989,1995,2000年、千葉県…1988,1994,2001年)を処理し比較をする。次に大型店舗の出店状況に関しては、市町村別店舗数の比較とその立地場所から考察を行い、最後に購買行動と自家用車の関係について、両県における自家用車の保有実態の変化を市町村別に把握することで考察していく。その際、地理情報分析支援システムMANDARAにより作成した地図を用いることで空間的な視点からの検討をしていくとともに、両県が消費者に対して行った購買行動に関する意識調査の統計結果も随時参考にしていく。
第Ⅱ章 財の種類と購買先の特徴
財は商品特性により「最寄り品」と「買回り品」に分類が可能である。最寄り品は最寄りの店舗など身近なところで購入する傾向の強い商品を指す。一方買回り品は、品質や価格などの面において複数の店舗や類似商品を十分に比較検討した上で購入する傾向の強い商品を指す。また最寄り品は比較的低次な財が多く購入頻度が高い、逆に買回り品は高次な財が多く購入頻度が低いというのも大きな特徴といえる。ここでは最寄り品と買回り品による購買先の違いを明らかにするため、生鮮食料品、紳士服、家具・インテリアの購買先に着目した。
まず生鮮食料品における購買先の特徴として地元購買率が非常に高いことがあげられる。しかし地元購買率の変化としては減少傾向にあり、隣接する他市町村への移動も増加している。よって最寄り品の購買先は、狭い範囲に設定されるが、その範囲は多少広がってきているといえる。一方紳士服、家具・インテリアにおける購買先では、生鮮食料品に比べ地元購買率の低い町村が多く、なかには地元購買率0%の町村も存在する。地元購買率の変化では、増加している市町村が多く、他市町村への移動は若干減少している。特に東京都への移動は大幅に減少しており、都心離れが進んでいる。また他市町村への移動は中心都市と周辺町村の間に多く見られ、多少距離の長い移動もある。つまり買回り品はその購買先が比較的広い範囲に設定されるが、中小都市を中心に地元での購買が増加しており、それぞれの市における独自の商圏が形成されつつある。
第Ⅲ章 調査地域の店舗出店状況
大型店舗(店舗面積1000㎡)の店舗数に着目すると、県全体で大きく増加しており、市町村別でも増加なしという市町村はあっても減少を示した市町村はひとつもない。また大型店舗は小売業年間販売額、各商品の地元購買率が大きい市町村への出店が多い。つまり大型店舗は多くの集客が望める都市部を中心に店舗数を急増させ、その各市町村における小売業年間販売額、地元購買率に大きく貢献していると考えられる。大型店舗の立地展開の特徴について店舗面積に着目した場合、より大きな店舗は百貨店など古くからの商業中心都市の駅前に多く見られ、総合スーパーの規模になると中小都市や小規模な市や町にも出店が見られるようになるが、主要道路沿いへ大きな店舗が立地している例も少なくない。続いて開店時期に着目した場合、開店時期の早い店舗ほど駅前に立地している割合が高いのに対し、開店時期が最近になるほど駅前を離れ主要道路沿いへ出店する店舗が目立つ。つまり最近になるほどより広い店舗がロードサイドに出店されており、郊外がこれからの市場として重要視されていると考えられる。
郊外型店舗を各県における意識調査から消費者側の視点で捉えると、消費者は多種多様な商品を安価に購入できる買物施設を希望しており、駐車場の面などその目は確実に郊外に向けられている。実際に消費者の郊外型店舗の利用頻度は非常に高く、紳士服チェーン店を例に挙げると、中小規模の小売店もほぼ主要道路沿いに立地し、郊外型専門店とでも呼ぶことができるほど郊外は注目されている。
第Ⅳ章 購買行動における自家用車の利用
モータリゼーションの普及はどの程度進んでいるのか、またどのような特徴があるのかを把握するため、埼玉県、千葉県における自家用車保有実態を市町村別一人あたり自家用車保有台数から考察していく。すると両県において都心から離れた地域ほど自動車の保有率が高く、都心へのアクセスが良い地域では保有率が低いといえる。また全市町村において一人あたり自家用車保有台数は増加しているが、ここでも都心から離れた地域ほど比較的増加率が高い。よってモータリゼーションの普及の特徴として、都心へのアクセスが悪い地域ほど自家用車への依存度が高いといえる。
次に各県による消費者へのアンケートから自家用車の利用状況を見ると、買物における自家用車の利用率が高い地域と一人あたり自家用車保有台数の多い地域は一致している。また購買行動における各市町村から他市町村または県外への移動と市町村別一人あたり自家用車保有台数の関係においても、最寄り品、買回り品ともに他市町村への移動が見られる市町村の一人あたり自家用車保有台数は高い。
よって自家用車が購買行動においても非常に大きな役割を果たしているといえる。
第Ⅴ章 おわりに
最寄り品と買回り品の購買先の変化から、各中小都市は独自の商圏としての地位を着実に高めており、従来の商業中心都市における集客力はますます弱まっているといえる。さらに東京都が商圏として地位を低下させている一方で、群馬県、栃木県が埼玉県に対し、茨城県が千葉県に対しそれぞれ集客力を増しているという結論も得られた。また中小都市がそれぞれ独自の商圏を形成するためには、消費者に求められている大型店舗の立地展開が不可欠といえる。中小都市は人口増加率が高く、これからの市場としての評価が非常に高いことも商圏の形成を後押ししていると考えられ、大型店舗のみならず、紳士服チェーン店をはじめとする専門店も数多く参入している。さらにモータリゼーションの普及もロードサイド型店舗との関連が強い。このように大型店舗や専門店の郊外化が自家用車の利用と相互作用的に働きあうことは、中小都市を中心都市にほぼ劣らない一つの商圏にまで変貌させる影響力を持つといえる。
しかし売り手側、消費者側双方から歓迎され、今後もますます新規出店が見られると思われた郊外型大型店舗だが、「都市計画法改正案」が国会で可決された場合、新規出店ができなくなるため総合小売店の出店先は非常に不透明になるといえる。そうなると総合小売店などでは出店のほとんどを差し控え、当分は既存の商店のサービスを向上させていくことが予想され、規制の対象にならない郊外型専門店がこの立地場所に大きく参入してくる可能性も考えられる。よって各会社の今後の立地展開と
消費者の動向から今後も目が離せない。
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山口雄介 | 日本の合併、野田市・関宿町の合併 |
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Ⅰ.はじめに
『市町村の合併の特例に関する法律』いわゆる”合併特例法“の期限が2005年3月31日までということで、全国各地の市町村で合併が行われている。私の住む千葉県野田市も例外ではなく、2003年6月6日をもって同県の関宿町との合併を果たした。
ところで日本の合併の歴史は古く、明治、昭和と過去に二度の合併を経験している。この論文では、その過去の合併がどのような目的でどのように進められていったのか、また現在行われている合併がどのようなものなのかを調査することを第一の目的とする。
第二の目的は、市町村合併の際に重要な要因となってくる行財政の問題だが、ここでは千葉県の市町村を事例にしてその財政力指数の統計を読み取り、合併との関連性を調べるということである。
第三の目的は、千葉県(旧)野田市・(旧)関宿町における合併の要因・詳細について調べ、合併の意味を考えたい。
Ⅱ.明治・昭和の大合併
(1)廃藩置県
1869年,新政府が大名の土地と人民の支配権を朝廷に返させ中央集権化をはかったのが版籍奉還だ。しかし版籍奉還後も知藩事と領民の事実上の封建制度の関係は変わらず、それを改めるために実行されたのが廃藩置県である。
(2)「明治の大合併」
その後制定された大区小区制、郡区町村編成法を経て1889年4月1日に施行されたのが市制町村制である。その年に行われた町村大合併がいわゆる「明治の大合併」だ。内務大臣訓令のもと、300~500戸を標準とし全国一律に断行。政府は市町村を、教育・徴税・土木・救済・戸籍等に適した規模に設定し、中央集権的な国家の骨組みを地方まで行き渡らせようとした。これにより1889年末には、71314あった町村が約5分の1の15859市町村に合併された。
(3)「昭和の大合併」
おおよそ1953~1961年に行われた「昭和の大合併」だが、戦後新憲法に地方自治が位置づけられたこと、6・3制の義務教育と自治体警察の設置、シャウプ勧告を要因に合併が促進され、1953年に成立したのが町村合併促進法である。同年の政府の市町村合併基本計画の大綱では、人口が8000人未満の小規模町村を促進法有効期間内に合併させることとし、1つに1500町村を人口8000人以上の大規模町村に合併させる、2つに6332町村を1583町村に減らす目標を掲げ合併を行った。結果、町村合併促進法施行前の9895市町村が法失効時の1956年には約3分の1の3973市町村に減少。1956年、新市町村建設促進法が成立すると、未合併町村に対しての罰則規定を盛り込み、半強制的に合併させようとする政策がとられた。1958年の全国町村会定期総会は「町村の現状は規模の拡大にもかかわらず、行政水準はなお停滞を余儀なくされている」とした。
Ⅲ.「平成の大合併」
(1)「平成の大合併」の概要
『市町村の合併の特例に関する法律』(以下、合併特例法)の期限2005年3月31日を目標に、政府は更なる合併を推し進めている。『市町村行政の広域化の要請に対処し、自主的な市町村合併を推進し、あわせて合併市町村の建設に資することを目的とする』趣旨だが、合併協議会の設置、住民発議制度、また議会の議員に関する特例、地方税の不均一課税、地方交付税の額の算定の特例、地方債の特例等がそれに当たる。特に期限内に実行することによって生じる財政面での優遇、つまり合併特例債・合併算定替に市町村は食いついている。
(2)財政力指数で見る「平成の大合併」~千葉県を事例に~
財政力の弱い地域は合併特例法を借りて合併しようという傾向にある。合併によって少しでも行政の効率化や財政の維持を図ろうとする市町村の姿がうかがえる。地理的な条件で合併するしか手段がないような地域もある。また今回合併を果たした、もしくは果たす市町村の態度として基本的に、歴史や文化など伝統的なものを大事にしていくが、新しいまちづくりへの積極的な姿勢が見受けられる。
Ⅳ.野田市・関宿町の合併について
(1)野田市・関宿町の沿革
野田市・関宿町は千葉県の北西部、関東平野の丁度真ん中に位置し、東を利根川に西を江戸川に、南を利根運河に囲まれ、茨城県・埼玉県・県内の柏市・流山市と隣接している。1965年頃からの人口増加により、関宿町は野田市との合併を試みたが、関宿町民および野田市のコンセンサスを得るには至らず、合併は実現しなかった。
(2)合併への動き
2000年、県の市町村合併推進要綱素案を受け関宿町が合併意向の表明、野田市は検討に入った。市町村合併推進要綱を策定した県は、翌年「市町村合併支援本部」を設置。県と野田市の検討を経て、野田市・関宿町が県内第1号合併重点支援地域へ指定されることが正式に決定された。両市町は、合併に向け住民のコンセンサスを得られる新市建設計画が必要と考え、計8項目の事業実施を要請。野田市の道路整備は、駅へのアクセスの向上、野田・関宿地域の外環道路の形成、県外の地域との結びつきの強いまちづくりを目的とし、関宿町の方は、野田市との一体性の強化、圏央道へのアクセスの向上を目的としている。
(3)合併協議会の設立
まず「野田市・関宿町合併問題研究会」が発足。2002年の3月会議で、野田市・関宿町合併協議会設置の議案が可決され、協議会の発足に至った。協議の進め方は、「事務事業調整」と「新市建設計画」を同時に並行していくものとした。計9回の合併協議会を経て2003年の合併にいたった。
(4)合併後の状況
「平成の大合併」の波にうまく乗り、地理的にもつながりの深い関宿町との合併を試みる姿勢が見受けられる。合併の特例による財源で、新しいまちづくりを推進する動きが見える。合併のメリットを市民に享受してもらうために、新市建設計画を確実に推進することが必要とされる。合併によって様々なサービスの提供や事業が可能となるわけであるが、目先の利益だけを考えずに志を高く持って取り組むべきであろう。
Ⅴ.おわりに
以上の三点について調べてきたが、第Ⅱ章では明治維新後からの町村の様子、明治・昭和の合併についての目的・内容・背景等を調査できた。第Ⅲ章の(1)では「平成の大合併」についての概要調べ、(2)では千葉県の市町村の財政力指数と市町村合併の関係を調査し、その関係が深いという結果を得ることが出来た。第Ⅳ章では野田市・関宿町の合併について掘り下げて調査し、市町村合併の具体的な内容について理解が深まった。また地域住民にとっての合併の意味を知ることも出来た。
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2004年度卒業論文 |
飯田貴美子 |
明治後期の埼玉県における商業の展開と中心地 |
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I はじめに
私たちが生活のなかで利用している財やサービスを提供する商店はその財の種類によって階層構造をもって立地している。これをクリスタラーは中心地理論をもって説明した。現在では都市化の進展や交通網の発達、産業構造の変化などから中心地理論が適応できないといわれている。しかしクリスタラーが中心地理論を唱えた時期と近い明治後期であれば、中心地理論に近い中心地の展開となっているのではないか。埼玉県においては、明治後期の商業活動が各町ごとに記載されている『埼玉県営業便覧』(1902)という資料がある。これを中心地理論に照らし合わせることができるのではないかと考える。
これらをふまえた上で本論文では、明治後期の埼玉県における中心地構造を明らかにする事を研究の目的とする。そのために、『埼玉県営業便覧』の分析によって明らかとする商業構造を中心とし、背景となる人口規模、交通条件などをふまえて考えていく。
II 明治後期の埼玉県の概要
明治後期の埼玉県について、人口、交通、定期市の3点からその概況を明らかとした。
まず、人口規模によって43町村を5つの階層に区分した。川越町が突出した人口規模をもち、県内最大の町であったことがうかがわれ、熊谷町がそれに続いた。地域的な展開としては、北西部に位置する秩父、児玉、大里、北埼玉の各郡は1町か2町に人口が集まり大きな都市が形成されている一方、南東部に位置する北足立、入間、比企、南埼玉、北葛飾の各郡は町の数も多くそれぞれが近接していて小規模であり商業構造も分散するのではないかと考える。この地域的な展開が中心地の展開にも影響を与え、北西部に高次な中心地が多く立地することが予測される。
近世以前には浦和町、川越町、熊谷町、忍町、豊岡町、幸手町、岩槻町などが主要街道である中山道と日光街道をはじめとした各街道の要衝や宿場町なっていた。明治期に入ると鉄道が登場し、上野・高崎間を通る日本鉄道第1区線をはじめとして明治35年までに県内には5本の鉄道が通った。鉄道は多くが近世の主要街道に沿って作られたが、その輸送力の大きさでそれぞれの町の機能を更に補強する形となった。また、馬車会社や馬車鉄道が既成鉄道と町をつなぐようにして登場し、鉄道の補助的輸送手段となったところもあった。
近世以前の商業の様子である定期市は明治後期になると近世後期と比べて市の数が少なくなっているところもある。市の機能が変化したことや周辺の商業機能が高まったことが原因と考えられる。明治後期に開かれていた市は多くが近世後期からも開かれており、古くから商業が盛んであったところであるといえる。
III 商業の展開と中心地の階層区分
『埼玉県営業便覧』には商店一軒一軒の業種名が記載されており、その業種と表記は多岐にわたる。これを中心地理論に合うように、営業形態によって小売業、卸売業、製造業に、さらに小売業を購入頻度によって日買物財、月買物財、年買物財に業種の分類を行った。そして43町村での商工業の様子を84の業種に分類し、これをもととして財の種類数、財の機能単位数、小売業の種類数、小売業の立地状況という4つの指標から階層区分をした。それらの階層の値を平均することによって埼玉県における中心地構造を明らかとした。
第Ⅰ階層として川越町を区分した。川越町はどの指標においても第Ⅰ階層に区分され、人口規模と同じく商業機能の点でも最も高次な中心地であった。
第Ⅱ階層として、鴻巣町、本庄町、熊谷町、加須町、幸手町を区分した。加須町、幸手町の人口規模は少なかったが、5町はそれぞれ鉄道駅や宿場町などで要所となっていた町である。地域的な展開を見ると、南西部は自然条件の影響を受け、南東部は小さい町が多かったことから、第Ⅱ階層の町はやはり北部に集中している。第Ⅰ階層である川越町から多少のずれはあるが25kmから30km圏内に位置する町が多く、一定の距離内にあると考えられ、中心地理論に近い展開となったといえるのではないか。
第Ⅲ階層として浦和町、松山町、深谷町を含めた9町を区分した。それぞれの郡の中心的な都市であるといっていいだろう。町同士の間隔は15km程であるところが多いが、南東部では浦和町だけの立地であった。第Ⅳ階層として、大宮町、越ヶ谷町など11町を区分した。上位階層に立地の少なかった南東部に多く、商業規模としても人口規模としても小規模な町に分散していた。そして第Ⅴ階層として17町村を区分した。
以上のように、明治後期の埼玉県の町を5つの階層に区分したところ、人口条件や交通条件が影響してはいるが中心地理論に近い中心地構造となった。また、県北部の大規模都市集中と県南部の小規模都市分散という構造の違いも明らかとなった。
IV 上位階層の町の業種構成と現在との比較
上位階層に属したいくつかの町をとりあげて、第3章の分析によって明らかとなった町の業種構成を見ていくことから当時の町の様子を明らかとした。明治後期におけるそれぞれの町の業種構成や産業の特徴、周りの町との関係性、そして現在の産業へのつながりの見えるものとなった。
また、そのなかでも熊谷を取り上げて具体的に現在の町との商店の比較を試みた。そして23軒が商店として残っていることを確認できた。違う業種の商売をしている商店もある一方同じ業種を継いでいる商店もあり、中山道沿いに多く残っていた。これらが熊谷の老舗といえるのではないか。残っている商店を知ることは、かつての様子を今に残すものとして意味のあることだろう。
現在も地域の名産となっているものもあれば既にみられなくなっているものもあり、地域の歴史や文化の発見のための資料としての活用ができればと思う。
V おわりに
『埼玉県営業便覧』の分析によって、明治後期の埼玉県の43町を5つの階層に区分することができた。そしてそれらは人口規模や交通条件などに影響されながらクリスタラーの中心地理論に等距離での配置や中心地の数などの点で近いところのみられる中心地階層の展開をしていたことを明らかとした。
本論文では資料の収集が難しく、特に明治期の業種構成については曖昧な点が多いままであった。統計資料の発掘や業種分類の仕方、階層区分の指標の立て方を工夫することでより正確な階層区分が得られるのではないだろうか。
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池田祐子 | 埼玉県における高齢化の現状と居住型介護サービスの供給動向 |
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I はじめに
本研究では、高齢化の現状を踏まえた上で埼玉県における居住型介護サービスの供給動向と立地に注目し、特に増加が著しいとされる痴呆性高齢者グループホームの立地特性について明らかにすることを目的とし、これらのサービスの適切な供給と今後の高齢期の居住に果たす役割について考察する。研究対象地域としては、高齢者人口規模が大きく今後急速な高齢化が予想される埼玉県を設定する。また、研究方法として、統計資料をもとに高齢化の現状や高齢者福祉サービスの需給動向を明らかにすること、「地理情報分析支援システムMANDARA」によって施設種ごとの立地特性を見出すこと、県や事業主体への聞き取り調査からサービスの需給実態を明らかにすること、以上の3点を柱として分析・考察を試みる。
II 高齢化の現状と高齢者福祉サービス
日本の高齢社会の特徴は、①寿命の長さ ②75歳以上の後期高齢者の増加 ③高齢者のみで構成される世帯の増加が挙げられる。特に65歳以上の高齢者のみで構成される世帯が増加しており、高齢者の一人暮らしも増加している。このような傾向は今後更に加速するものと予想される。また、要介護認定者数は介護保険制度が始まって以来4年間で約79%増加し、介護サービス受給者数も伸びている。特に居宅介護サービスに含まれる痴呆対応型共同生活介護事業は急速に施設供給がなされ、利用者数も増えている。
一方、埼玉県の高齢化率は全国で最も低い数値となっているが、地域差が激しい上、高齢者の絶対数では全国でも6番目の多さとなっている。また、50歳代が県人口全体の15%を占めていることから今後高齢化のスピードが増すものと考えられ、高齢者対策は重要な課題だといえる。2015年には高齢単独世帯の増加率が全国1位になることが予想されており、こうした高齢者のみの世帯では、介護が必要になったときに高齢者が高齢者を介護するという状況や、介護者がいないといった状況が生まれることから、今後は更に高齢者向けの住宅や施設の需要が高まることが予想される。
III 埼玉県における居住型介護サービスの現状
介護保険制度の導入に伴い大きな変化が起こったのが、入所型ではあるが施設を「住まい」として捉え、自宅に近い居住性と介護サービスを提供する居住型介護サービスともいうべき介護サービスの利用の増加である。この居住型介護サービスには、ケアハウス、介護型有料老人ホーム、痴呆性高齢者グループホームの3施設がある。
埼玉県においてケアハウスは、需要規模の小さい埼玉県北部においても立地が見られる。ケアハウスには社会福祉法人が事業主体であれば整備補助としておおよそ建設費の4分の3が支給される補助制度があり公的な性質が強い施設だと言える。しかし、埼玉県が設定した整備目標から見ても1500床ほど不足していることから、今後も積極的な施設供給が必要な施設である。
介護型有料老人ホームは、県南部に極端に偏った立地をしており、特に中央圏域に集中している。このような立地をする理由として、有料老人ホームは1施設の定員規模が大きいために、高齢者人口が多く需要が多い地域に立地しやすいことが考えられる。また、有料老人ホームの運営主体となっているのが株式会社などの営利法人であることから、利潤追求のために利用者が多いと予想される地域に進出しようとすることが考えられる。
IV 埼玉県における痴呆性高齢者グループホームの現状
埼玉県においてグループホームは、介護保険制度が始まって以来4年間で230施設開設されており、急速に施設供給が行なわれた。事業開始当初は社会福祉法人による開設が多かったが、年々営利法人による開設が増加し、特に中央圏域と西部第一圏域において株式会社による開設が目立っている。また、事業開始当初は定員が9人以下の施設が主流であったが、株式会社などの参入に伴い定員が18人~27人の施設が増加し、グループホームは大型化した。しかし、有料老人ホームなど他の入所施設と比較して、定員数が少ない小規模な施設であるため、需要規模が小さい埼玉県北部においても立地がみられる。また、用地や建物が他の施設と比較して得やすいという点や、制度の改正という点から、運営主体が多様化にしていることも特徴的である。しかし、小規模性を生かした地域密着型のサービスがグループホームの魅力であるにもかかわらず、埼玉県では同一市町村からの入所割合が4割程度で、6割が他市町村からのいわゆる「介護移住」である。痴呆性高齢者にとって環境の変化は大きな負担を伴うため、今後は需要に応じた施設供給を行なっていく必要がある。
V おわりに
高齢者に「生活」と「介護」を提供する居住型介護サービスは、団塊の世代が高齢期を迎える今後更に需要が増加するものと考えられ、高齢者介護の中心的な役割を担っていく可能性も高い。埼玉県では施設種や地域によって供給量に大きな差があるといえ、介護サービスを受けるために住み慣れた地域を離れざるを得ない高齢者も多く存在していると考えられる。本研究では施設ごとの利用実態にまで調査が及ばなかったため、今後はより詳細な利用実態などから各施設のサービス空間を調査し、最適な施設立地を明らかにしていくことが望まれる。
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北御門孝文 | 郊外核の形成過程と発展要因-吹田市江坂地区を事例として- |
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I はじめに
最近の東京では、都心回帰などの状況もあってか、都心周辺に再開発事業や土地区画整理事業が見られ、さらなる一極集中化が進んでいるように思う。一極集中はメリットもあるがデメリットも多い。バランスを保つためにも郊外の発展は必要であると私は考える。そこで本研究は、郊外における都市計画のなかでも成功していると思われる大阪府吹田市江坂地区をとりあげ、その発展状況と要因を考察することで、都市計画を実行し、それ以後に都市の成長に必要な条件とは何であるのかを明らかにした。江坂地区を郊外の就業地区、商業地区としての側面から、人の動き、イメージを含め考察し、多面的な郊外核の発展状況と要因を検討した。
研究の方法としてはまず、多面的な考察を加えるため、以下のさまざまな統計資料を処理し、考察した。また、考察には数値を見るだけでは空間的な広がりの検討が難しいことから、谷の開発した地理情報分析支援システムMANDARAを使用し、地図を作成した。
まず、国勢調査において京都府・大阪府・兵庫県・奈良県・和歌山県それぞれの市区町村別就業者人口、また大阪市北区・吹田市を従業地とする従業者数とその常住地市区町村によって通勤率を算出し、通勤率の高低による広がりを通勤圏の広がりとした。その通勤圏の広がりを年次推移で考察した。これは、郊外核や都心の影響範囲を人の動きを中心に検討することを目的とし、通勤圏の広がり方によってそれぞれの都市の就業機能の影響範囲の考察を行った。
次に、通勤以外の人の動きを考察するため京阪神都市圏交通計画審議会によるパーソントリップ調査を利用した。国勢調査における通勤圏の検討は、就業機能のみの考察にとどまってしまう。対してパーソントリップ調査は、各ゾーンに対する出勤目的トリップ、業務目的トリップ、自由目的トリップなど目的に応じた人の動きを考察することができる。
事業所・企業統計報告書では、市町村別統計と吹田市の町丁別統計の2種類を処理した。これらは、就業機能、商業機能の拡大を事業所数や従業者数の拡大で考察しようと考え利用した。
地価公示に関しては、地価は都市の価値を表すと考え、地価の推移による都市機能の向上を考察に加えることができた。
そして、住宅地図であるが、これは江坂地区における発展状況を、空間的に考察することができたほか、研究対象地の範囲で事業所数などを考察することができた。また、変化の著しかった時期においては土地利用用途区分図を作成し、江坂地区の発展状況を考察した。
II 吹田市の郊外核の傾向と特性~都心との傾向比較~
1.通勤圏の広がりによる傾向比較
京阪神奈和の就業者人口は1975年以降1995年まで増加し続けているが1995年以降2000年まで減少している(図3-1)。これには、団塊の世代のリタイアや少子化など、人口構成の変化の影響があると考えられる。このことから、通勤者数や就業者人口のみでの通勤圏の広がりは考察できないと判断し、従業地による常住市区町村別15歳以上就業者人口/各常住地市区町村の就業者人口で求め、それを通勤率とし、その数値で判断することにした。
それぞれの地区の通勤圏の広がりは、拡大すればするほど、その地区には求心性の高い就業施設が立地すると考えた。大阪市北区・吹田市への通勤率推移(2000年上位10市区町村)を見ると、大阪市北区において2000年の通勤率の上位10市区町村は、やはり周辺市区町村が挙げられるが、そのほとんどの通勤率推移で減少傾向が見られる。それに対して、吹田市においては、2000年の通勤率の上位10市区町村は大阪市北区と同様、周辺市区町村が挙げられるが、そのほとんどの通勤率推移で増加傾向が見られる。
大阪市北区・吹田市への通勤率を示した地図を見ると、大阪市北区への通勤圏の広がりは、北大阪を中心に通勤率が高く、1970年から2000年まで大きな変化は見られない。
吹田市においては1970年には周辺市町村からの通勤率も高くはなく、概ね15㎞圏までが通勤率1%の通勤圏であった。通勤者増加数も考察すると特に1980年から1985年の間で増加が著しい。
2.パーソントリップ調査による傾向比較
吹田市・摂津市は、出勤目的発生量は増加しているものの、それ以上に出勤目的集中量の増加が顕著であること、また出勤目的集中量は数としても少なくないことから、この傾向は大きなゾーンの性格の変化を示していると考える。これは、ゾーン内から他ゾーンへ出勤する人も増加しているが、それ以上に、他ゾーンから吹田市・摂津市に働きに来る人の増加が顕著であるといえ、吹田市・摂津市は他ゾーンに対する住宅地としての機能も持ちつつ、郊外核としての求心性も1970年から1980年の10年間で持ちつつあることを示している。
3.事業所数と事業所の産業構成による傾向比較
事業所数の推移であるが、大阪府全体・大阪市・吹田市ともに現在は減少傾向にある。これは、京阪神大都市圏全体で事業所が減少している傾向から見られるものと考えてよい。しかし、着目したい点は事業所数が減少に転じた時期である。大阪府全体では、1991年までは増加しているが、1996年以降減少している。これは、バブル崩壊以後の景気減速が影響していると思われる。大阪市では、1986年までは増加しているが、1991年以降減少に転じている。これに関してバブル以後の減少は、大阪府全体と同様の影響が考えられるが、バブル崩壊以前に事業所数が減少に転じたのは、事業所の郊外化の影響も受けている可能性がある。そして、吹田市では数としては少ないものの、1996年まで増加傾向であり、他の二つと異なり事業所数としてはバブル崩壊の影響はあまり見られない。加えて、1996年以降の減少は京阪神大都市圏全体の事業所数減少からきているものであり、吹田市が起因するものではないと考える。
4.地価公示の状況
1987年の地価指数で見ると、大阪府全体では494、大阪市では601、吹田市では755の指数であるのに対し、江坂地区では1719と上昇が急激であった。バブル経済は土地神話によって投機的に土地が購入されたのではあるが、1983年から1987年、またこれ以後の江坂地区の地価の急激な上昇を説明するには、背後にある経済的状況に江坂地区において実際の土地需要があったことを加味しなければならないと思われる。
III 吹田市江坂地区の発展過程~オフィスの集積をふまえて~
1.吹田市江坂地区の概況
土地区画整理当初から商業地域の指定であったため、容積率600%、建ぺい率80%の設定で、1972年には14階建ての大同生命ビル(図11-1,2,4)が立地し、1975年には19階建てのダイエーオフィスビル(現在の江坂東洋ビル)(図11-3,4)が立地した。しばらくは水田、空き地の多く残る状況で、オフィスビルとマンション兼商業ビルの立地が続くが、1983年14階建ての東急ハンズ・東急イン(図11-5)が立地した。大阪では「江坂は東急ハンズのあるところ。」として認知されており、また「リトル東京」とも呼ばれるなど、この東急資本が江坂地区のイメージに与えた影響は計り知れない。
2.住宅地図での吹田市江坂地区の状況分析
住宅地図の変容から、概ね3つの時期区分ができた。
まず、1970年から1982年までは大規模なオフィスビルの立地が進んだものの、依然として空き地が多くマンションなどの住宅の立地と、オフィスビルなどの就業施設の立地が主で、大規模な商業施設の立地は見られていない。この時期を第1期とする。
対して、1983年以降は土地区画整理事業の及んだ江坂駅から離れた街区での、オフィスビルやマンションの立地が見られた。また、江坂駅周辺の街区では1983年の東急ハンズ・東急インなどの商業施設が立地し、これ以後しばらくの間、江坂駅周辺の街区では商業施設の集積が見られた。1983年の東急ハンズ・東急インの立地が商業施設の集積に影響を与えたと考え、1983年から1991年までを第2期とした。
1992年以降は、それほど大きな変容が見られないため、この時期からを第3期とした。
3.事業所数による状況分析
1年ごとの事業所増加数(図14-2)をとってみると、1970年から1979年の9年間の1年ごとの事業所増加数は19.56、本所・支所事業所増加数は2.00、支所・支社事業所増加数は5.67、単独事業所増加数は11.89であった。これは意外にも1982年から1984年の増加数と比較するとあまり大きくない。1979年から1986年の期間において江坂の事業所が最も増加したのは1984年から1986年である。この期間の事業所増加数は55.50、本所・本社事業所増加数は4.50、支所・支社事業所増加数は22.00、単独事業所増加数は29.00と、単独事業所が1984年から1986年のほうが大きいことを除いては、一番増加している期間といえる。
IV おわりに
1.まとめ(発展の様相と要因検討)
①郊外核として発展するには適切な都市計画が必要である。
②都心と直結し、なおかつ都心への到達時間が短い。
③求心性の高い就業機能を持つ企業の立地(江坂地区の場合第1期)が必要である。
④求心性の高い商業機能を持つ企業の立地(江坂地区の場合第2期)が必要である。
⑤地区のイメージの構築、情報発信基地としての役割が必要である。
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増田勝利 | 高速(長距離)バスを中心とした交通体系の変遷 |
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1.はじめに
身近な交通機関である鉄道は、その性質から長年近距離~長距離と幅広い需要に応えていた。一方でバスは駅から地域へといった路線バスのような近距離輸送を目的としたものという捉え方をされてきた。しかし近年、バス交通が中・長距離の都市間の輸送にも進出するようになり、大都市から地方都市へ、またさらに最近では地方都市間相互に路線が設定されるようになってきた。そこで今回はその「高速バス」を、路線網の変遷からどのような交通体系の中で存在しているかを考えることとした。今回は「高速道路を使用し都道府県境を越えて運行されている路線」を中心に見ていくことにする(一部高速バスを利用しない都市間バスを含む)。
2.高速バス路線網の変遷と、それを取り巻く環境
高速バスは平成に入ってからの十数年でかなりの利用者を獲得してきた。ここ数年路線数は頭打ち傾向が見られたが、最近ではまた伸びが見られる(5章で述べる)。またバス全体に占める高速バスの割合は1%前後であるが、バス交通全体の利用者が減少している中で高速バスが順調に利用者を増やしており、バス業界の優等生とも言える。
●高速バス黎明期(1965~1985)
高速道路網が未発達であったから“長距離”バスと言ったほうが相応しいかもしれない。しかしこの時期は新全総で提唱された「大規模プロジェクト方式」によって大都市圏から各地へと高速道路や新幹線が延びていく時代であり、それとともに高速バスも徐々に路線網を延ばしていった。
東京23区発では、昼行バスが東名道の全通(1969、昭和44)を機に東京-名古屋便の他、静岡・浜松へと向かう便が開設された。全通する前の中央道方面へも路線が延び、特に山梨の河口湖への路線は観光需要に支えられた性格の路線と言える。大阪や名古屋を発する路線も開設された。名古屋-京都・大阪便は名神道(1965、昭和40)の開通直後から設定されていた。これが日本初の“高速”バス路線である。また大阪からでは1980年代に中国道の開通・延伸に応じて中国地方中部へと路線が開設されている。名古屋からの路線では長野県南部へ向かう便が開設され、当地と名古屋を結ぶ主要な交通機関となっていった。夜行バスはこの期間はほとんど変化がなく、東京からは高速道路の開通する以前から東北南部への便があったが、西日本に本格的に夜行バスが進出したのは1985年に大阪-福岡便が設定されてからである。
東名阪以外の地域では広島から島根県各地、高松-徳島などの路線が古くから設定されていた。また1980年代以降は高速道路網が発達してきた九州において路線網の大幅な増加が見られるようになった。
●高速バス発展期(1990~2004)
1990年以降は大幅な路線の開設が見られるようになるが、要因としてそれまで高速道路の整備が遅れていた地域への路線開設による時間短縮や、国鉄の分割・民営化による夜行列車の縮小に対応する形でバス会社の参入が行われたことが上げられる。東京23区からの便は近隣の県への路線開設、増便などが行われた。1990年にはピークを迎えた昼行バスはここ数年は既存路線の強化が主眼となっている。夜行バスは大きな転機となり、夜行列車に代わる交通手段として九州方面を除く各地へ展開していった。夜行バスはその性格上かなりの所要時間でも運行ができるため、昼行バスでは望めないような遠い地域へも積極的に路線を延ばした。中にはコスト面の問題で大都市側の事業者が撤退し、地方側の事業者単独運行となっている路線もある。また昼行バス同様、最近は既存路線の便数増加の傾向と言える。
大阪発の路線では、東京ほどの大きな変化はないものの、東日本へは昼行・夜行きともに新規路線の開設が行われた。西日本へは昼行は増便による輸送力の強化が行われたが夜行は路線の統合が進んだ。また夜行バスはUSJを経由する路線もある。名古屋発の昼行では北陸への路線が復活したほかは大きな変化はなく、少数ながらある夜行の路線は西日本中心に開設された。
また東名阪以外での昼行バスの開設も進んだ。東日本では北海道では札幌を、東北では仙台や盛岡を中心した路線網が展開された。夜行バスは多くないが、東京近郊の横浜などの都市から大阪近郊の都市などへの路線が開設された。これはその都市のカバーする人口に加え、直通のメリットを生かした路線であると言える。また、千葉発着の路線は大阪同様TDLを経由し、観光需要にも対応している。西日本ではこれまで以上の路線新設・強化が行われた。九州では福岡を中心にさらなる増便が、瀬戸大橋開通による中国-四国間の路線や、高速道路網の発達による四国内各都市を結ぶ路線が開設された。そして西日本では各都市間が近接していることから東日本に比べ夜行バスは成立しにくいようである。
3.高速バス路線網において特徴的な地域
高速バスは、当該地域の運行形態や他の交通機関との関わりから、以下の3パターンに分類できる。
①高速バスが地域の主要交通手段となっている
東京・名古屋-長野県南部、広島-島根県各地など。鉄道がその設備から需要に応えることが出来ない場合、高速道路開通をきっかけに高速バスが地域の主要な交通機関となった地域。
②高速バスが他の交通機関と競合関係になっている
福岡-長崎・熊本、東京-甲府など。鉄道もある程度本数を持つが、高速バスはさらに高頻度で運行することにより利便性を高め利用者を得ている地域。一方(両方)が大都市の場合成立する可能性が高い。
③高速バスが他の交通機関を補完している
東京-青森・秋田など、夜行バスが運行されている地域に多い。昼間は航空・鉄道の輸送力・スピードに全く歯が立たないが、その両者が不得手とする夜間に運行することにより昼間の交通を補完している地域。寝台特急の料金の高さから、現在では夜間交通の主役となっている。
4.夜行バスの有効性
夜行バスの路線では高速道路網の発達で時間短縮が可能になった路線が多くあるが、それにより利用しやすい時間帯での運行が可能になった例もある。あまりにも夜浅い時間に出発し、昼近くに到着するようではあまり夜行のメリットはない。夜行バスを展開する事業者が“眠っている間に目的地へ”や“時間が有効に使えます”というPRも実はかなり重要な要素である。中にはかなりの所要時間でも、直通するメリットが昼間の交通の不便さに勝っているために成立している路線もある。
5.バス業界における規制緩和と最近の動向
1999(平成11)、2000(平成12)年に行われた道路運送法の改正により、新規参入がしやすくなり、また同じ路線でも事業者間で運賃が異なる設定ができるようになった。これによって東京-大阪間では低運賃の便を設定することにより利用者の獲得に成功したが、仙台-福島間などでは新規参入によって大幅な便数増加とともに割引競争が起こり、新規参入した事業者が撤退するといった例も出てきている。
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山本隼人 | 青森県県南地方における稲作と冷害に関する考察-六戸町を事例として- |
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I はじめに
本研究では、青森県の県南地方における冷害と水稲栽培を中心とした農業に焦点を当てていく。まず、ヤマセ常襲地帯の下での近年の水稲に対する冷害とその被害を把握し、青森県六戸町を具体的調査地域として、昨年の2003年冷害を通して、農家の人々が採用している冷害に対応するための諸対策を把握し、その対策の有効性を行政や各関係機関の様々な取り組みなどを踏まえて考察する。さらに、「売れる米づくり」が必要とされる中で、県南地方においてはいつ来るのか分からない冷害という潜在的ハンディを背負いながら、他の稲作地域より一層厳しい現実と対峙している。そこで、六戸町を具体的調査地域として、冷害常襲地帯で水稲栽培を行っている農家の人々と行政・各関係機関は、これからの水稲栽培と農業にどのようなビジョンを持ち、農業に取り組んでいるのかといったことを明らかにし、実際の農家の人々の声や行政の取り組み、これからの課題や展望を踏まえて多面的に考察していく。研究方法は、各種統計資料の分析、ヤマセや冷害に関する文献・新聞記事やインターネットの資料を調査し、また関係機関への聞き取り調査、六戸町の農家に方々に対するアンケート調査を行い、現状を鮮明にしながら考察していく。
II 青森県における冷害について
県南地方に冷害をもたらす最も大きな元凶といえるものが、夏場に卓越する低温で湿った北東風「ヤマセ」である。ヤマセは梅雨期から夏場にかけてオホーツク海高気圧が停滞し日本列島に張り出した時に吹きやすく、昔から「ケガジ(飢饉という意味の方言)は海から来る」といわれてきた。ヤマセが強く吹き、それに伴う低温・日照不足が顕著になると元来熱帯性の植物である稲にとっては、大きな生長の阻害要因となる。このヤマセの県内における影響は脊梁山脈である八甲田山を境としてその度合いに違いが見られ、ヤマセの影響は津軽地方に比べて県南地方において特に顕著である。
ヤマセによる冷害は、低温や日照不足が稲の生育過程のどの時期に訪れるかによっていくつかに分類することができる。すなわち、生育が全般的に遅れる「遅延型冷害」、稲が低温に弱い時期に、強い低温が襲来して起こる「障害型冷害」、両者の併発した「混合型冷害」、低温や日照不足によって起こる「いもち冷害」である。青森県は、およそ3年に1回の割合でこれらの冷害被害に見舞われ、寒冷地での稲作技術が進歩した近年においても頻繁に発生しており、実際のところはいつ冷害が起こってもおかしくない状況といえる。冷害は、地震などといった災害と比較して、災害の形を現すのに比較的長い期間を要し、また農家の人々にとっては、「米を作ること」=「自分達の生活を維持・発展させていくための一つの重要な営み」であるため、冷害が襲来した時に、いかにその被害を軽減するための対策を採用するかが重要となってくる。
III 六戸町における冷害に対する諸対策
六戸町は2003年冷害において、主力品種である「ゆめあかり」や「むつほまれ」を中心に大きな被害を出した。この年は6月下旬からのヤマセと梅雨入りの影響に伴う極端な日照不足と低温、そして7月下旬と8月中旬に強度の低温に襲われ、7月中旬にはいもち病が発生、9月・10月の登塾期の気象条件も平年より悪く、大冷害が決定的となった。この年の冷害は、手をかけて順調に育てていた農家ほど、稲の生育が良かったために8月中旬の強い低温と重なり、減収になってしまったという大きな特徴がみられた。また、耐冷性「強」の「ゆめあかり」は生育が早かったために不稔が多発し、耐冷性「中」の「むつほまれ」は「ゆめあかり」よりも生育が1~3日遅れたために不稔が少なかったという事例も多く確認された。
これらの冷害被害を軽減するために、三沢地域農業改良普及センターでは、町行政と連携しながら、現地調査や現地講習会、冷害を克服するための水稲栽培資料などを行政や農家に提供し、冷害被害の把握に努めた。町行政は前述の事項に加え、被災農家や被害を受けた農作物への様々な救済措置関連事業を行った。農家は、普及センターや行政の指導の下、深水管理、肥培管理、健苗育成、有機物施用や深耕などにより土づくり・根づくりといった冷害対策を採ったが、対策採用状況には若干の差異が見てとれた。また農家は、冷害の被害を受ける度に、これらの冷害対策を採用・強化させていることが分かった。今後は、関係機関と行政、そして稲作農家の人々が、より一層の強い連携と信頼関係を築き、冷害に対する対応策について共通の認識を持ち、冷害という災害に取り組んでいくことが必要である。
IV 六戸町におけるこれからの稲作と農業について
六戸町では現在、野菜の粗生産額が米の生産額を上回り、野菜栽培が積極的に行われるようになってきた。また、経営耕地面積規模別の農家数を見ると、僅かではあるが、大規模な耕地が増加してきている。六戸町は、上北農業地域において野菜の中核的生産地としての地位を占め、『青森の野菜王国「ベジタランド六戸」』をスローガンに、野菜栽培に積極的に取り組んでいる。一方稲作に対しては、冷害という潜在的ハンディ、米づくりを取り巻く厳しい情勢下の中においても、農家の稲作の重要さに対する認識はむしろ高く、日本の主食である米づくりに対して、誇りと責任感を持って稲作に取り組んでいることが分かった。しかし、県南地方の米づくりは、県産米価格の価格低迷による収益低下、度重なる冷害被害、全国の例外に漏れず、農家戸数の減少や高齢化の進行、ながいもやにんにくといった高品質の野菜が生産され、収益を伸ばしているという状況から考えると、稲作経営は無くなりはしないが否応なく減少・縮小していくものと考えられる。また、各農家の農業経営は多様で、独自の営農ビジョンを持ち、稲作と野菜、稲作と葉タバコ栽培などといったような複合経営の形態をとっている場合が多い。
V おわりに
およそ3年に1回の割合でこの地域を襲う冷害は、この地域における稲作栽培や農業に大きな影響を現在でも及ぼしている。これからは、農家と関係機関がより一層連携し、冷害やその対策方法に関して共通の認識を持つことが大切である。そして寒冷地での稲作が少しでも安定的に経営できるように、更なる寒冷地稲作技術の普及が急務である。そして、そして、農家の生産活動を支えていく町行政や関係機関には、冷害対策や水稲・野菜の栽培指導に加え、米市場や野菜市場の最新動向、消費者ニーズの実態、個々の農家の営農ビジョンの参考となるような様々な農業形態の事例紹介、新制度や政策の情報の開示や指導、後継者の育成など、農家の多方面にわたる期待に応えうるような支援・指導が必要だと考えられる。宮澤賢治の詩、『雨ニモマケズ』の詩中に「寒サノ夏ハオロオロ歩キ」という一節がある。このフレーズは、単に昔の農民と農業技術者たちの冷害に対して戸惑う姿を詠っただけではなく、現在の冷害下での稲作栽培の現状においても当てはまるフレーズではないだろうか。
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宮崎沙織 | 地方都市における郊外型大規模商業集積の立地と都市計画 |
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I はじめに-問題の所在と研究の目的-
近年、商業の立地は、伝統的な中心市街地商店街から郊外の大型小売店へと変化し、特に最近では、ショッピングセンターやショッピングモールと呼ばれる郊外型の大規模商業集積が新たに誕生してきている。このような商業集積は、広い駐車場や広い売場面積を有し、美容院や診療所、英会話教室などモノを売る以外の機能も持ち、生活の場としての役割も果たそうとしている。これまでの商業立地の変化の要因としては、人口の郊外化やモータリゼーションの影響が考えられるが、現代社会においては、行政の力、特に都市計画が大きく関わってくると考えられる。実際我が国のほとんどの地域では、都市計画による立地の制限が為されており、商業立地においても必ず関連してくるものである。よって本研究では、地方都市における、商業集積と都市計画との関連について現状とその形成過程について分析、検討を行うことを目的とする。
本研究では、群馬県伊勢崎市の郊外型大規模商業集積であるスーパーモール伊勢崎(通称:西部モール)を対象とする。伊勢崎市は近年急激に人口が増加し、市街地開発が積極的に行われている。そして多数のショッピングモールが立地しており、その中の代表的なものがスーパーモール伊勢崎(通称:西部モール)である。
II 商業立地に影響する公的規制について
産業立地を考えるうえで、公的規制は重要な存在である。公的規制は、大きく都市計画に基づく規制と、特定の事業を制限する経済的規制とに大別できる。前者にあたるものが都市計画法における用途地域規制で、後者は大型店の営業を規制してきた大店法である。まず、都市計画法は、1968年以降改正を繰り返し、用途地域を4→8→12種類と細分化していった。現在では、住居系地域が住居専用地域(4種類)と住居(3種類)に区分され、商業系地域が2種類、工業系地域は3種類に分類されている。商業統計立地環境別の総合スーパーの開設年別構成は、開設年代を追うごとにロードサイド型の立地が拡大し、住宅地区、工業地区での立地が増加している。つまりは、用途地域でいう住居系や工業系地域に増えていることを表している。また、大店法は、大規模小売店舗法(大規模小売店舗における小売業の事業活動の調整に関する法律)といって1974年に制定され、大型店の営業を規制してきた。その後1990年代になると、大店法の段階的規制緩和なされ、これに代わり2000年(公布は1998年)に生活環境保護を目的とした大規模小売店舗立地法が制定された。
III 伊勢崎市における大型小売店舗の立地展開
大型店の立地状況をみると、すでに1960年代に大型店としていせや(ベイシアの前身)伊勢崎店、高島屋、長崎屋が出店している。また1970年代前半には、ニチイ、西友が出店し、これら5つの大型店は鉄道駅に近い中心市街地(商業地域)に立地している。しかし、1980年代になると大規模小売店舗法の改正(78年)により大規模小売店舗の出店行動の制約が強められ、大型店の出店はきわめて少ない。1990年代になると、大店法の規制緩和により、大型店の立地状況は大きく変化した。特に1995年のカインズホーム伊勢崎店の開店を皮切りに多くの大規模小売店舗が大量出店し、立地は郊外に広がった。また大型店が集積して立地し、スーパーセンター化し、ショッピングモール・ショッピングセンターの時代へと移り代わった。特にイトーヨーカドー、ミスターマックス、西友、ベイシア、とりせん、フレッセイなどがデベロッパー的な役割を担いながら出店してきている。さらに、このような郊外型の商業立地は、都市計画図より第二種住居地域に多く、ほとんどが土地区画整理事業区域内において出店している。
IV 郊外型大規模商業集積の形成過程―スーパーモール伊勢崎(西部モール)を事例として
スーパーモール伊勢崎は、国内最大級の規模をもつショッピングモールであり、主に㈱ベイシアがデベロッパーとなって開発してきた。そしてこの商業集積形成のきっかけとなったものが、1982年からの西部第三土地区画整理事業(~2004)である。事業地区は、もともと未整理の水田地帯で、生活の利便施設とされる商業・サービス業施設は皆無に等しい状態で、伊勢崎オートレース場だけが賑わいを呈していた。しかし、事業の進行とともに、ショッピングセンターやホームセンターが待ち望まれる状況になり、地権者会が組織され、早期出店が可能になるように土地区画整理事業組合に要望を申し込んだのである。よって、組合員の要望と出店者の構想を聞き整理し、事業計画の変更に着手し、工事着手完成開店に至ったのである。この商業集積また土地区画整理事業により、当該地区の人口や経済は大きく変化し、都市計画マスタープランでも、“商業・レジャー拠点”としての位置づけを担うようになった。
V おわりに
商業立地と都市計画との関連として、都市計画自体は商業立地の分散を避けまとめて広い地域を従来の商業立地をもとに各種用途地域(主に第二種住居地域)に設定し、また地権者の意見も参考にして事業を展開している。また、商業施設の代表であるデベロッパーは、こうした広い地域にショッピングセンタ及びモールを出店する傾向にある。そして地域住民もこのような商業施設ができることを望んでいるのである。さらに都市計画では、こうしたショッピングセンター・モールの繁栄を生かし、都市計画マスタープランにおいて中心商業地とは別に“商業・レジャー拠点”として設定し、まちづくりの一部と考えているのである。よって最近の郊外型大規模商業集積は、住民や商業関連企業の意思決定を反映した現代社会の大衆化の象徴であり、都市計画もそれに柔軟に対応して事業を展開しているといえる。
今後の課題としては、このような郊外型大規模商業集積が急激に増加していく中での商業集積相互の関係としての商業システムはどのように成立しているのかということや、首都圏の都市における都市計画との関連を踏まえた近年の商業集積の立地パターンにも注目する必要がある。また、中心市街地との関連を踏まえた商業立地に関わる都市計画の状況も明らかにする必要があると考える。
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2003年度卒業論文 |
黒川佳彦 | 国際ハブ空港の利便性と空港アクセスの評価 |
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1.本研究の目的
近年、「グローバル社会」「IT革命」などの言葉が世間をにぎわせている。21世紀はグローバル化や高速化の進展に伴い、海外諸国との距離が縮まり、これまで以上にそれらとの関係が深まるであろう。その中で、地理的な面で最も大切な事柄は、国と国とを結ぶ路線の確保と、それらの起点となる国際空港の整備である。
日本には2つの巨大な国際空港が存在する。それは、新東京国際空港(成田空港)と関西国際空港である。これらは将来的に「アジアのハブ空港」を目指している。最近、成田空港にようやく2本目の滑走路が建設されたとニュース等などで報道された。ところが他のアジア諸国は、日本に負けまいと、巨大な国際空港を建設している。日本が「アジアのハブ空港」を持つためには、どのような国際空港を確立するべきなのか。
そこで本論分前半では、アジア諸国のいくつかの自称ハブ空港を例として取り上げて、それらを比較検討し、日本のこれからの国際空港のあり方を明らかにする。また、国際空港のあり方だけでなく、国民にとっての利便性にも焦点をおく。国民にとって利用しやすい空港は何なのか。そこで、本論分後半では国際空港と地方空港間のアクセスの状況や、国際空港とその都市間のアクセスの状況を比較検討して、私たちが利用しやすい国際空港は何なのかを課題とする。
2.研究結果
<国際ハブ空港に必要な条件>
①国際線の就航本数と就航都市数が多いこと。
ただ単にフライト数が多いだけではいけない。様々な時間帯にフライトが均等に組まれているかが重要である。そうあることで、乗客の利便性が向上する。
②国内線の就航本数と就航都市数が多いこと。
ここでも単にフライト数が多いだけではいけない。国内線から国際線へ、または国際線から国内線への乗り継ぎが便利であることが最も大切である。ほとんどの国際空港では出発時間の2時間前から搭乗手続きを開始するので、乗り継ぎ時間は2時間以内で済むことのできるシステムや施設でなければいけない。
③空港規模がある程度大規模で確保されていること。
現在国際ハブ空港に最低必要な施設規模として、世界150~200都市へ就航することができるターミナルと、4000m級の滑走路が3~4本必要になっている。特に後者については、時間どおりの離発着と安全を確保するために絶対必要なものだ。滑走路が1本だと、仮に1便遅れが出た場合、すべての出発便と到着便が遅れることになり、乗り継ぎ客を中心に迷惑が生じる。このような状況を避けるために、滑走路を出発便用と到着便用の複数確保しておかなければならない。また、風向きの変化に対応するために、様々な方向からの滑走路も必要である。
④24時間営業であること。
時差が存在するので、当然必要なことである。
⑤空港から都心へのアクセスがいいこと。
空港から都心への距離が短いことも重要だが、それよりも時間距離が短いことと、アクセスの本数と手段が豊富であることが重要である。
⑥他の国際空港に見られない集客力向上の原因となる魅力があること。
<「アジアの国際ハブ空港」に現時点で最もふさわしい国際空港>
チャンギ国際空港(シンガポール)→上記の6条件において、すべての面で他のアジアの国際空港に勝っている。
3.今後の課題と展望
日本の国際空港を「アジアの国際ハブ空港」にする前に、政府や空港、航空会社が中心となって、ハブ空港にするための政策をしっかり持つことが大切である。どの団体もしっかりとしたハブ空港に対するビジョンをまず持たないといけない。
日本の国際空港は以下の点で課題が山積されている。
①24時間制空港にし、フライト数を確保できる体制作りを行う。
→空港着陸料の大幅な値下げ、滑走路やターミナルなどの施設拡張、ナショナルフラッグの市場拡大 など
②国際空港への国内線の整備(地方空港からのフライトの確保)
③空港利用客だけでなく気軽に住民が利用できるターミナル作り
→サービスの向上、ターミナルへの商店などの誘致活動、商業利益向上の工夫 など
④都心からの空港アクセスの改善
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佐藤嘉余子 | 米の取引価格形成と農家の未来 |
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I はじめに
1節 研究の目的
本研究では米の価格の形成過程を明らかにすることで稲作農家が生き残っていく方法を考察する。米の需要が低下している一方で高価格で取引されている「ブランド米」は農家経営に影響しているのではないか。価格を通じて農業の歴史、現状、問題点がみえてくる。
2節 研究の方法
米を中心に社会と米政策の変化を確認し、米の流通方法の変遷と米の価格自体の変化を見ていき、「ブランド米」形成の要因を探る。文献、インターネット、統計書を用いる。また農家と農業経営の現状を調べ、今後農家が生き残る方法を考察する。これは文献、統計書、インターネットによる調査、さらに農家への聞き取り調査を行い、現状を鮮明にする。
II 米を取りまく状況
大正・昭和時代は第1次・第2次世界大戦の進展につれ、国の統制のために米政策にも政府の介入が強まり、その流れが戦後も続いていた。経済成長を通じて生活が欧米化し、米消費量が減少したため政府は生産調整政策を実施する。しかし、同時に自主流通米政策も打ち出し、次第に農業分野での政府の責任を減らしていくようになった。
1993年ウルグアイラウンド合意がなされ、米の条件付輸入を開始する。1994年、これまで米政策の中心にあった「食管法」が廃止され、「食糧法」が公布された。米政策への市場メカニズム導入が重視されるようになる。
III 計画流通米と計画外流通米の価格
1節 現在の流通手段
「計画流通米」と「計画外流通米」。「計画流通米」はさらに「政府米」と「自主流通米」の2つに分かれる。近年、計画外流通米はそれまで圧倒的に量が多かった自主流通米の販売量を上回り、いまや5割以上を占めている。
2節 流通方法別・生産者米価の決定方法と価格の変遷
政府米・自主流通米は比較的安定。計画外流通米は年によって変動がおきやすい。近年、3つの価格が均衡。理由は需要と供給の関係で価格が決まっていく「市場原理」。供給は安定していて需要が低下している今、価格が低下するのは必然。対して政府米は農家の安定が目的のため大きな変動は少ない。計画外流通米は需要と供給は安定している。
3節 産地銘柄ごとの価格の変遷
「ブランド米」とは「おいしさが皆の認知を受けていて、売れている米」。産地の努力、マスコミの報道がブランド米形成にかかわっている。
「ブランド米=高収入」。生産者側は取引価格が高く、収入増が見込める品種を基本的には植えるようだが、その品種は土地の特色に応じたものである。それがおいしい米作りにつながり、ブランド米形成に至っているのである。
IV 農家の現状と新たな動き
農業租収益と農外収入に年金や補助金などが加わる。1番の負担は農業経営費。
S氏:作業の一部を他農家に委任、肥料削減に米ぬかを使用。→他農家との協力
I氏:稲作作業請負、「干しもち」販売(農閑期の時間と労働力を使って、副収入を得る)→生産物の販売方法の工夫
農事組合法人、会社、農協・その他の農業団体等農家以外の農業事業体が増えている
V おわりに
○米に対する政府のかかわりが弱まってきており、生産者が需要と供給のバランスを見て経営していく必要があり、今後は計画外流通米の量が増えていくと考えられる。
○「ブランド米」とは産地に相性の良い米を栽培し、そのおいしさがみんなの認知を受け、売れている産地銘柄米のこと。そこで高価格で取引されているが、米全体の価格は低下。農家は少しでも収入を上げるためにブランド米を植える傾向にある。
○稲作農家は小規模で副業的に行われ、高齢者が基幹的役割をしている場合が多く、減少傾向、さらに農業所得は減少している。一方で法人や集落営農の形で大規模で多角的に農業を行っている事業体が増加。市場が広く、生産費を削減できるため所得が安定。
○今後稲作農家が生き残るには、「法人化」や「集落営農」の「大規模化」による生産費削減、付加価値を付けることでの「差別化」による収入増加といった生産者側の努力による方法がある。また、出荷取締り側に小規模農家対象の市場の広がりが期待される。
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田畑信仁 | 首都圏における鉄道駅の利用者数の変化 |
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I はじめに
第1節 本研究の目的と意義
本研究の目的は首都圏の1965年~2000年までの鉄道駅利用者数集計をもとに、都市(市街地)の広がりや人の流れの変化を鉄道の視点から分析することで、鉄道網がどの程度都市化に影響を与えているのかを明らかにすることである。
第2節 研究の方法・調査対象地域
鉄道駅利用者数・利用増加率の作成にあたっては、1965年から2000年までの国勢調査が行われた年の東京・埼玉・神奈川・千葉の各都県の統計年鑑、国土交通省(旧運輸省)が発行している都市交通年報を用いて集計した。対象駅は、首都圏に存在している鉄道駅の総数1620駅(東京687駅・神奈川364駅・埼玉231駅・千葉338駅)である。利用者数は各鉄道会社で一定ではなかったため、乗車人数のみを集計した。また、鉄道駅は2003年現在に存在している駅で作成しているため、未開通もしくは統計年鑑に乗車人数が載っていない鉄道駅は「欠損値」扱いとした。分析にあたっては、地理情報分析システムMANDARA(谷:1993-2003)を使用した。
土地利用図については、JR武蔵野線の開業前後で最も変化が大きく影響していると判断した「南越谷」「南浦和」「武蔵浦和」「北朝霞」「新秋津」「西国分寺」の6つの駅を取り上げた。調査年代は、武蔵野線開業時の1975年前後、埼京線開通時の1985年前後、そして2002年もしくは2003年の3つに設定し、ゼンリンが発行している住宅地図をもとに作成を行った。調査範囲は駅から約300~500mを作成の目安とし、分類としては「駅」「商業施設・会社」「工場」「個人住宅」「アパート・マンション」「公園」「公共施設」「病院」「駐車場」「未利用地」の10項目に分けて行った。
II 首都圏の都市化と鉄道網の変遷
東京圏で最も都市化が激化したのは高度経済成長期で、都市化地域の遠心化の現象が生まれた。首都圏では、多摩丘陵や相模原、武蔵野台地の西部などが急速に都市化され、都市化地域と都心とを直結する鉄道が発達したことが要因となった。首都圏の鉄道の特徴の1つとして地下鉄と郊外鉄道(主に私鉄)との相互乗り入れが多い。この相互直通運転により、鉄道事業車間の乗換不便の解消、ターミナル駅の混雑緩和、特定線区の混雑緩和、シームレス化が図られたことによる利便性の向上、速達性向上などが計り知れないものとなっている。確実に人々の移動が効率的によくなっているのである。また、新設建設に伴う輸送力の向上、近年の人口の減少による輸送人員の減少により、混雑率は年々下がってきている。東京圏全体の混雑率は、1970年に221%であったものが、2001年では175%となっている。しかし路線別では複々線化や列車の長編成化などの輸送力増強により、150%~160%程度に混雑率が緩和されている路線がある一方、依然として200%を越える路線が存在しているという混雑状況の二極分化が現れている。
III 首都圏における鉄道駅の利用者数
第1節 利用者数の分布
首都圏の鉄道は、人口増加と密接に関係している。人口流入の受け皿は、昭和30年代は東京都と神奈川県の京浜工業地帯を背景とする地帯であった。昭和40年代に東京都の人口が横ばいになり、神奈川県の人口増加率が低下すると、代わって埼玉県が人口急増地帯の筆頭となった。昭和50年代には千葉県がそれに次ぐことになる。これを、東京を中心に東西南北4つの範囲として表すと、東京の西側(東京西部)と南側(神奈川県)では発展が早く、東側(千葉県)と北側(埼玉県)では発展が遅いということになる。
第2節 駅別ランキングの推移
各都県別のランキングは、主要ターミナル駅での利用者が多い。1970年頃はJRの駅が上位を占めてきていたが、都市化が郊外に進み新規路線の開通や地下鉄との相互直通運転などの影響により、1980年代からは私鉄駅での利用者が上位を占めるようになった。
第3節 利用増加率の変化
1965~70年では、都心を中心に増加率が50%以上を越える駅が続出している。1970~75年になると都市化の遠心化が鮮明になってくる。都心部の近郊域では増加率が減少、横ばいの駅が目立つようになった。1975~80年では都市近郊地域で増加率が減少しており、都市化がさらに郊外へ進んでいることや都市近郊部での人口増加は飽和状態にあることを意味している。1980~85年では郊外で利用増加率が高くなっているが、都心から50km圏内である。1985~90年では、ほとんどの地域で増加率が高くなっている。第2次ベビーブームや都心での地価の上昇の影響を強く受けているためで、第1次ベビーブームの世代が郊外に建てた家から通勤・通学として電車を利用する機会が増えたからである。特に50km圏外での住宅地建設が盛んになり、熊谷や小田原、茂原方面で利用増加率が上昇している。1990~95年では、日本経済を支えていた株価の暴落、いわゆるバブルの崩壊によって、都心部での雇用が減ってきている。そのため、都心や都心部近郊の企業が集中している地域の駅の利用者増加率の伸びが鈍くなっている。1995~2000年では、郊外を中心に増加率の減少している駅が目立ち、近郊地域ではほぼ横ばいの駅が多く見られる。これは、1995年が鉄道利用者のピークであったこと、東京都から近隣3県(神奈川・埼玉・千葉)への人口流出がほぼ止まりつつあることが最大の要因であり、増加率がほとんどなかったと考えられる。
第4節 まとめ
増加率が最大になった時期は、都区部を中心にある特定の時期に伸びが激しくなって、地域的にも固まって分布している。大規模なニュータウン建設や新線開通が要因となっている。しかし首都県全体を見回してみると、郊外を中心に近い鉄道駅であっても増加率が最大になった時期が異なっている。これはその駅周辺での人口増加や行事や催し物など様々な要因が加味されているので、特定することはできない。
IV 鉄道駅の土地利用の変化 -JR武蔵野線を事例に-
第1節 JR武蔵野線
JR武蔵野線は、新鶴見信号所~西船橋間100.6kmの区間のことである。乗客数は1975年に年間1000万人にも満たなかったが、1990年には年間3000万人を越え、2000年現在では約4500万人が利用する路線となった。JR埼京線が開通した1985年~90年にかけて大幅に利用者数が増加し、JR埼京線や他の私鉄線との連絡路線としての重要度が高まった。都心から20~30kmの外郭に位置するJR武蔵野線は、放射状に伸びる各線と有機的に結合し、首都圏鉄道網においては重要な環状方向の鉄道として、その果たす役割は非常に大きなものがある。
第2節 JRとJRの乗換駅 -南浦和・武蔵浦和・西国分寺-
南浦和駅は京浜東北線開通時に開業した駅であるため、昔から駅周辺は「商業施設・会社」が多く立地し、比較的発達していた地域である。武蔵浦和駅周辺は現在も駅周辺の開発が行われているため、今後さらに「商業施設・会社」が増える可能性があり、将来さらに都市化が発展する可能性があるといえるだろう。西国分寺駅周辺は昔から住宅が多かった地域で、都心のベットタウンとして長年発展してきた駅である。
第3節 JRと私鉄の乗換駅 -南越谷・北朝霞・新秋津-
南越谷駅周辺は、「商業施設・会社」が多く立地している所であるが、JR武蔵野線開業時に区画整理が行われていたので、高層ビルなどの建物を駅周辺に建てやすかった環境であった。北朝霞駅周辺も、鉄道開業時に区画整理が行われていたので、商業施設とマンション等の住居のバランスがよくとれた地域である。新秋津駅周辺は、武蔵野線開通以前から都市化が形成されていた地域で、私鉄駅とを結ぶ道路には商店街が形成されている。
V おわりに
第1節 まとめ
鉄道の利用者は、首都圏の人口の伸びと同じように年々増加し続けてきた。東京都での人口が飽和状態になると、60年代後半には神奈川県に利用者数の伸びが移り、その後70年代から80年代にかけては、埼玉県南部や千葉県北西部での伸びが凄くなり、その伸びは郊外へと遠心化していった。2000年には東京都区内での利用増加率の微増が見られるようになり、回帰減少が起きている。
第2節 今後の課題
1995年をピークに首都圏全体の利用者数が減少している鉄道は、周辺人口の停滞、郊外から都区部への通勤者の減少にあたり、今後利用者数が爆発的に増加することは難しくなっている。今後は、新規路線を多く建設するということよりも利用者が利用しやすいように駅施設のバリアフリー化や直通運転区間の増発、JRと私鉄での乗換の効率性などの事業について手掛けていくべきである。
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寺内和広 | 埼玉県の郊外化の過程におけるベッドタウンの進展とその現状 |
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I はじめに
大都市圏と呼ばれる地域において、ほとんどの地域は高度成長の時代にその中心都市に大いに依存する形でその成長を遂げた。ここ埼玉においても首都圏という枠組みの中で首都東京に依存した同様の成長を遂げている。そうかと言って県全域が等しくベッドタウンとしての性格を持って成長してきたわけではない。
本論ではまずどのような都市が地域の核となれるような都市に育ってきたのか。またそれらの新しい都市が生まれてくる現在において、どのような地域がベッドタウンとしてのみの貢献をしており、どういった地域特性を持っているのか。そしてその後、住宅機能のみに焦点を当てられて開発された都市が、古いものでは半世紀近い時間を経てどのようになっているか。また、開発の時期の違いによる影響の現れ方など、大都市圏の郊外化の中で、住宅機能の役割を担った郊外地域が受けた影響を確認し、それが今日、そして将来どのように影響してくるか考察・検討していくことを目的としている。
II 郊外化の流れと埼玉県
首都圏の成長は、日本の成長とも重ねられるが、戦後復興期の新しい活力によるところが大きい。太平洋戦争の空襲によって焼け野原になった東京は、首都という性格上、様々な地方からの流入者を受け入れ復興というスタートラインに立った。その後、東京や大阪では瞬く間に人口の回復が起こり、それと同時に無秩序に拡大を続ける過大都市の兆候を示し始めていた。そして人口の適正配置を目指す観点から終戦後10年余り経った1956年には「首都圏整備法」が成立した。しかしこの計画は上手く行かず、本来緑地帯として残されるはずであった15~25kmの地域にも都市化の波は怒濤の勢いで訪れ浸食され続けたのであった。その結果、首都圏整備法は大きな改正を受け、現実に浸食されてしまった地域をいかに整備するかということに主眼をおくような方向転換を遂げた。首都東京の過密化は極度に進み続け、自立的発達を目指した周辺都市も首都圏の連担都市の一部として首都圏に組み込まれることとなったのである。
このような首都圏構想の流れの中で埼玉県が受けてきた影響は計り知れず、郊外である埼玉県には住宅・工場・サービス業などの諸機能が東京から溢れ出し、自立的発展というよりは首都圏の一部として分担された役割をこなしていくしかない状態であった。その結果、JRや私鉄による郊外高速鉄道の影響で通勤可能圏と判断された地域においては首都通勤者のベッドタウン的性格を持つ都市が急増し、東京に隣接する県南部を中心に首都通勤者を大量に受け入れ、住機能に特化した成長が見られる。
III ベッドタウンの進展
首都圏という全体地域において、埼玉という部分地域は流出者における首都通勤者の割合を高く持っていることがわかる。したがって県レベルでは首都圏におけるベッドタウン的な役割を果たしていると言える。
地域別に見ると首都通勤者の割合が高いところは東京近郊または郊外高速鉄道の到達範囲である。前章で見た埼玉の人口の中心はおおよそこの首都通勤者割合が特に特化した地域と合致する。これからもやはり埼玉のメインストリームは首都東京との関係を重視した住民であることが分かる。
しかし上記のような地域においても住機能に特化したベッドタウン自治体となるとかなり数は絞られてくる。
IV ベッドタウンの現状と課題
ベットタウン自治体に人が集まるのはその土地柄に魅力があるのではなく、あくまで首都通勤のための前線基地としての需要があるからである。県内でも比較的遠方の地域はバブル期に無理をして宅地開発を行っていたことも十分に考えられる。
自治体レベルで一斉転入による問題が垣間見られるが、その観点では大量の住宅を一挙に供給できる大規模な集合住宅団地も住機能に特化したベッドタウンを象徴していると考えられる。このような団地の性質は自治体レベルのベッドタウンと同質だ。こうして見ると高度成長初期に造られた団地はインナーシティ化の様相が見られ、顕著に高齢化が進行している。そしてこれは団地地域の局地的な現象でもある。この原因は高度成長当時の住宅所得の困難さを背景とし、同時にトレンドの流れも合わさっての多大な需要が団地に集中したからであり、このように時代の中であまりに偏った現象が今日の問題に結びついている。団地地域はそれらが立地する自治体で見たよりもはるかにアンバランスな人口構成をとっており、特に郊外地域では今後の歳月を重ねることによって簡単に高齢社会が実現してしまうだろう。そして同時に高齢社会を迎えるだけでなくベッドタウン自治体としての中心地域を衰退させるインナーシティ化ももたらすだろう。さらに、この問題は過去の副作用として起こっているにとどまらず、対処の方法如何では次の時代にもう一度再現することになると言うことができる。
V おわりに
住宅特化都市としてのベッドタウン自治体に共通するハッキリとした問題は確認できなかったが、自治体ごとに発展時期の違いや目標とする自治体像が異なるので自治体レベルでの共通する問題というのは見えにくい。その中で局地的な発展の影響から局地的に衰退する地域が見て取れた。このような都市間の依存関係、構成のアンバランスさは言わば日本の高度成長の副産物であり、ベッドタウン、そして団地社会は高度成長を通して築かれた現代日本の都市社会の縮図なのである。
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2002年度卒業論文 |
稲井田建 | 鉄道新線の設置にともなう通勤行動の変容-八千代ゆりのき台を事例に- |
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I はじめに
職住分離が顕著である大都市圏で生活するものにとって住まいと職場を結ぶ公共機関を利用する頻度は大変に高い。特に〈速く・安全に・時間通り〉に運行する鉄道は郊外住宅発展にともない郊外と都心をつなぐ交通手段として拡大していった。
本研究では,そうした鉄道と郊外住宅との関係を解明するため,千葉県八千代市の「八千代ゆりのき台地区」(以下,ゆりのき台)住民の通勤行動が東葉高速鉄道(以下,東葉高速)の開業にともないどのように変容したかを調査,研究することを目的とする。
II 方法
東葉高速やゆりのき台の開発に関することについては,会社,自治体および公団への聞き取り調査。住民に関することはアンケート調査によってデータを収集した。また,東葉高速開業前後での通勤行動の分析には,通勤時間や乗換え回数の他に,この2つの指標を組み合わせた新たな指標を作成し,比較を試みた。
III 調査対象地域
(1)ゆりのき台
住宅・都市整備公団(現:都市基盤整備公団)によって1975年から計画され1987年に開かれた地区であり,首都圏30km圏の八千代市のほぼ中心部に位置している。
(2)東葉高速
1996年に計画から25年の歳月をかけて西船橋~東葉勝田台間全線開通となった新設鉄道。初乗り運賃は,200円と周辺を走るJRや私鉄に比べ割高となっているという問題を抱えながらも,沿線地域と都心との時間距離を大幅に短縮して沿線地域住民の交通利便に寄与するとともに,都市基盤の整備と沿線地域の発展に貢献する輸送機関としての役割を担っている。
IV アンケート調査の概要
この調査は,2002年9月10(火)及び11日(水)の2日間,ゆりのき台1丁目から8丁目全地域の全戸建て世帯858世帯を対象にポスティングによるアンケート配布を行った。このアンケートの回収率は25.8%で222通の返答があった。
(1)居住者属性と居住地移動の特性
職業分類 ゆりのき台地区が高所得者層を対象とした地区であるために,管理的職業,専門的・技術的職業で70%近くをしめている。
家族構成 「夫婦と未婚の子ども」の割合が高く,「夫婦と子どもと親」を含ませれば約80%の世帯が子どもを抱えている。ゆりのき台では,これに合わせて小学校と中学校が設置されている。
(2)前居住地および入居先選択の理由
前居住地は全国にいたるが,大多数が千葉県,東京都,神奈川県であり,全体の約6割は千葉県内からの入居である。また,住環境の良さや,利便性を考え八千代市内からゆりのき台に移住する世帯も多く見られた。
(3)通勤交通網の整備と通勤行動の変容との相互関係
・東葉高速開業による通勤時間の変化
東葉高速開業にともない1人あたりの通勤時間は,平均約7分短縮した。特に東葉高速が乗り入れる東西線沿線近辺の新宿区や渋谷区では,以前よりも約30分短縮した。
・通勤ルートとの関係
東葉高速開業以前は,都心への利用路線が,京成線,東西線,総武線の3ルートに分かれていたが,開業後は,東葉高速・東西線の1ルートにほぼまとまった。
V 通勤利便性指標
通勤時間や乗換え回数といった指標を単独で分析するのではなく,より通勤者の感じている便利さに近づけるために,2つの指標を組み合わせた新しい指標〈通勤利便性指標〉を作成した。この指標は通勤の便利さを0~1の値で表し,1を最も便利であるとした。
この指標を用いた結果,東葉高速・東西線沿線で高い値(0.6~1)が出た。また,開業により,渋谷区までの通勤時間は約30分短縮されたが,もともとの通勤時間の長さや乗換え回数が多いため利便性指標は0.5を下回る結果(0.38)が出た。
VI まとめ
・東葉高速の開業により,人々はより通勤時間が短く,乗換え回数の少ない通勤ルートにシフトし,都心へのルートが統合された。
・通勤利便性指標を用いた分析によると,千葉市中央区を除くほとんどの地域で通勤利便性は向上した。
・通勤が便利といえる地域は,日本橋までの東葉高速・東西線沿線と,その他一部の地域に限られた。
→新たに開業した鉄道により,多くの地域で通勤利便性は向上したが,高い利便性を得られる地域は一部に限られた。
課題
利便性指標を用いたことにより,単独指標のみではわからなかったことも読み取ることができた。しかし,通勤を表す指標はこの他にも,混雑度や,乗換えに要する時間等様々なものが存在する。そういった指標をどう組み合わせていけば実際に通勤者が感じている便利さに近くなるかを今後検討していきたい。
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稲上 龍 | 近世における主要交通路の歴史的町並みについて-埼玉県加須市・旧加須町地区を事例として- |
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I はじめに
(1)研究の動機
江戸時代には徳川幕府の政策の下,多くの街道が整備された。特に五街道と呼ばれる道は大名の参勤交代に利用され,街道沿いには多くの宿場町が成立した。宿場町では街道を通行する人々を相手に,茶屋や旅籠など,様々な商業が起こった。
また,官道としての性格の強い五街道の他に,一般の人々も利用する脇往還も次第に整備されていった。それでは,このような脇往還に沿ってどのような町が展開したのであろうか。本研究では,脇往還「忍栗橋道」に沿って成立した町,埼玉県加須市の旧加須町地区を例として脇往還の町の特色を,その町並み構成から考察していく。
(2)研究の方法
本研究では,町並みを復元することによってその町の特徴を考察していく。ところで,加須市の町並みが成立したのは江戸時代後期である。本来ならその当時の町並みを復原することが望ましいのだが,史料の不足から江戸時代の景観を復元するには至らなかった。よって,明治期の町並みを復元し,そこから町の成立と特色を考察することにする。
具体的な方法として,明治時代の土地台帳に付属する地図「地籍図」を利用する。地籍図を利用し,町並みの復原を行った研究としては他に桑原(1976)がある。(桑原公徳著『地籍図』古今書院による)地籍図には土地の地割が示されている。それと明治期の商店の営業状況を示した「埼玉県営業便覧」という二つの史料を照らし合わせ,明治期の町並みを復原する。そこから当時の町の特色を考察する。
II 加須村地域の交通
加須市は当初,利根川が市内の中心部を流れていた。ちょうど旧加須町地区の辺りである。そのため,船の渡しがいくつか存在していた。江戸時代になり,利根川の改修工事が幕府により行われると,脇往還が市域を通ることになった。この脇往還が忍栗橋道で,日光街道の栗橋宿から,忍城下町へと通じる道である。また南の中山道鴻巣宿へと通じる脇往還,さらに北の利根川水運,大越河岸へと通じる街道も周囲に存在した。複数の街道が交わり,旧加須町地区は一つの交通の要地とであったことが分かる。
III 加須村の民衆の生活
利根川の改修工事が行われると,それまで湿地だった旧加須町やその周辺の地域は,水田として利用されるようになった。穀類の生産が多く,年貢米は北の大越河岸から江戸の領主の下に運ばれていた。旧加須町地区は,江戸時代の文化・文政期頃から六斎市が開かれ,農民の渡世による商業活動が活発に行われるようになった。
明治時代になると,この地方の産業として加須町を含む周辺地域では「青縞」と呼ばれる綿製品の生産が盛んに行われた。青縞とは,綿製品を藍で染め上げたもので,農家の副業として主に行われていた。旧加須町地区には青縞の業者が多数存在し,明治期後半には大きく賑わったようだが,やがて海外から化学染料が輸入されるようになると,藍そのものが使われなくなり,この地方の青縞生産は大きく低下した。
IV 街道沿いの景観の復原
(1)旧加須町地籍図より
加須町の地籍図を参考に,忍栗橋道沿いの土地255筆をトレースした。この中で空地が13筆,畑地4筆となり,実際の建物238件を対象とする。土地の形から建物を見ると,街道に対し非常に奥行きが深くなっており,典型的な商家の形をしていることが分かる。また街道は比較的直線的であり,宿場町のような遠見遮断は見られない。
②埼玉県営業便覧と地籍図による町並みの復原
復原図を作成するにあたり,商家の業種ごとに,「青縞業者」「食料品」「日用品」「サービス業」「その他の業種」の5つによる分類を試みた。実際には民家も加わるので,これも復原図では示してある。埼玉県営業便覧に記載されている商店の数は199件であり,これは街道全体の建物からみて約84%となる。さらに業種ごとに数値を見ていくと,日用品関係が40.2%と大きな割合を占める。また次いで青縞業者が22.6%,そしてサービス業は9.5%となっている。これらの数字から,加須町の商店は地域住民の需要に応じる要素が強かったと考えられる。日用品はもちろんのこと,青縞業者は地域の農民から製品を買い上げ,それを様々な地方へと売る役割を果たしていたため,地域住民とは密接な関係を持っていた。一方でサービス業の割合は低くなっている。門前町や宿場町は,参詣人や通行人をもてなすための旅籠・菓子屋・居酒屋などが多く立地するが,加須町にはそういったものはごく少数である。加須町は交通の要地であり,青縞生産の拠点として栄えたものの,加須町そのものに訪れる人々は少なく,むしろ地域住民との深い関わりを持って発展した在郷町であるということが分かる。
V 現代の景観
住宅地図をもとにして,明治35年の復原図と同様の地域を調査した。ここでは,昭和45年と平成9年の2つの年代を取り上げた。また現地で写真の撮影も行った。昭和45年は商店の数も増え,様々な業種が増えた。明治期に見られた青縞業者は既に一件も見られなくなってしまっている。一方で平成9年になると,大幅な変化が見られる。日用品を扱っていた店が大幅に減り,逆に駐車場が大幅に増えた。これはモータリゼーションの進行と,郊外に大型の店舗が立地するようになった影響と考えられる。現在の調査からも,商店街には人通りも少なく,商店も古い建物が多く見られた。
VI 終わりに・・・研究のまとめ
加須町は交通の要地であったが,実際には加須町自身が拠点となり,様々な地域へ向けて生産物を輸送していたと考えられる。商店の立地状況から,門前町とは違い加須町を目当てに訪れる人々はあまり多くなかったト考えられる。加須町は東西に走る忍栗橋道を中心として商店が立地したが,通行人よりも周辺の地域住民との関係の中で発展してきた在郷町であると言うことができる。
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根岸友子 | 1990年代における高等学校への求人と就職先の変化―埼玉県北部の2校を事例として― |
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I はじめに
本研究の目的は,埼玉県北部を対象地域として,東京大都市圏の中でも特に都内通勤圏をやや外れた地域での新規高卒者の就職行動の特徴を明らかにすることである。
日本では高度経済成長期より労働力の慢性的な不足状態があり,高卒労働力は「金の卵」と評される程,重宝されていた。しかし,バブル崩壊後の不況下,その状況はどうなっているのかを高等学校への求人数と新規高卒者の就職者数の推移を追うことにより明らかにする。
また,谷(2000)が指摘するように,人口移動研究の課題として「移動者を取り巻く構造や制度に着目した研究を様々な空間スケールで進める」ことが挙げられる。本研究では新規高卒者が持つ進路希望と実際の就職状況を,高等学校で行われる進路指導の状況を踏まえて明らかにする。
従来の研究では,高卒者の就職に関する人口移動について,主に大都市圏―地方圏間の移動,地方圏内の移動に関して扱っている。そこで本研究では,大都市圏内でも辺縁部について明らかにするため,埼玉県北部を事例として取り上げる。調査対象校はA工業高校とB商業高校の2校とした。
II 進路指導
進路指導においては,進学希望が増え就職希望が減ってはいるが,就職希望が皆無になったわけではないので,綿密のスケジュールの下,熱心な就職指導が行われている。高校生の就職活動は主に学校を通じて行われ,企業も「A校の生徒だから」ということで採用する「実績関係」を重視する。そのため,生徒もまさしく学校の「顔」として受験し,内定・就職後もそれなりの働きを期待される。
就職を希望する生徒は,自宅からどのくらいの距離にある企業を希望就職先として選択するかをA工業高校の平成3~12年度の希望調査でみる。企業の所在地別希望をみると,県内希望の割合が圧倒的に多い。希望就職先を通勤時間で見てみると,自宅から30分以上の割合が最も多いが,これは自宅から30分以上かかる場所でないと企業がないなどの制約があるためである。だいたい自宅から40~45分のところを最終的に希望する生徒が多く,自宅から通える範囲を希望就職先として考えている生徒が多い。埼玉県全体の高卒就職者の割合は県内に次いで東京都が多い。希望業種,職種の調査によると,A工業高校では建築関係の仕事に関する希望が多く,高校時代に学んだことを生かして就職をしようとしていることがわかる。
III 工業高校と商業高校の求人・就職状況の違い
平成12・13年度の求人状況の共通点は,どちらも東京都からの求人が70%以上と高い割合を示すことだ。これは,東京に本社がある企業が求人を出す場合,実際の就業地はチェーン店や支店で埼玉県内になるときでも,東京都内の職安から求人を出していると職安は東京扱いになるからだ。差異については,A工業高校で千葉県の割合が高い要因として,京葉工業地域等の工業地域からの求人が多いことが考えられる。B商業高校で群馬県の割合が高い要因として,B商業高校の方がA工業高校よりも北に位置し,群馬県への通勤圏に入ることが考えられる。
求人を業種別にみると,共通点は卸・小売業が多く,金融・不動産業,運輸通信業,水道・熱・電力・ガス業が少ないということだ。差異としては,建設業と製造業はA工業高校の方が多く,サービス業はB商業高校の方が多い。このことは,企業は求人を出すのに際し高校時代に学んだことを生かせるのを期待していることを物語っている。
職安別の就職者数をみると,B商業高校は管内が最も多く,次いで管外,県外と自宅からの距離が長くなるのに従って就職者数も減っている。それに対しA工業高校ではどの職安もあまり変わらない割合で就職しており,むしろ管内の就職が少ない。この違いの原因は,A工業高校は工業高校という特徴によって工業地帯(地域)のある東京や千葉県,神奈川県に就職しやすいということと,女子の方が家から通える範囲に就職したいという希望がより強いことが考えられる。
業種別の就職を見ると,両校ともに高校時代に学んだことを生かせる職に就いている生徒が多い。
IV 工業高校への求人と就職先の変化
埼玉県全体に見られる1990年以降の就職者数の減少の原因は,高卒者数全体の減少に加え,進学率の上昇が考えられる。埼玉県の高卒就業者の就業地別割合は,県内就職率が常に高いことがわかる。殊にバブル崩壊後はその割合が高くなっている。バブル崩壊後に東京都からの求人が減少していることから,大企業は就職率の低い時,つまり景気の後退期には埼玉県高卒者の採用を見送る傾向にあると言える。
A工業高校への求人と就職の関係をみると,企業は「実績関係」を重視し,また地元志向が強いといえる。生徒の希望も自宅から通える範囲,となっているので距離において労働力需給のミスマッチは少ないといえる。A工業高校で「実績関係」が認められる企業も地元が多かった。また,業種によって「実績関係」の存在する企業の企業数や所在地が異なることがわかった。所在地は,企業の分布に原因している面もある。企業数に関しては,工業高校卒としての性格を生かせる企業との間には「実績関係」が築きやすく,数も多いといえる。
V まとめ
1990年代の埼玉県の高卒就職に関して,全体として求人が減少傾向にあり,原因は高校生への求人数の減少が挙げられる。特に,東京都からの求人の減りが著しい。このことより,不景気になると企業も地元志向になることがわかる。また,校種間で求人を回す企業の所在地に差異があることがわかったが,それは校種による業種の差異に原因があるといえる。
今回は研究対象を伝統ある実業高校に絞ったが,それ以外の校種ではまた違った結果が出てくるかもしれない。業種別の企業立地などを明確にしたうえで,新設校や普通高校も対象として総合的に調査することで,高校と企業との関係を,より明らかにできると考える。
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2001年度卒業論文 |
伊東早紀子 | さいたま市における子どもの生活圏に関する研究 |
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I 本研究の目的
戦後,子どもをとりまく環境はめまぐるしく変わってきている。それは,自然環境に限ったことではなく,核家族化,少子化などに代表される人的環境,高度経済成長などによる物的環境も大きく変化している。それらを受けて,子どもの生活行動にも習い事の増加,外遊びの減少などの変化が生じている。
大人と違い,子どもは生活の拠点を自らの意志のみで選ぶことはできない。親の仕事の都合で,子どもの意志とは関係なく生活の拠点を移されることは日常的なことである。
本研究では,子どもの生活圏が居住地周辺の環境から,どのような影響を受けて形成されていくかを研究することを目的とする。ここで環境とは自然環境,人的環境,物的環境なども含まれる。そのため,子どもをとりまく環境は個人によって違い,そのちょっとした違いが生活圏の形成に影響を与えることが予想される。そこで,本研究では小学校の置かれている環境の違いに着目し,子どもの生活圏の形成の地域差を明らかにする。
II 研究の方法
本研究では,子どもの生活圏の形成過程について大人のそれと比較することで見出すことと,アンケート調査を通じて実際に環境の違いが生活圏にどのように影響するかを明らかにすることを二つの柱とする。アンケート調査では,環境の違う2つの小学校の2年生と6年生それぞれ1学級を対象に,日曜日から水曜日の放課後に(休日等の場合は全日)どこに,だれと,どうやって行ったかとそれにかかった時間を調査した。
III 調査の結果
①学年による違い
低学年より高学年の方が,自転車を中心に利用し生活圏が広がっている。しかし,低学年の方が大人と移動する割合,自動車を利用する割合が多く,それを含めれば低学年の方が移動距離が長くなる場合が多い。
②性別による違い
男子より女子の方が大人の影響を受けている。それは,ただ遠い場所に移動するためだけでなく,女子は子どもの力だけで移動できるような近い場所にも大人と移動している。依然として,女子に対して安全思考が強い傾向がある。
③地域による違い
狭い学区に多くの施設が凝縮されているような地域の子どもは,友達の家や公園,買い物先や病院等が近いため,学区と同じかそれよりも狭い生活圏で用が足りてしまう。しかし,学区が広く生活に必要な場所が点在しているような地域の子どもは,必然的に移動距離が長くなり,学区の狭い子どもより広い生活圏が形成される傾向にある。
IV 研究の成果と今後の課題
子どもの生活圏の形成は本人だけで形成されるのではなく,その両親などの影響を受けて形成されるということが明らかになった。一方で子どもが大人の力を借りずに形成する生活圏は,学区を基準にして形成される。小学校区の中には日常生活に必要な基礎的な施設がそろっているとされている。しかし,小学校区によってはそのような施設が欠けている場合があり,その場合それを小学校区の外部に求める。特に,日常的に買い物をする場所が不足していると,学区外に出る必要が生じ自宅の平均移動距離に大きく影響することがアンケート調査から明らかになっている。
子どもの生活圏は同心円状に形成されるのではなく,日常生活に必要な場所が突出した形で形成されていくのである。子どもの生活圏は,子ども自身が学校の授業で学習した「地域」や日常生活経験で身につけた主に学区からなる生活空間に,学区外を含めて日常生活で家族と利用する場所を加えた二重構造状の空間として捉えられるのである。結果的に子どもの生活圏は周囲施設との位置関係に左右される場合が多く,子どもの視点から見たまちづくりが求められる。
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猪岡 徹 | 高等学校地理教育におけるメディア教材の利用 |
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I 序論
本研究の目的は,現在の高等学校地理教育の現状を明らかにすることである。さらにそれを受け,来年度から年次実施される新学習指導要領に基づく一単元の授業の教材として市販のビデオ教材を利用することと,テレビ番組を教材として利用することの双方が満たされるべきであることを指摘することである。
II 高等学習指導要領に関して‐地理歴史科
現行学習指導要領には組み込まれていない「主体的生きる」という言葉が新学習指導要領には登場している。このことはこれまで以上に,未知の事物に出合った時,様々に思考し行動の出来る人格の形成を求めていると言える。現行学習指導要領と新学習指導要領との比較からは,内容がより作業的,体験的な活動が行いやすいものとなっているということが指摘できる。例えば,系統地理的・地誌的内容それぞれの統合である。世界的視野から扱うことが可能な二つまたは三つの事例を選び,その事例を具体的に扱い各事例の分析・考察の過程を重視しするようにとの指導がある。これは,現代世界を系統地理的・地誌的にとらえる視点や方法が身に付くようにするためである。
III 高等学校における様々な教材利用
今回のアンケート調査では,地理教育に力を入れている秋田県を例にとり,高等学校における地理の授業の中で一般に使用される教科書,資料集,地図帳以外にどのようなものを教材として利用されているのかを明らかにすることが目的である。70の高等学校のうち39校からの返信があり,そのうち37校が地理教育を行っている高等学校の地理担当教諭からの返信であった。(残りの2通は現在高等学校で地理教育を行っていないことを記してあった。)
アンケートからは,教材としてビデオ教材と写真教材の使用が多い事が明らかとなった。しかし,その使用方法には大差があり,ビデオ教材が導入部分への使用・内容説明時の使用・まとめに使用・テーマを示して全時間を視聴に当てる,と多岐にわたって使用されることが確認できたのに対し,写真教材ではほとんどが内容説明時の使用となっている。
IV テレビ番組の教材利用とその意義
ビデオ教材としてどのようなものを使用するかはほとんど議論されてこなかった。そのため,入手が容易であるという理由から,これまではアンケート結果にもあるように帝国書院のビデオ教材やNHK等,授業のために作られた映像を授業で放映するという方法が取られてきたと考えられる。これまでは,ビデオ教材として作られた映像が好まれ,民法のテレビ局が制作するテレビ番組は利用されない傾向にあった。このことは,テレビ番組を授業で放映するだけでは番組観覧になってしまい,授業にならないことを考えれば容易に納得できる。
私はここであえてテレビ番組の教材利用の必要性を提唱する。テレビ番組は,一般視聴者向けに作られた映像であるが,それを教材利用することでその中から生徒が授業の枠を超えて地理に関して興味を持ったり,考察したりする能力が養われたりすることが期待できる。テレビ番組はその中にテレビ局の意向を含めてはいるものの,その内容の大部分はビデオ教材に比べより地域に密着し,教科書には載ることのない文化を紹介してくれる。
そこで,ビデオ教材とテレビ番組をそれぞれ視聴してみて,それぞれにどのような利点があるのかを調べた。
V 結論
ビデオ教材は地域の概要,教科書の内容を映像を用いて生徒に理解させる場面,つまり単元の導入や内容説明時に用いることが有効であり,テレビの教材としての利用は生徒に新しい発見や疑問をたくさん生じさせる場面,つまり単元のまとめやテーマを示して考えさせる授業に用いることが有効であると言える。
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唐沢菜歌 | ハンセン病療養所における子どもの教育-栗生楽生園において- |
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2001年5月11日,ハンセン病国家賠償請求訴訟・熊本地裁判決で国は「過度に人権を無視したライ予防法などの政策は違憲」とする元患者の主張を全面的に見とめた。ハンセン病はかつて「遺伝病」「業病」などと言われ,特効薬プロミンのない時代「不治の病」などと慢性の感染病として,社会の偏見や差別の中「強制隔離」を余儀なくされた。しかし長くはない人生だとされ,家族や社会から離され,絶望の中にあったと思われる「療養所」には子どもの教育が行われていた。未来の希望を失って「療養所」に連れてこられた子ども達にどのような教育観や子ども観を持って教育を実践していたのか。本論はそのハンセン病療養所における子どもの教育観を,当時の教師のあとさきや実際に教育を受けていた方々の話しから明らかにしていく。また'教育'に焦点を合わせるため,時代をある期間に絞り,大きく二つに分けた。一つは栗生楽泉園ができるまで「らい病」の患者がある特定の場で自治を行って生活していた,「自由療養村・湯ノ沢部落」期の1916~1941年と,部落が解散し国が収容し管理するようになった「栗生楽泉園」期の1941~1955年までである。また当時の社会情勢や生活も子どもの教育を考える上で大きく繁栄するため,それらと同時並行しながら考察していった。
湯ノ沢部落では全国から集まってくる病人の宿泊代,お灸代,入浴代などで,患者は暮らして行くことが出来た。部落の子どもの生活情況は「衛生状況を見るに,住宅の不良・下水溝渠の設備不完全なるを始め,一般に極めて不良なり」との報告もあるように,けして恵まれた環境下にはなかった。そんな中子どもの保護・救済事業に着手したのが,コン・ウォール・リーである。彼女は女児ホームをはじめ,男子,婦人,夫婦舎ホームや医院,児童患者のための小学校,患者の親を持つ女児と男児のそれぞれの養護施設などを次々とも受けた。
1925年に湯ノ沢には33名の学童児童がいた。その中に幼くして発病し,草津小学校に入学できずにいる病児が18名いた。リーは同年これらの児童のために寺子屋式の教室を設け,ホーム患者の中より学識のあるものを選んで教育にあたらせた。1922年,1928年の両年に施設及び教師陣の充実をそれぞれはかり,入学についても信者の子供に限定しないで湯ノ沢部落の全病児を対象にした。また,各種労働に従事する青年たちを対象に珠算,習字,歴史等の科目で夜学校を開校している。これらは聖バルナバ小学校と名づけられ,午前,昼間,夜間と開かれた。
ここの教師であった高原邦吉の短歌作品を始め,彼が病を重くして教師を辞した後に引き継いだ教師たちの短歌が,「高原」という雑誌に多く掲載されている。これらの作品を通して当時の教育観を追った。高原の作品は子どもを歌う作品ばかりで,いつでも子供たちのことを考え,思っていることがうかがえた。自分と同じ病を背負って,親もとからはなさられ,後長くもない人生を知って生きなくてはならない子ども達への同情や憐れみ,だからこそせめて今だけでも楽しく過ごしてほしいと願う親心がひしひしと伝わってくる作品が多い。子ども達の心情が理解できるだけに辛い思いを抱え,そしてその文温かいまなざしが子ども達に注がれていた。また彼は子ども達と生活を共にしていたので,父親として子を心配し愛情を注いでいた。勉強をさせ,学ばせる以前に,今を少しでも楽しく過ごさせてやりたい,そんな思いで教師と言う立場でいたのもそんなとこからきている。またほかの教師の作品からも自由と愛情に重きを置いて厳しい教えは避けていこう・・そんな願いがおおく見られた。そんな中,広坂美津夫という患者教師の作品は,療養所生活にも学問は必要と思い教鞭を振るうといった気持ちが現れ,目を見張るものがあった。彼のように,学ぶことは,病気を抱えていようがいまいが関係なく,生きていく上で必要なことだと考えている教師よりも,高原のように親のような思いで見守る教師像がこの時代には多く,また自然な子ども観であったと考察できる。だからこそ広坂の教師観は貴重ではないだろうか。
湯ノ沢部落が吸収され,聖バルナバ小学校も廃校となった。栗生楽泉園では「自由地区」が設けられるなど比較的患者の意向が反映された部分もあった。しかし戦争が本格的になり,「療養所」の生活も厳しいものとなっていく。所内生活は療養所とは名ばかりに,患者に労働を強いる収容所にちかった。食料もそこを切るような中,木炭運搬,薪運搬,木管修理,雪かきなどの作業を課さられ,火葬場の煙突の煙が絶えるまもなかった。
当時学童年齢であった沢田五郎氏の聞き取りによると,始めは,生きがいもなく絶望の中にいる大人達の中にいるよりは,子どもは子ども同士でいたほうが良い・・そんな思いがあったようである。ここでも寺子屋式の授業が患者の大人達の手によって開かれた。しかしここでの教育方針も「国語,算数の最低限の基礎知識を施せばよい,いろいろ学問を修めても,それを生かす社会がない。遊び相手として努めよう」そんな教育観の中にあったようだ。教師自身病気を抱え治療もあり,そのうえ他にも掛け持ちで仕事をしていた。また子ども達も治療があるため,なかなか授業も出来なかったのが実情であった。健康があって自由が利くときだけでも楽しくあそばせてやりたい・・そんな教育方針が基礎にあった。しかしやはりそんななかでも「勉強しなくちゃいけないときには,しなくてはいけない。遊んでないで帰れ」そう沢田氏に言ってくれた人がいたと言う。彼は教師ではなかったが,教育の原点を普遍性を説いていたように思われる。たしかにやがて短い人生を終えるだろう子ども達のことを思えば,寂しさや苦しさを忘れさせ,ひとときでも明るく楽しい時間を与えてやりたい。そうおもうのが,当時の患者の置かれた情況からはむしろ常識であったと思われる。しかしここで「教育」の本来の意味を私自身問いださせられた。たとえ短い人生であっても,十分な学問を通して,時には故人の生き様を自分に取り入れ,自分の存在を感じたり,人について深く考えることで,必ずそれは自分に返ってくる,そういった学習の喜びは必ず生きる力に通じ,生きる勇気に変わると言うことを教えられた。どの時代にも子どもを心から愛し見守る教師が存在した。またその教師たちも,子ども達から生きる力と勇気を与えられていた。院内教育をはじめ,障害児教育もまだまだ始まったばかりである。教育の原点に戻ることは,子どもに生きる力を与えることにつながる。
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佐川徳之 | 秋田市における人口の変化についての研究 |
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I 研究の目的
秋田県において秋田市周辺地域では人口は増加しているものの,他の市町村では減少して過疎化が進んでおり全体的に見ると人口が減少しているとされている。本研究では,実際のところ,どのような変化を遂げているかを市町村間の人口移動や,県外との人口移動などを見ながらそれを明らかにしていきたいと考える。また,人口が増加していると思われる秋田市の人口についても秋田市内の地区別人口の推移などを見ながら人口分布,秋田市内にいくつかある新興住宅地を概観し,その中でも規模の大きなものを取り上げ,秋田市の人口増加へ向けての取り組み,具体的な開発などにも目を向けたいと考える。
II 研究の結果
まず,秋田県の人口が減少の一途をたどっているのには,2つの大きな原因があると私は考える。まず一つは自然動態に関してで,少子化の拡大による自然減となっていることである。これは秋田県だけでなく日本全体で抱えている問題である。一旦少子化が始まると,いつかその人口の少ない世代が子供を産む年代になった時にはさらに少子化が進んでいく。その世代がたくさん子供を産めば徐々にではあるが少子化は縮小していくのだろうが現時点ではそうなることは考えにくい。したがって少子化は悪循環となっていくと考えられる。
もう一つは,社会動態に関してで,秋田県の県外に対する転入人口超過数は大きくマイナス,つまり転出超過となっている。これは大きく見ると関東圏,特に首都圏への一極集中となっている現在の日本における政治体質が大きな原因となっているのではないかと考える。そのため人口も首都圏へ流入,集中していく。秋田新幹線の開業や,秋田自動車道の開通などで首都圏との時間距離は大幅に短縮してはいるのだが,その恩恵を一番受けているはずの秋田市でさえ県内移動ではプラスであるが県外移動ではマイナスとなっているのだ。その結果,人口の流出,特に若い世代の流入がさらなる自然減を引き起こす。ここでもまた悪循環が起こる可能性は高いと考えられる。
秋田県内では人口は秋田市への一極集中となっているが秋田市の人口も伸び悩んでいる。御所野ニュータウンの計画の際,秋田市は平成7年に人口が40万人に到達する予測を立てている。秋田県や秋田市は高速交通体系の整備,ニュータウンの建設などを行い人口の増加をはかっているが,人口増加率が年々低下していることを考えると,今後も今までと同様に秋田県の人口を吸い上げるだけにとどまることが予想される。そうならないためにも住宅地周辺の環境を整備し住みやすい街にしていかなくてはならないのではないか。
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佐藤徹弥 | サッカーが国や地域に及ぼす効果 |
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I 目的と研究方法
日韓ワールドカップ共催が,近づき様々な機関によってその効果が研究されている。その中で,具体的にどのような効果がもたらされているのか,またサッカーを産業としてみた場合,どのような効果がもたらされるかを調べることを目的とした。
これまでの研究では,Jリーグにおける波及効果の対象として磐田市や鹿島町(現鹿島市)など,主に小都市が挙げられてきた。本論文では,従来の小都市から対象を県庁所在地である浦和市に広げた。また,浦和市と対称に「サッカー」によって町興しに成功した鹿島町も論述対象に挙げた。また,歴史的出来事である「日韓ワールドカップ共催」についてもJリーグが地域に及ぼす以上に,国や地域への波及効果があると考え,前回フランスワールドカップにおける波及効果を事例とし,多方面から考察をした。
研究方法としては,主に関係機関への聞き込み,資料収集を行った。浦和レッズ事務局や市役所,サポーターズクラブ会員の方などには,地域の取り組みや企業の取り組みについての活動を学べると思い,調査に協力して頂いた。その結果,外側からではなく,内側からプロサッカーチームが及ぼす効果について有益な情報を得ることができた。ワールドカップについても,埼玉市の市役所に聞き取りをはじめ,日本プロサッカーリーグの公開資料や参考文献から研究を行った。
II ホームタウンについて
Jリーグは「地域に密着する」ことを標榜し,「ホームタウン制」をとった。地元自治体は競技場整備のため何億,何十億という巨額を投じた。それは,地域のスポーツ文化の振興や青少年の育成,経済効果など様々なJリーグ効果を期待した表れであった。地元自治体は,お金を投資して「あとは市民が楽しめる試合をやってくれればよい」ということではなくプロサッカークラブが,多方面から地域の生活を「豊か」なものにしてくれることを願っている。クラブ運営のために大金を投じているのはスポンサー企業である。しかし,プロサッカークラブは市民のものである。
プロサッカークラブとホームタウンは「恋人同士」のようなものである。互いに求め合い,互いに与え合う中で,相互の信頼関係の元に「豊かさ」を築いていく。しかしこの当たり前の関係を保っているチームは少ない。確かに,Jリーグ発足当時の全盛期には多くのホームタウンとプロサッカークラブがこの関係にあった。しかしJリーグの人気の衰退と共に多くの場合,この関係が薄れていってしまっている。その結果が,今となって経済効果の減少やメインスポンサーの撤退など,チームにもホームタウンにもマイナスの影響を及ぼしている。今もなおホームタウンとして,プロサッカークラブとして充実している浦和や鹿島は,このホームタウンとプロサッカークラブの「恋愛関係」を,Jリーグ発足当時から今日に至るまで大事にしてきているのである。
III 日韓ワールドカップの効果
日韓ワールドカップ共催の意義は,日本のサッカー関係者側から見れば,サッカーを国民的なスポーツに成長させる事やアジアのサッカー界の交流・発展のために積極的に貢献する事,もっと身近にはJリーグが持続的に発展していく事など,総じてサッカーを中心としたスポーツの振興,スポーツ文化の定着という事が考えられる。
国側から見れば,共催という形でワールドカップを行うことにより,日韓友好関係の確立や相互理解の促進が考えられる。また,開催地が東京を除いた10自治体という事で高速交通体系・高度情報通信網の整備と,多極分散型社会を形成する契機になると考えられる。当時に日韓共催ワールドカップを契機として,情報通信や環境・エネルギー関係の技術革新・技術開発が進展し,新しい産業が誕生するなど,日本経済の発展と安定に寄与する事も考えられる。加えて,スタジアムの設計や建設工事を国際的に開かれた社会経済システムの下で行うなど,遅れている国際化を実現する機会としても日韓共催ワールドカップは大きな意義を持っていると考えられる。
地域あるいは地方自治体の立場から見れば,ワールドカップの共催を契機に地域の活性化を図ることに意義がある。スタジアムや道路等の建設投資や観戦客の消費資質に伴う経済成長への寄与,地域間競争から生まれる地域の独自性の確立が考えられる。具体的に考えれば,スタジアムや公園・道路等の社会資産の整備補充,地域スポーツの振興,スポーツ文化の定着,あるいは国際意識であるとか,ボランティア精神を育成するなどの意義や効果ということになる。また,開催地に東京が含まれないことから,東京を経由しない独自の国際交流も期待される。
IV 終わりに
国,地域に及ぼす効果について考察してきたが,「サッカー」が,国に及ぼす効果として経済活動にとどまらず,政治の面にも大きな影響を及ぼすことが理解できた。
また地域単位でサッカーが及ぼす影響を考察してみた結果は,経済効果よりも国際的なイメージ向上やスポーツ文化の振興,ボランティア精神の育成など地域振興につながる効果の方が大きな影響を及ぼすことが理解できた。サッカーという名の国際スポーツの振興は,自治体が地域づくりの理念や目標像を住民に知らしめる良い機会となったり,自然や文化,産業などの地域独特の魅力を世界に向けて発信するきっかけとなったりするのである。また,地域に世界各国の人たちが集まって来ることから,地域の人々が世界の人々と直接交流する機会ができる。地域経済や産業の活性化に寄与し,文化・生活環境の整備・拡充を進展させ,住民がゆとりや豊かさを実感できる地域社会を創ることができる。
サッカーは,「世界で最も愛されているスポーツ」だと言われている。それ故に,その他のスポーツに比べ影響力が強い。日韓ワールドカップ開催は世界に大きな影響をもたらす機会である。サッカーというスポーツにおける効果は,地域,一国家にとどまるものではない。米国のテロ事件や様々な国際紛争など暗いニュースが多い中,サッカーによって,国際交流が深まり,世界が一つとなることを期待している。
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松尾晴記 | テクノと日本人―クラブミュージックが日本に浸透しない理由― |
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I 本研究の目的
テクノ・ミュージックは,言葉,メロディーも無く,淡々と反復を続ける特異な音楽である。この奇形な音楽が世界中で受け入れられてなぜ日本では浸透しないのか,その理由を国民性,社会性から本研究では明らかにする。
II クラブシーンの成熟―アメリカを事例に―
この章では,現時点でのテクノの最大の供給地である,「クラブ」の形成,変遷の様子をアメリカを中心に紹介する。
III テクノと日本人
この章では,テクノを始めとするクラブ・ミュージックはなぜ日本で浸透しないのか?という設問に対する答えを,国民性,日本の音楽産業,ドラッグという観点で分析していく。
IV 結論
テクノという言葉もメロディーも存在しない音楽は,カラオケ・カルチャーを生み出した日本には,やはり浸透しにくいということにも頷ける。近年のヒット曲生産のメカニズムに目をやっても,テレビ,コマーシャル等のタイアップが大きな比重を占めている。言葉,メロディーがそこでは絶対的な位置を占め,それらが欠如しているテクノは,仮にテレビを通して流れたとしても(実際,いくつかのもので使用されてはいるが)バック・グラウンド・ミュージックの域を越えることは無い。しかし,宇多田ヒカルのヒットにも現れているように「自分の耳でよい曲を判断する」という力がここ日本でも養われてきているというのも事実である。それには,日本の音楽産業,そしてリスナーの姿勢が変化してきていることが非常に大きい。
しかし,テクノにとって最も大きく,そして最も受け入れられにくい特徴がある。それは,一般のリスナーの想像を絶する「リズムの反復」である。この「リズムの反復」は,テクノの最大の武器であり,そして最大の欠点でもある。つまり,一般のリスナーには全て「同じもの」に聴こえるのである。この「反復」の微妙な変化をテクノ・リスナーは追いかけるのである。この,変化に気づくには,長時間に渡る,つまり一晩を通して再生される「旅」を経験することが近道である。やはり,テクノにとって最も広い門戸は「クラブ」なのである。
クラブ・カルチャーは,「深い絶望から逃避する」という所に,端を発している。しかし現在,日本にはとりたてて深い絶望は無い。しかも,娯楽として楽しむ機能は,クラブ以外に多数存在し,「オールナイト」という特殊な形態をとるクラブが選択肢にあがることはまず,無い。つまり魅力を感じていないのである。
クラブの魅力の1つとして,同じ音楽を愛好する他者と接触できる,ということがあげられる。この「他者との接触」を誤解している人間が日本には多くいる。つまり「ナンパ」としてとらえがちなのである。もちろん,性的な交流を求めてクラブに出向く者も多数存在する。しかし,それだけでは無いのである。同じ音楽を愛する人間と話をし,それを共有する。これは,非常にすばらしいことではないだろうか。しかし,日本人の人間関係を「内」と「外」に区別する国民性ゆえに,なかなか「外」に世界を広げることができない。つまり,他者に話しかけられないがゆえに「他者との接触」による楽しみが見つけられないのである。
また,クラブに存在する「音」自体を楽しむというのも,もちろん魅力の1つである。しかし,メロディー慣れした日本人は,「反復の快楽」になかなか気づくことができない。海外では,ドラッグを用い,その音の変化に気づきやすい環境をつくることができる。が,ここ日本ではそうはいかない。近道とは言っても,音に敏感になることが必要なのである。
しかし,この奇形な音楽に私は絶対的な魅力を感じる。この言葉もメロディーも存在しない「テクノ」という音楽に私がはじめて触れたときに,日本のミュージシャンやリスナーにとっての「国境」というハードルを劇的に低くさせていくだろうと思ったものである。地球上のどこに住んでいようとも,そんなことは音楽を作ったり発表したり聴いたりすることには関係の無いものになっていくのかもしれないという予感は私を興奮させた。楽器もスタジオも要らない,メンバーを集める必要も無い,たった一人で,自宅の部屋で,ちょっとした思い付きがあれば音楽を作ることができるという可能性,そしてそれが,どこかのクラブで流される可能性が飛躍的に大きくなったということが,テクノの性質のように思う。少し音に敏感になれば,このような未来の音に触れることができるのである。
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安田麻衣子 | 地方中心市街地の再活性化について-秋田市中心市街地を事例に- |
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I はじめに
かつて,東京をはじめとする大都市圏では,地価の高い都心をさけ,郊外に住宅地を求める動きが見られ,都心の空洞化がさけばれたが,それは地方都市においても同様のことであった。1980年代以降におけるモータリゼーションの進展により,これに対応した新しい商業施設や住宅地などの都市機能は,郊外に立地されたのである。それまで,大きな『求心性』をもっていた地方都市の中心市街地は,モータリゼーションに対する対応の遅れなどから,衰退に至った。しかし,中心市街地とはその街の『顔』であり,また資源的,福祉的,景観保護の観点からも衰退を進行させてしまうには問題があり,再活性化させることが求められるのである。本研究では秋田県秋田市における中心市街地を事例に挙げ,その形成から衰退にいたるまでの背景や,これから行われる再開発事業の方向性を明らかにしていく。
2.研究方法
秋田市中心市街地が衰退するに至った背景について,秋田県内における自動車保有量の変化をもとにモータリゼーションの発展や郊外の変化の様子,それにともなう中心市街地の商業活動の変化について,「商業統計調査」をはじめとする各種統計資料や,秋田市作成の資料などをもとに考察するとともに,現在推進されている秋田市中心市街地における再開発事業および,秋田駅周辺の整備事業について言及する。
3.秋田市の概要
秋田県の日本海側沿岸のほぼ中央に位置し,面積は460平方キロメートルで,秋田県の県都として政治・経済・文化の中心的役割を果たしてきた。人口は31万8971人(平成13年12月現在),秋田県の人口の4分の1を占め,年々増加傾向にある。秋田市内の就業者の7割は第3次産業に従事しており,商業的要素の高い都市である。地場産業としては,秋田県内の豊かな天然資源を利用した木材・木製品製造,非鉄金属製造,清酒製造がさかんで,近年では企業誘致によりエレクトロニクス関係企業の伸びもめざましい。平成9年4月には中核市の指定を受け,北東北の拠点としての役割も果たしている。
II 秋田市中心市街地における現状と課題
1.調査対象地域について
調査地域である秋田市中心市街地とは,秋田駅西口から2丁目橋に至る,広小路と中央通にはさまれた約16.8ヘクタールの地域である。この地域には4つの商店街が存在するが,どの商店街も現在では店舗が点在しており,連続性を欠いている。近年では,大規模休閑地が増加しており,魅力の低下などから,衰退が著しく見られる。
2.秋田市中心市街地衰退の背景
まず要因として考えられるのは,中心市街地が,モータリゼーションの発展に対応していないということである。大都市に比べ,地方都市においては公共交通機関の発達が十分ではなく,移動手段手段として自動車に頼らざるをえないとされるが,秋田県内においてもその傾向が見られる。
地価の高い中心部をさけ,ニュータウン建設は郊外になされてきたわけだが,そこには商業施設なども建設され,新たな都心が形成された。秋田市においても,1980年代後半からこのような動きが顕著に見られるようになり,商業形態は大きく様変わりしたといえる。
中心市街地の衰退には,中心部の人口減少も考えられる。地価の高い中心部をさけ,住宅地建設が郊外でなされたこと,道路基盤の整備などが進み,自動車での移動性が向上したことなどから,中心部に居住することのメリットが失われ,人口が減少したと考えられる。
人々の生活が自動車中心となり,居住地を郊外へと求め,またそこに自動車社会に対応した商業施設が展開されるようになると,人々の商業活動の場も中心市街地から郊外へとシフトした。その結果,集客できなくなった中心市街地の大型店や,商店街の店舗は閉店へと追い込まれる状況となった。現在の秋田市中心市街地では,いたるところに空き店舗や休閑地,また休閑地を利用した暫定平面駐車場などがみられ,来街者の魅力を喪失させている。
3.中心市街地衰退による問題点
中心市街地は,長年において商業や業務などさまざまな機能が集まり,人々の生活や娯楽や交流の場となり,長い歴史の中で独自の伝統を育むなど,その街の個性を代表する「顔」として,その役割を果たしてきた。しかし,現在ではさまざまな要因により,衰退が見られる。しかし,若年層や高齢者など,自動車を保有しないものにとって,公共交通機関を使って買物に行くことの出来る中心市街地が衰退することは,彼らの消費活動をしずらいものにしている。また,中心市街地に期待される役割に,商業業務など都市機能が集積しているため,住民や事業者にまとまったサービスが提供できること,またさまざまな企業が互いに交流することによって,効率的な経済活動ができ,新たな事業や文化の誕生が期待できるなどあるが,現在の状態では,その役割を十分に果たすことは難しい。
III 秋田市中心市街地再開発事業について
1.中心市街地再開発に向けて
中心市街地の衰退の要因は郊外化現象によるものであり,それにはモータリゼーションの発展が大きく関与していることから,再び活性化させるために方向性としては次のことが考えられる。まず,モータリゼーションの発展に対応して郊外との競争力を回復させることである。このためには,自動車を利用する消費者の動きに対応するため,駐車場が十分に整備され,中心市街地へのアクセス性を高めるための道路基盤を創りださなければならない。また郊外の大規模店舗が,これまで中心市街地の大規模店舗にさまざまな差別化をはかってきたのに対して,これからは,郊外に劣らぬ質・量・サービス・価格で商品を提供し,消費者ニーズにこたえられる商業活動を行っていかなければならない。これらを基盤として中心市街地の魅力が向上すれば,来街者が増加し,中心市街地に対するさまざまな需要が拡大することが考えられる。
2.秋田市中心市街地における再活性化
秋田市では,中心市街地衰退に歯止めをかける再活性化の方策として,これまでいくつかの再開発事業を進めてきた。現在は,ほとんどが計画決定の段階にあり,今後はさまざまな計画変更も予想される。これらは秋田市中心市街地の将来を左右するものであり,慎重な検討が必要である。
IV むすびにかえて
中心市街地の衰退の要因となった郊外化は,商業施設や行政が多くの人々のニーズに答え形成されたことによるものであった。中心市街地のほかにこのような新たな都心が生まれることは商業施設にとっては厳しい競争となるが,その分消費者獲得のためのサービスの向上などが行われることが考えられ,消費者にとって歓迎すべきことは多い。しかし中心市街地とは,誰もが自由に,平等に結束できる空間であり,その都市の地区文化,地域性の表現場所としての役割を担っている。よってこういった場所は,常に活気ある場であるべきではないだろうか。
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山下智弘 | 上信越道開通による周辺地域の変化 |
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I 研究の目的・方法
高速交通網の整備が周辺地域に及ぼす影響について,主に人口,土地利用,産業構造の3つの観点から調査しようと考えた。自分の田舎である長野市に高速道路が開通したことにより,街中が大きく変化したということはないが,沿線をたどっていけば,どこかに大きく影響を受けた場所があると思い事前調査をした結果,以前は大部分が農村地であった佐久市周辺都市化が進んでいると知り,今回の調査対象地点とした。
II 交通量と陸運産業
まず高速道路の開通による車の流れの変化を調べるために,開通前後の交通量の比較が容易であると思われる県境区間を調査対象地点とし,車種別の通行量の増減を調べた。碓氷バイパスの交通量は,細分化した資料がなかったため,詳しくは調査できなかったが,おおまかな傾向として,高速道路は開通後順調に交通量を増加させているが,碓氷バイパスは交通量が減少していることがわかった。しかし,碓氷バイパスの交通量の減少数は,予想よりも小さく,高速道路開通後もそれなりの需要があった。
III 人口の変化
長野県の人口は全国47都道府県中16位の219万人あり,平成2年と平成7年を比較すると,約1.7%の増加となっている。
長野県で人口が増加している地域は,都市部を除けばほとんどが高速道路沿いであり,ルートから外れる市町村では,ほとんどの所で人口が減少している。また,県内はローカル線が多く列車の本数が少ないので,鉄道よりは道路交通の便が良い地域で人口が増加している。
一方産業別人口は,第3次産業のみが増加しており,第1,2次産業は減少の一途である。これは全国的な傾向であるが,長野県は全就業者人口に占める第3次産業就業者数の割合は約50%であり,増加はしているものの全国に比べれば,まだ低い数字である。
IV 佐久市の現況
佐久市は,平成4年に上信越自動車道と北陸新幹線の開通に併せ「佐久市計画」というものを作成した。この計画の主目標は「10万都市の建設」「50万経済圏の確立」「公園都市の建設」となっている。この3点に共通して言えることは,土地の区画整理や再開発によって住宅用地や工業用地を確保し,居住や就業の機会を増加させることにより人口の増加や経済を発展させようとしていることである。
上記の「佐久市計画」に基づいて土地の区画整理や再開発が進められてきてはいるが,用地ができてもそれを利用するものが少ないというのが現状である。高速交通網や土地の整備はできたが,不況という目に見えない力が,計画の進行を妨げているといった状況である。しかし,計画通りにはいっていなくても,人口,就業者数は増加しており,それなりの成果は出てきているものと思われる。
V まとめ
上信越自動車道の開通は,周辺地域に景観の面で変化をもたらした。しかし,住民にとってはそれほど大きな影響はなかったと思われる。確かに車の通行量や人口は増加した。しかし,高速道路は身近なもののようでそうでない。毎日使用する人などほとんどいない。高速道路の開通は,便利になったことは確かだが,劇的な変化をもたらしたわけではなさそうだ。
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2000年度卒業論文 |
三宅庸介 | 過疎山村における通勤流動と産業構造の変化-埼玉県両神村の事例- |